猫の姿は見えない

七乃はふと

太一がおしえてくれた

〈第一話〉

 喰えない作家の私は目の前のポスターが気になった。

 その日はバイトに向かっているところだった。安いだけが取り柄のアパートを出て駅に向かう。通勤ラッシュが落ち着いた時間とはいえ、まだまだ人の姿は多い。ベルトコンベアに乗せられた食パンのように流れに乗って歩いていると、私の悪い癖が出た。

 一つの事に集中するのが苦手だ。長編を書いている途中で新しい短編を思いつき、何度長編をお蔵入りにした事か。今回も列を乱さぬようにホームへ向かわなければいけないのに、途中に立つ柱が目に入ってしまった。それは飽き性の新たな興味を引くに十分な物だった。

 柱は一種の掲示板のようになっている。利用客に向けてイベントの告知や交通広告の案内のポスターが貼られてる中で異質とも言える顔写真達。

 指名手配班のポスターだ。写真もあれば似顔絵もあり、子供から大人まで利用する駅に貼られていると考えると、少し薄寒いものを覚える。

 ドンと背中を押された。振り向くと数珠つながりの人々がホームの登り階段に向かっていく。どうやら柱前に立っていたのがいけなかったようだ。

 背中を押されてバイトの出勤時間を思い出した私は流れに乗るように歩き出そうとした。

 そこで、再び気になるポスターを見つけてしまった。


 〈この人を探しています〉

 :氏名 道端ミチバタカエデ

 :失踪時の年齢 六十歳

 :失踪時の格好 上下灰色のスウェットの上に青色の半纏

 :失踪時の状況 自宅から外に出たまま帰宅せず


 行方不明者の情報を募るポスターだ。警察の電話番号が記載されているので、フェイクではなさそうだった。いつから貼られているのか、柱の一角を埋め尽くすほど大きな指名手配犯のポスターに比べて明らかに小さな一枚が孤立するように貼り付けられている。

 失踪したのがいつか見ると、なんと三十年以上も前。第三者から見ても絶望的なのは明らかだった。だがそんなポスターの一文が私の興味を強く強く惹きつける。

『猫? を抱いた写真』

 そう記載された写真にはミチバタカエデさんと思われる老人が赤いちゃんちゃんこを着て胡座をかきカメラ目線でこちらを見上げている。

 そんな穏やかな日常を切り取った写真だが、確かに猫は見当たらない。

 警察が冗談を言う筈もない。もし冗談で書いたとしたら今頃ネットの玩具にされているだろう。じゃあこのクエスチョンマークが付けられた猫とは何なのだろうか。


 :タチバナカエデ氏が失踪当日に残したと思われるメモ

『太一がおしえてくれた』


 ズボンのポケットが震えていることに気づく。取り出して見ると眼球が飛び出しそうになった。とっくに出勤時間を過ぎていたのだ。

 私は上司に平謝りしながら、急いでホームの階段を登った。


 遅刻したが、何とか契約通りの勤務を終えた私は駅のホームで電車を待っていた。いつもの時間になっても電車到着のアナウンスが流れない。瞼を閉じた電光掲示板を眺めていると、パッと表示されたのは人身事故による遅延。調べるとそこまで大事故では無いそうなので、何十分も待つことはなさそうだ。

 安心すると、手持ち無沙汰な事に気づく。持っている百物語の文庫は休憩中に読み終えてしまった。

 次に書く小説のネタを探してあたりを見回す。ぐったりと首を落としたサラリーマン、階段下で雑談に花を咲かす女子高生達。子供をあやす母親。

 とても物語の始まりに使えそうに無い。

 帰ったら、またあのポスターを見にいくか。そう思いながら電車を待っている時だった。

「タイチ、ここにいるのかい?」

 隣に立った女性が誰かと話している。気づかれないように目だけ動かすと、そこには一人のおばあさん。歳は七十か八十くらい。腰はまっすぐだが顔に刻まれた皺の深さは長年の苦労の跡のようだ。

