第4話 では、慰謝料をいただきます。
「領地……だと?」
思いもよらぬ要求に、ユリウスは素直にひきつった声を上げた。
レティシアは静かに答える。
「婚約を破棄され、悪女の汚名を着せられた公爵令嬢が、今後も王都で何事もなかったように暮らせるとお思いでしょうか」
ユリウスは答えない。答えられない。
分かっていないのだろう。あるいは、分かろうとしていなかっただけかもしれない。
婚約破棄された女。しかも王太子に公衆の面前で断罪された女である。
無実が証明されたとしても噂は消えない。貴族社会は美しい衣を着ているが、中身はわりと湿っている。
噂話はよく育つ。水をやらなくても勝手に増える。できれば関わりたくない。
「静かに身を置ける場所が必要でございます。王都から離れた、辺境の地で構いません」
構わない。むしろその方がいい。
正直に言えば、王都から離れたかった。真実の愛だの悪女だの断罪だのを肴に、社交界で何年も噂され続ける未来などごめんである。
できれば誰も来ない場所で、静かに茶でも飲みたい。欲を言えば、前世のコンビニ鮭おにぎりも欲しい。さらにポテトチップスとコーラがあればなお良い。
つらい。
〈慰謝料きた〉
〈損害賠償請求w〉
〈これで傷物扱いされる世界観きつい〉
〈おっぱい〉
〈おっぱい言うなw〉
〈引きこもり令嬢〉
違う。いや、少し違わない。
あと、この空気でおっぱい言うな。
「待て。私はそのような話を――」
「では、何のお話でしょうか」
レティシアは柔らかく遮り、問い返した。
「殿下は今、有力貴族が集まるこの場で婚約破棄を宣言なさいました。わたくしは、王家より正式な契約を破棄するとの意思表示があったものと受け取っております」
「それは……」
「まさか、これほどの場で口になさったことを、なかったことにはなさいませんわよね?」
ユリウスの喉が小さく鳴った。周囲の貴族たちがざわめく。証人が多すぎた。王太子は、自分の言葉で自分の逃げ道を塞いでしまったのだ。
人はこれを自爆と呼ぶ。まぁ、口には出さないが。わたくし、公爵令嬢なので。
「い、いや、待て。その条件は父王に相談せねば答えられない」
「もちろん、正式な書面には陛下のご裁可が必要でございましょう」
レティシアは素直に頷いた。ここで即座に領地を引き渡せと言うほど愚かではない。そんなことは無理な話だ。
領地は焼き菓子ではない。包んで持ち帰れるものではないのだ。けれど、言質は取れる。今この場で、王太子の口から。
「ですが、わたくしはこれほどの恥をかかされた身。一刻も早くこの場を去りとうございます」
声に、ほんの少しだけ傷ついた令嬢の響きを乗せる。
嘘ではない。もちろん傷ついていないわけではなかったが、ただその傷を武器として使っているだけだ。
傷は深ければ深いほど、高額の請求書にもなる。
「ですので、この場でお約束くださいませ。後日、王家より正式な謝意として、慰謝料と領地の譲渡について書面をいただく、と」
「そんな勝手な――」
「勝手、でございますか」
レティシアは静かに問い返した。
「では、殿下が今なさったことは、勝手ではございませんの?」
ユリウスが言葉を失い、ミシュリーヌが不安そうに彼を見上げた。その視線に気づいたのか、ユリウスは苦々しげに顔を歪める。
彼にも王太子としての面子がある以上、ここで賠償の話から逃げる男だと思われるわけにはいかない。すでにかなり逃げ腰だが、本人の中ではまだ踏みとどまっているらしい。
「……よかろう。後日、父王に話を通す。慰謝料と辺境領についても検討しよう。――そなたが無実だった場合はな」
「検討、では困ります」
「レティシア!」
「この場で、殿下のお言葉として、お認めくださいませ」
沈黙。
〈検討=やらない〉
〈社会人の社交辞令ムーブ〉
〈言質取れ〉
〈逃がすな〉
分かっている。もちろん逃がさない。
こういう時の「検討」は、前世でもだいたい何もしないという意味だった。会議で何度聞いたか分からない。言質として議事録に残しておくべきだ。
ありがとう、前世の私。修羅場の経験だけは、今とても役に立っている。
