第5話 悪役令嬢、帰宅します。
フェルメリア王国は、東大陸の中央に位置する豊かな国である。
北に深い山脈、南に穏やかな海。中央には肥沃な穀倉地帯が広がり、東西の交易路は王都を貫いている。
王家と大貴族が国を支え、神殿の聖女が民の祈りを受ける。豊かで、華やかで、格式を何より重んじる国。
その中心にそびえる白亜の王城から、いま一人の令嬢が歩み出てきた。
レティシア・グランシエール。
たった今、王太子の婚約者ではなくなった公爵令嬢である。
背筋は伸びていた。歩き方も乱れていない。表情も崩れていない。完璧な退場だった。少なくとも、外から見れば。
しかし本音を言えば、今すぐ壁に手をついて深呼吸したかった。
逃げ切った。いや、正確には逃げ切っていない。断頭台直行便から、どうにか途中下車しただけだ。
しかも降りた先がどこなのかも分からない。できれば普通の駅であってほしい。処刑台前停留所とかではなく。
そう思う視界の端では、相変わらず白い文字が右から左へ流れていた。
〈レティシア様出てきた〉
〈背筋きれい〉
〈断罪イベント終了?〉
〈いやここからが後始末〉
〈王太子の顔、最後まで面白かった〉
いや、面白くはない。非常に疲れた、主に精神が。
「お嬢様!」
その声とともに、廊下の先から一人の女性が駆け寄ってくる。
赤みがかった髪をきっちりまとめた若い侍女で、白いエプロンの裾を揺らし、顔色を真っ青にしていた。今にも泣き出しそうな顔で、それでも必死に礼儀を保とうとしている。
レティシアの専属侍女、アリスだ。
〈侍女かわええ〉
〈この子いい子そう〉
〈お嬢様ガチ勢の気配〉
〈嫁に来い〉
うちの子です。あげません。
レティシアは心の中でそう返しながら、足を止めた。
「アリス」
「お、お嬢様……ご無事で……いえ、ご無事ではございませんよね。あの、私、ずっと、あの場で……」
アリスが言葉を詰まらせる。
彼女は大広間の隅、侍女たちの待機場所から一部始終を見ていた。途中で何度も駆け寄ろうとして、城の衛視に止められていたのも知っている。
あの場で侍女が飛び出せば、主の立場はさらに悪くなる。アリスにもそれは分かっていた。分かっていたからこそ、歯を食いしばって耐えていたのだろう。
レティシアは少しだけ表情を和らげた。
「落ち着きなさい。わたくしは立っています」
「ですが……」
「立っています。それで十分です」
実際、十分だった。
できれば椅子に座りたい。布団に倒れ込みたい。もっと言えば、マッサージチェアとホットアイマスクがほしい。ついでに冷えたビールと塩茹で落花生があればなお良い。
これを人は『無いものねだり』という。
まぁ言いませんけれど。だってわたくし、公爵令嬢ですから。
実際のところ、立って歩けるなら上等だ。
もっとも、アリスの目には、その「上等」がいつものレティシアと大して変わらないように映っていた。
レティシア・グランシエールは、周囲からきつい性格だと思われがちである。
吊り目がちな瞳、すっと伸びた背筋、言葉を曖昧に濁さずはっきり言う性分。そこに公爵令嬢としての気品が加われば、近寄りがたく見えるのも無理はない。
しかしそれは、長年の王妃教育の産物でもあった。
王妃とは、ときに夫である国王さえ諫めなければならない存在だ。
外交の場に立ち、神殿や大貴族との調整を担うこともある。甘く柔らかく、ただ微笑んでいれば務まる役ではない。まして相手はあの王太子である。将来は国政にまつわる仕事を実質二人分こなすことになると、レティシア自身も覚悟していた。
気が弱くては務まらない。胃も強くなければならない。できれば肝も据わっていた方がいい。
その全部を、レティシアは鍛えられてしまった。
もっとも、もともと気が弱かったかといえば、それも違う。
レティシア・グランシエールは、普通に気が強い。その自覚はある。ただ、気が強くなければ王太子の婚約者など務まらなかったのも事実だ。
悲しい適応である。
「アリス。すべて見ていましたわね」
「……はい」
「そういうわけですから、急ぎ屋敷へ戻ります。お父様とお母様に、顛末を報告しなければなりません」
「い、今すぐにでございますか? 少し、お休みいただいても……」
「いいえ。こういう時は初動が大事です」
初動。
炎上対応と同じである。いや、婚約破棄をそれにたとえるのはどうかと思うが、炎上しているのは事実だ。主に王太子の頭と王家の信用が。
アリスはまだ何か言いたそうだったが、レティシアの顔を見て口を閉じた。
泣き崩れると思っていた主は、もう次にすべきことを考えている。悲壮感はない。むしろ、長くのしかかっていたものがふっと外れたような、奇妙な静けさがあった。
それは半分正解で、半分違う。
王太子の婚約者という重責からは、今夜解放されたが、代わりに別の重みがのしかかっている。
それは、悪役令嬢として生き残ること。
なんだろう、これって荷物の種類が変わっただけでは?