 おばあさんは手に持った四角い物を見ながら話している。恐らくスマホだろう。慣れないカメラ通話に悪戦苦闘している様子だ。

「本当に見えるの。さっきから私の顔しか映らないけど」

 スマホを天に翳しながら、私の方に顔を向けた。お互い一瞬目が合ってしまう。その時スマホの画面が見えてしまった。声をかけられる前に目を逸らして、その場から離れた。

 距離を取った私はスマホをみているフリをして電車を待つ。

「えっ、ああ、本当だ。映った。映ったよ。私です。聞こえますか? ええ、この子が連れてきてくれたんですよ」

 電車が来た。私はすぐさま乗り込む。おばあさんは電車に気づいていないようで、スマホと足元を交互に見ながら話し続けていた。

 もし使い方教えてくださいと言われたらどうしたら良かったのだろうか。おばあさんの持っているスマホ。それはどう見ても手鏡だったのだ。

 その時の私は行方不明者のポスターの事などすっかり忘れてしまっていた。


 翌週、雨が降っていた。

 バイト帰りの電車を待っていると、あのおばあさんを見かけた。先週は手鏡をスマホのように扱っていたのに、今はそういう素振りを見せずホームに入ってくる電車を見つめている。その眼差しは何か大切な目的があるかのように感じられた。

 私は同じ電車に乗り込む。おばあさんは空いている座席を探すかのように左右に首を振ると、誰も座ってない優先席でなく一人ぶん空いている座席の隙間に座り込んだ。

 座っても背筋をピンと伸ばし、どこか気品を感じられる。おばあさんは雨粒が弾けて滑る窓をジッと見つめている。両手は膝の上。いや、お腹でも痛いのだろうか、おへその上のあたりを撫でている。

「また会えましたね」

 再会を喜ぶ声が車内に響いた。

「一週間ぶりです。この子が教えてくれないと会えないんですよ。あなたも会いに来てくださいよ。ええ。そちらがとても過ごしやすいことは分かっています」

 隣に座っていた乗客が、何食わぬ顔で立ち上がっていく。おばあさんはそれに気づく様子はない。

「……はい。必要なもの仰ってください。用意しますから」

 おばあさんは手帳を取り出すと、窓を見ながら何か書き留める。

「あなたがいけないんですよ。着の身着のまま行ってしまうんだから」

 私は降りる駅に着いたので降りたが、去り際の車内のおばあさんは濡れた窓に向かって口を動かし続けていた。


 翌週、先週と同じ時間におばあさんはいた。座席に座り隣にはイヤフォンをしたサラリーマン。反対の座席は空いている。

 そこに女性が座ろうとした。

「タイチ。そこ邪魔だから退きましょうね」

 見えない何かを持ち上げる仕草。そしていつものように誰かと話し始める。今度は……。

「お久しぶりです」

 窓ではなく、サラリーマンに話しかけている。

「はい。必要な物は用意できましたよ。持ってくのに一苦労です、なんて冗談です。そんな不貞腐れないでくださいよ」

 サラリーマンは瞼を閉じて寝ているようだが、痙攣するように瞼が震えていた。おばあさんは気にする様子もなく話しかけている。

「翌週にはそちらに伺います。ええ。日時は間違えませんよ。ちょっといつの事を思い出しているんですか。大丈夫です。こっちにはタイチがついているんですから」

 おばあさんはサラリーマンが膝の上に置いた水のペットボトルに延々と話しかけていた。


 翌週。

 そちらに向かうと言っていたことを覚えていた私は、当日も当然のように姿を追い求めるつもりだった。しかし残業となってしまい、いつもの時間より大幅に遅れて駅に着く。人の行動を盗み見た罰が当たったのだろう。

