第28話 勝ちすぎぬ勝ち方
「徳川家康様!」
納得の行かない本多忠勝は、自陣に戻るや否や、家康の前に進み出て激しく問いかけた。
「何故、優勢の我らが引かねばならぬのですか!?」
それもそのはず、家康が陣幕に帰るなり放った言葉は、「即座に陣を引き払い、三河へ全面撤退する」という思いも寄らぬ命令だったからだ。
此度の小牧・長久手の戦い。総兵力数こそ羽柴軍が圧倒していたものの、前線での局地戦、特に信康率いる遊撃部隊と真田の知略が噛み合った一戦では、徳川軍が羽柴の腰を完全に引け腰にさせていた。
「戦意旺盛、今まさに追撃の好機」と息巻く忠勝ら武闘派の家臣団からすれば、この撤退命令は到底受け入れがたいものだった。
詰め寄る忠勝を前に、家康は表情を微動だにせず、静かに口を開いた。
「平八郎。……今、この場で戦を続ければ、確かに勝てよう」
低く、しかし有無を言わせぬ重みのある声が響く。
「しかし、秀吉という男を追い詰めれば、奴は必ず全財産を投げ打ってでも手痛い反撃を仕掛けてくる。牙を剥いた化け物を正面から相手にするのは、割に合わん。……しかも忘れるな、此度の戦は、元を正せば織田家の身内の跡目争いじゃ」
家康は冷徹な目を忠勝に向けた。
「信雄殿との『義』により参戦したが、元よりあの男を信用して大博打を打ったわけではない。――戦とはな、天の時がこちらに無い場合は、『勝ちすぎぬこと』こそが最も肝要と心得よ」
今の家康に、ここまで明確な大局観をはっきりと示されては、家臣団はもう従うほか無かった。
あの信長との死闘を生き延び、そして今また、天下人になりかけた秀吉を相手に一歩も引かない主君。その圧倒的な絶対感と器の大きさは、日増しに凄みを増していた。
その後、軍を引き上げる最中、前線から驚くべき知らせが届いた。
家康の予言通り、すでに織田信雄は裏で羽柴秀吉との和解(単独講和)を進めていたのだ。もしあのまま戦を続けていれば、徳川軍はハシゴを外され、大義名分を失った状態で羽柴の全軍と戦う羽目になっていたところだった。
さらに天の悪戯か、徳川の領国が大雨に見舞われ、各地で甚大な被害が出ているとの報も入る。内政の整備のため、至急国元へ戻らねばならぬ徳川にとって、この撤退はまさに「神がかった絶妙なタイミング」での手打ちとなった。
「殿の眼力は、やはり神がかっている……」
この家康の恐るべき慧眼は、徳川家臣団の中で絶対的な求心力となり、以後、家康の決定に異議を唱える者は一人として居なくなった。徳川は、羽柴すら恐れる「鉄の一枚岩」へと変貌を遂げていく。
だが、この神がかり的な動きは、決して天運だけによるものではなかった。
羽柴軍の内部を網の目のように徹底監視していた、二人の男――石川数正と本多正信の、隠れた暗躍(インテリジェンス)の功績が極めて大きかったのだ。
そして、この時に数正が張り巡らせた羽柴陣営との太い人脈が、後に彼を「豊臣家との外交調整役」という、徳川の命運を握る極めて重要な泥泥の役割へと導いていくこととなる――。
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