いや違う。例えるなら、ゲームのマスターアップ直後に、次の大型アップデートの責任者へ抜擢されたようなものか。
少しくらい安堵する時間があってもバチは当たるまい。人生というものは、もう少し手加減を覚えてほしいと切に願う。
※挿絵です。クリックで飛べます。
https://kakuyomu.jp/users/chikuwa660/news/2912051600410462857
「お嬢様」
低い声が響いた。見れば、廊下の先からグランシエール家の護衛騎士が二名、足早に近づいてくる。二人とも表情は硬い。怒りと動揺を押し殺しているのが分かった。
「馬車を回しております。すぐにお乗りください」
「ありがとう。屋敷へ戻ります」
「承知いたしました」
護衛騎士たちは短く答え、レティシアの前後についた。アリスも慌てて続く。
レティシアは王城の廊下を歩き出した。
淑女の歩幅としては、少しばかり速い。
〈歩くの速い〉
〈競歩〉
〈悪役令嬢、帰宅RTA〉
〈ドレスでその速度出るの?〉
出る。
食事と風呂と歩く速度は、速くなければ社畜は務まらない。あと睡眠もだ。
もっとも睡眠は速く済ませるものではない。前世の私は、それを知るのが少し遅すぎた。いや、かなり遅かった。もしかすると手遅れだったかもしれない。
レティシアは軽く目を細める。
前世。その言葉が頭の奥で重く響く。けれど今は考え込んでいる場合ではない。
まずは王城を離れる。王太子の目が届く場所から離れる。それからだ。
王城の外に出ると、夜気が肌を撫でた。白亜の壁に灯る明かりが、石畳を淡く照らしている。
その先に、黒塗りの車体に銀の紋章。グランシエール公爵家の馬車が待っていた。
馬車の横には、執事長ロランが立っている。年齢を重ねた男で、白髪交じりの髪をきっちり撫でつけ、いつものように背筋を伸ばしていた。彼はレティシアの顔を見るなり深く一礼する。
「お嬢様」
「ロラン。屋敷へ」
「かしこまりました」
それだけだった。問い詰めない。慰めない。慌てない。ロランは静かに馬車の扉を開けた。その有能さが、今はひたすらありがたい。
〈執事長きた〉
〈渋い〉
〈できる男の気配〉
〈何も聞かずに馬車開けるの有能〉
〈ロランさん推せる〉
分かる。
今の私も、ロランを全力で推したい。
レティシアは馬車に乗り込む。続いてアリスが対面に座り、ロランがその隣に腰を下ろした。護衛騎士たちは外で随伴する。
扉が閉まり、車輪がゆっくりと回り始めた。王城の灯りが、窓の向こうで少しずつ遠ざかっていく。
馬車の中は静かだった。
アリスは青ざめた顔のまま、膝の上で両手を握っている。ロランは沈黙を守りながらも、視線だけでレティシアの様子をうかがっていた。
二人とも、レティシアが婚約破棄の衝撃に耐えているのだと思っている。だから声をかけずにそっとしてくれていた。
ありがたい。とてもありがたい。
今、慰められたら困る。
泣いてしまうかもしれない、という意味ではない。情報量が多すぎて、返事を考える余裕がないからだ。
王太子に婚約破棄された。悪役令嬢と呼ばれた。視界には見知らぬコメントが流れている。前世の記憶が戻った。しかも自分はこの世界を作った側の人間だった。
盛り合わせにもほどがある。これが定食屋なら、間違いなくデカ盛りの店として有名になっているはずだ。
レティシアは窓の外を見たまま、静かに息を吐く。
アリスもロランも、彼女がユリウスのことを考えているのだと思っているだろう。
けれど実際には違った。
今のレティシアの頭を占めていたのは、王太子ユリウスのことではなく、前世の自分のことだった。
〈何考えてるんだろ〉
〈疲れてる?〉
〈王太子のことじゃなさそう〉
〈レティシア様、どこ見てる〉
どこって? 過去を見ています。
まだ整理がついていない、遠い前世を。
馬車は夜の王都を走り続ける。
石畳を踏む蹄の音だけが、静かに響いていた。
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