 改札を抜けると、すぐ近くにある女性用トイレに人だかり。人垣の隙間から見えるのは出入り口側で横倒しになった水浸しのスーツケース。

「離してください。私は行かないといけないんです。今行かないと次いつ会えるか――」

 女性駅員に取り押さえられるように両脇を抱えられて出てきたのは、あのおばあさんだった。

 おばあさんはトイレで水浴びで押したようにびしょ濡れでメイクは崩れ、おろしたてか皺ひとつない服から水滴がとめどなく垂れる。

 駅員が救急車を呼ぶ声とおばあさんの話し手の声が駅構内に木霊していた。


 〈第二話〉

『それが、次の話を書くきっかけ?』

 私は情報通兼唯一気心の知れた八分咲ハチブザキサクラさんに駅での一部始終を話していた。

「ええ。そうです」

『でもさ。それだけで書くの難しくないか。いや僕は書いた事ないから何とも言えないけど』

「実は続きがあるんです」

 トイレでの騒動を見てから、おばあさんの姿を見ることは無くなった。その後、あの柱が目に入った。行方不明者のポスターが一枚から二枚に増えていた。


 〈この人を探しています〉

 :氏名 道端ミチバタモミジ

 :失踪時の年齢 七十五歳

 :失踪時の格好 麦わらぼうし 色付き老眼鏡 白いチュニック 紺のワイドパンツ

 :失踪時の状況 勤務先に『夫に会いに行きます』と電話をかけた後の消息が不明


 私が駅で見たおばあさんと特徴がそっくりだった。貼られた同僚との旅行の写真に写っていたのは紛れもなく駅で見かけたおばあさんであった。

 しかも苗字が隣に貼られているミチバタカエデさんと同じ。これは偶然ではないのだろうか。

 そう考えている時だった。

「あの、モミジさんのお知り合いの方ですか」

 振り向くとそこには一人の女性の姿。ブラウスにスカート、スクールバッグとどうやら学生のようだ。

「い、いえ、私は何も知りません」

 離れようとすると、私の肩から下げたトートバッグを掴まれる。その力は何が何でも話を聞きたいという強い意志を感じさせた。


「すいませんでした」

 駅近のコーヒーショップに私は座っていた。終始落ち着かない。滅多に利用しないこともあるが目の前に初対面の高校生。側から見たらどんな関係かと勘繰られていそうで居心地が悪い。

 対面に座っているのは真中マナカ真子マコさん。高校に通う彼女が何故接点もない私に話しかけてきたのか。

「私、モミジさんと同じ職場で働いているんです」

 マナカさんは夜間学校に通っていて、午前中はスーパーでバイトをしている。その先輩の一人が行方不明のミチバタモミジさん。

「モミジさん。入って失敗ばかりの私にも優しく接してくれました。猫と旅行が好きだったみたいで。休憩時間になると、一緒に暮らしている黒猫のことを話してくれたり、以前行ったことのある旅行先の思い出を懐かしむように話してくれたんです。私は行ったことのないのに、聞いているうちに情景が思い浮かんできて、本当のおばあちゃんのような人でした」

「その、ミチバタモミジさんが失踪した理由に心当たりはあるのですか」

「ありません。最初聞いた時は事件に巻き込まれたと思ったのですが、いなくなる直前に話してくれた事を思い出したんです」

「それはマナカさんだけに教えてくれたのですか」

 マナカさんは「はい」と頷いた

「いなくなってしまったあの人がいる場所が分かったの。って言ってました。その時のモミジさん。とても若々しくて、まるで恋する乙女のようでした。だからいなくなったとか事件に巻き込まれたんじゃないと思うんです」

「旦那さんに会いに行ったということですね」

「そうだと思うんです。でも職場の人達は事件に巻き込まれたとか、ボケてしまったとか、心無いことばかり言うんです。反論したくても確かな証拠がなくて、せめて納得できる理由があれば……」