広間中の視線がユリウスに集まる。王太子は歯を食いしばった。ここで拒めば、証拠もなく婚約者を断罪し、責任だけは取らない男になってしまう。
すでにかなりそう見えているが、最後の薄皮一枚くらいは守りたいのだろう。
やがて、ユリウスは奥歯を噛みしめるように言った。
「……認める。王家より、相応の慰謝料と領地を用意する」
その言葉に、広間が大きくざわめいた。
取った。
レティシアは内心で静かに息を吐く。
契約書はまだない。領地を得るまでには相当揉めるだろう。国王がこの場にいない以上、後日いくらでも条件を変えようとしてくるはずだ。
それでも、王太子が公衆の面前で認めた。証人は広間を埋めるほどいる。彼ら自身が議事録だ。これで最低限の足場はできた。
「ただいまのお言葉、この場にお集まりの皆様にもお聞き届けいただきました」
レティシアは周囲へ向けて、静かに一礼した。
「いずれ正式な書面が届くものと信じております」
〈言質ゲット〉
〈録画班仕事した〉
〈王太子、逃げ道消滅〉
〈レティシア様、法務部説濃厚〉
〈これは議事録に残る〉
だから法務部ではないと、何度――以下略。
ただ、議事録が大切なのは本当だ。己の身を守るために。
レティシアはユリウスを一瞥し、次にミシュリーヌを見る。
小柄な聖女候補は、やはり勝者の顔をしていなかった。むしろ、自分がとんでもない場に立たされていると今になって気づいたような顔である。その手は、かすかに震えていた。
ミシュリーヌが望んで仕掛けたようには見えない以上、この断罪劇には裏がある。ユリウスの独走なのか、誰かが裏で焚きつけたのか。いずれにせよ、判断するには情報が足りなかった。
今は追及する時ではない。まずは、この場から離れること。視線と悪意と好奇に満ちた、この大広間から。
「それでは、これにて失礼いたします。ごきげんよう」
レティシアは静かに礼をした。
「待て、レティシア」
背後からユリウスの声が飛ぶ。レティシアは足を止め、ゆっくりと振り返った。そして、完璧な微笑を浮かべる。
「婚約者でもない殿方から、呼び捨てにされるいわれはございませんわ。殿下」
ユリウスの顔が引きつった。
〈切った〉
〈もう他人です〉
〈呼び捨て権限、剥奪〉
〈ごきげんよう砲〉
〈レティシア様つよい〉
強くはない。今すぐ膝から崩れ落ちたい程度には疲れている。でも、それを見せる場面ではなかった。
レティシアはもう一度だけ微笑み、大広間の出口へ向かった。
視線が背中に刺さる。ざわめきが追いかけてくる。それでも振り返らず、背筋を伸ばして歩いていく。
グランシエール公爵令嬢として。そして、破滅ルートから逃げる一人の人間として。
大広間の扉が開く。冷えた廊下の空気が頬を撫でた。
そこでようやくレティシアは小さく息を吐いた。視界の端では、まだ白い文字が流れている。
〈イベント抜けた?〉
〈生きてる〉
〈断罪回避ルートなんてあるん?〉
〈初めて見た〉
〈ここからが本番〉
最後の一文だけが妙に胸に残った。
そう。ここからが本番だ。
婚約者の座は失った。名誉も傷ついた。王太子には公衆の面前で悪女呼ばわりされ、なぜか視界には見知らぬ誰かのコメントが流れている。
ついでに、自分が前世で作ったゲーム世界に悪役令嬢として放り込まれていた。
普通なら、泣いていい。本気で泣いていい。
しかし、泣いてもイベントは進まない。
レティシアは扇を握り直した。
まずは状況確認だ。自分が何を持ち、何を失い、何ができて、何ができないのか。そこを見誤れば次はない。
視界の端を流れるコメントの向こうで、夜の王城が静かに灯っている。
〈次回、実家編。乞うご期待〉
〈公爵家はどう動く〉
〈国王陛下に言いつけろ〉
〈レティシア主人公ルート?〉
〈まだ終わってないぞ〉
言われなくても分かっている。
レティシアは深く息を吸い、再び歩き出した。
破滅ルートはまだ終わっていない。
けれど、少なくとも最初の選択肢は間違えずに済んだらしい。
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