「あまり波風立てるのはよくないと思います」

「どういうことでしょうか」

「あなたがモミジさんを庇って職場の人達と喧嘩騒ぎになる。それをどこかでモミジさんが知ったらどう思うでしょう」

 マナカさんは「あっ」と言ったきり押し黙った。

「けど、モミジさんを心配する気持ちも分かります。ですから」

「……何か手があるんですか」

「私は小説を書いています」

 マナカさんの顔がキョトンとした表情で固まる。まあそれが普通だろう。私は警察でも探偵でもない。

「その為に沢山の資料を集めるのですが、そういうのを得意とする者と知り合いなのです」

「じゃ、じゃあ、モミジさんがいなくなってしまった理由が分かるかも知れないんですね」

「過度な期待はしないでください。あくまで分かるかも知れないという可能性です。それでもよければコレを」

「チェリーブロッサム」

 私はハチブザキさんのアドレスを教えた。

「もし私を信用してくれるのなら、そこにメッセージを送ってみてください。誠意が伝われば返事が届くはずです」

「分かりました。あの、どうかよろしくお願いします」


『陰キャのお人好し。相手は見ず知らずの高校生だよ』

「手助けしたかったんですよ」

 マナカさんとモミジさんだって血の繋がりはない。ましてや天と地ほども年は離れている。

 それでも「ほんとうのおばあちゃんのようでした」目尻に涙を溜めながらそう言い切ったマナカさんの優しさは本物だと信じたい。

「まあ、君が警察に連行されても僕は痛くも痒くもないけどね」

「マナカさんから連絡きたんですか」

「来たよ。ミチバタモミジさんだっけ。その人の安否と飼い猫の事も本気で心配しているのが文面でヒシヒシと伝わって来た。だから情報をまとめるから少し待ってなよって返しといた」

「ハチブザキさんも大概お人好しですね」

「はあっ。うっさいっての」

 電話越しに顔が赤くなっているのが容易に想像できる。

『そもそも、なんで僕を仲介役にしたのさ。直接君のアドレス教えりゃいいじゃん』

「齢四十の連絡先教えたら、それこそ通報されます」

『僕だって同い年だ』

「あなたは見た目マナカさんと同年代ですから問題ないですよ」

『好きで、この姿じゃないんだけど……』

「すいません。ハチブザキさんなら警戒されないと考えたんです。事前に相談するべきでした……」

 しばしの沈黙を打ち破る破裂音。ハチブザキさんが手を打ち鳴らしたらしい。

『はい終わり終わり。こんなことしてるくらいなら、早く彼女の心の棘を取ってあげなよ』

「ええ。じゃあ手に入れた情報を送ってください」

 タブレットにメールが届く。早速開くとミチバタ夫婦の情報がこれでもかと詰め込まれていた。音声データも入っている。

『古いカセットの録音データ。多分ミチバタカエデさんのことを知るには一番最適じゃないかな』

「早速聞いてみます」

『おっと、推しの配信の時間だ。視聴中は返事できないけど追加で欲しいのあったら教えて』

「はい。ありがとうござい――」

 途中で切れてしまった。


 〈第三話〉

 私は寝食も忘れてハチブザキさんが手に入れた資料と睨めっこしていた。

 ミチバタ夫婦は同じ鉄道会社に勤めていた。そこでお見合い結婚だったそうだ。

 ミチバタカエデさん。彼の生まれは中国で両親は日本人。戦後。命からがら日本に帰ってきたらしい。そこで鉄道会社に就職。退職までずっと運転士を勤めていた。電車との出会いは彼の趣味に大きく影響し、休みを取ったら必ずというほど国内旅行に行っていたそうだ。

 同僚には海外にも足を運んでみたいと言っていたが、モミジさんと結婚した後も国内旅行に留めていたらしい。理由は飛行機嫌いだった。

 見るのは大丈夫だが、乗ることができず、特にエンジン音を聞くと仕事に手がつかなくなってしまうほどで。上司と相談して出来る限り旅客機のルートから外れた路線を任されていた。

 何故飛行機が苦手なのか。それは音声データが教えてくれた。それは小学校に招待された時のもので、戦時中の体験を子供達に話すと言うものだった。

『……ブオオオンと空から音が聞こえてきました。その時家族や見ず知らずの人と移動していたのですが、親父の逃げろの声に私は妹の手を引いて一目散に駆け出しました。

 大人達が私達を押し除けるように走りいつの間にか最後尾にいました。このままでは置いていかれる。そう思いながら必死に走っていると足がもつれて転んでしまったんです。

 地べたに顔をぶつけるのとダダダダと降り注ぐ銃声はほぼ同時でした。至る所で土柱が立ち、吹き飛ばされた土が転んだ私の背中に勢いよく降り注いできました。音も止み、降ってくる土も落ち着いたところで私はやっと頭を上げて見たんです。

 地面は掘り返したように穴が何個も何個も空いていて所々赤く染まっていました。

 両親も、一緒に移動していた人も見当たりません。あるのは風に吹かれて飛んでいく服の切れ端だけ。

 私は妹が気になって声をかけました。けど返事はありません。手には妹の手の感触があります。だから後ろにいると思って振り向きました。妹は消えていました。私が握っていた右手だけを残して……』

 終戦後たった一人で帰国したカエデさんは泥水を啜るような生活を耐えて生きてきたことが分かった。そんな彼を支えてのは妻ともう一匹。

『暗闇を一人歩いていると目的地がどっちか分かりませんでした。夜空には目印になる大きな星があると聞いていましたが、皆さんと同じ歳くらいの私にはそれがどれだか分かりません。

 お腹も減り喉も渇いたところで目の前の暗闇に金色の星が現れたのです。見ているとじっと見返してきて次第に近づいてきます。それは闇より黒い猫でした。片目に大きな傷跡があり隻眼の瞳がまるで、たいいつ、いえ北極星のようだったのです』

 結婚したモミジさんもその黒猫のことを知っていたそうで、友達に夫は見合いの席に猫を抱いてきたと話していた。更に旅行にも一緒に連れて行き、三人家族で写真をたくさん撮ったそうだ。その写真をよく見せてくれたとパートの同僚達は言っていたそうだ。しかし猫の姿はどこにも見えなかったらしい。

 写真も送られてきたが、確かに旅行を満喫するミチバタ夫妻だけしか見えない。しかしよくよく見ていると、お腹の前で何かを抱き抱えているように両手で円を作っていた。

 仕事も趣味も充実していたカエデさんだったが、定年まで後五年の六十歳。歩行中に転倒して太ももの骨を骨折。この時は完治したら仕事に復帰する意欲はあったそうだが、退院直後、再び転倒し全く同じところを骨折してしまった。

 これにより早期退職をしたカエデさんは家から一歩も出ることはなくなったそうだ。一人で介護と生活費を捻出するモミジさんは、会社の休憩時間に夫が遠い所に行きたいと呟いていたことを話している。

 そして失踪。

 失踪に気づいたのはモミジさん。その日は仕事が休みで家事の合間に昼寝して起床後様子を見にいくと夫の姿は忽然と消えていたらしい。

 警察が撮影したモミジさんの自室には人一人が通れそうな姿見が四方に置かれ、全ての鏡面は中央を向いており、部屋の中央はバケツでぶちまけたように水浸しになっていた。

 警察はモミジさんがなんらかの理由で水を撒いて外出したと考えているそうだが、モミジさんは否定している。戦後、日本に帰ってきてからずっと一緒にいる猫のタイチの捜索もお願いしているが、警察はその姿を全く認めていないらしい。

 モミジさんが残したと思われるメモ『太一がおしえてくれた』これの解読も全く進んでいないようだ。分かっているのは太一は黒猫の名前ということだけ。


 鏡、水、夫婦と彼女にしか見えない黒猫、カエデさんが残したメモ。そしてモミジさんの駅での不思議な行動。

 私は太一というのが何か気になって調べてみた。そして意味を知ってインスピレーションが湧き上がった。


 〈第四話〉

 マコちゃんへ

 高校とバイト頑張っているかな。何も言わずにいなくなってしまってごめんなさい。

 私に何があったのかお話しします。

 夫は足を怪我してからずっと部屋に閉じこもっていました。私が入っても無反応で譫言のように「遠くへ行きたい」と漏らしていました。

 そんな彼を一番理解していたのは猫の太一でした。マコちゃんも見たことあると思うけど、太一は夫が中国から帰ってきた時からずっと一緒にいる猫なの。金色の単眼がまるで北極星のように導いてくれたと何度も話してくれました。太一は何十年経っても歳を取らず、片目の傷跡以外は毛並みも艶々していて、年老いていく私が嫉妬してしまうくらい。

 それでも私達三人はうまくやれていたと思います。私達に子供は出来なかったけど、太一が実の子供でした。

 その二人が水浸しの部屋から消えてしまった時、私は置いていかれたと思いました。二人で遠いところに行ってしまったんだって。

 でも残されたメモのお陰で私も信じてみようと思ったんです。太一が私を導いてくれると。

 そう思えたお陰で、三十年以上も耐えることが出来ました。そして本当に太一が不意に私の足元に現れたのです。最初はそっくりの猫かと思いましたが、隻眼の黒猫を見間違うはずもありません。

 ついていくと最寄りの駅でした。持参した鏡に盛んに鳴く太一に根負けして見つめていると、本当に夫が現れたの。

 しかもいなくなった時より若々しい姿でした。

 私は夫のいるところに行くために準備を進めました。いつでも行けるわけではなく太一だけがタイミングを知っているそうなのです。

 その間、私は窓に映る夫と話をして、夜は太一を抱いて寂しさを紛らわせていました。窓に話しかけている時は、正直周りの目が怖かったけれど、夫と話せることの方が何倍も嬉しかったのです。

 そして夫のいるところへの道が繋がった日。私は失敗してしまいました。駅員さんに洗面台に飛び込むところを見つかってしまったのです。

 でも、でも大丈夫。また太一がつながっている水がある所に案内してくれました。

 これをマコちゃんが読んでいる時、きっと私はこの世界にはいないでしょう。マコちゃんとも会えないのは少し寂しいですが、あなたには太一が見えていましたね。

 もし、辛いことがあったら隻眼の黒猫を探してみてください。きっと素晴らしい世界へ導いてくれますから。

 ミチバタモミジより


「マナカさん。なんて言ってましたか」

 私は書き上げた短編をハチブザキさんに頼んで彼女に送ってもらっていた。

『喜んでたよ。ありがとうございますだって』

「そうですか。それはよかった」

『……なあ、結局メモの意味なんだったんだよ。太一がおしえてくれたって』

「そのままです。黒猫が遠いところへ行く方法を知っていたのですよ」

『なんで黒猫が?』

「名前です。太一、中国ではたいいつと呼ぶとか。北極星が神格化されたものだそうです」

『成程、道標の北極星の名をもつ猫。戦後も助けてくれたみたいだし、本当に力を持っていたのかもな』

「だといいんですけどね。結局のところ手に入れた情報を元にした推測ですから」

『なんか不満げだな』

「……小説のネタのために私がやっていたのはただの覗き。こんな事して書いた物を喜んでもらえる。それでいいのでしょうか」

『いいじゃん』

「えっ?」

『別に実名公表しないんでしょ。それに全て見たまんま書くの』

「いえ、そんなことは個人を特定するものは書きませんよ」

『じゃあ、難しく考えるなよ。少なくともマナカさんは喜んでくれてたみたいだし。でも彼女もすんなりと納得してくれたよね』

「それは、おそらく、マナカさんには見えているのでしょう。隻眼の黒猫が」

『そっか。じゃあ嬉しいね。自分にしか見えないものを認めてもらったんだから』

「そうだと願いますよ」

『あ〜ウジウジするな。これから蒸し暑くなるのに不快だ、不快! さっさと投稿する小説書けよ。早く読みたいんだから。今日は推しが配信するから一晩中起きてる。だから何時でもいいからね〜』

 私が何かいう前に電話が切れた。

 一晩中起きてるって、今日中に書けという事ですか。

 私はあくびを噛み殺しつつ、キーボードに指を置く。最初の一行は……。

 

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