静かなる世界の更新
みねた
第1話「気づき」
四月の終わり頃から、佐伯は会社を辞めることばかり考えていた。
きっかけが何だったのか、自分でもよく分からない。
大きな失敗があったわけではない。上司と激しく衝突したわけでもないし、家庭が壊れたわけでもない。ただ、ある朝、埼京線の窓に映った自分の顔を見て、「もう十分じゃないか」と思ったのである。
四十三歳だった。
窓ガラスに映る顔は、自分が思っていたより疲れていた。頬が少し落ち、目の下に薄く影がある。髪には白いものが混じり始めていた。電車は新宿へ向かっていた。朝七時四十七分。いつもの時間だった。
周囲には、同じような顔をした男たちが並んでいた。
みんな黙ってスマートフォンを見ている。
誰も喋らない。
イヤホンをつけた若者。吊り革につかまったまま眠っている作業服姿の男。化粧をしている女。英語混じりの会話をする外国人らしい二人組。
その全員が、何かの途中にいるように見えた。
佐伯はふと、この電車に乗っている人間のうち、「ここに来たくて来ている人」が何人いるのだろうと思った。
その考えは、一度浮かぶと頭から離れなかった。
会社では、中間管理職になっていた。
部下の機嫌を見ながら、上司の意向を察する仕事だった。
会議では、「現場感」と「経営視点」の両方が必要だと言われた。しかし実際には、責任だけが増え、権限はほとんどなかった。
若い社員は辞めていく。
残った人間は黙る。
その沈黙の上に、会社は成り立っていた。
佐伯はリース契約の更新資料を作りながら、自分が会社で何をしているのか、時々分からなくなっていた。
毎日パソコンと向き合い、数字と睨み合う日々。特に自分は何もしなくても、会社の歯車は回っていくような気がする。
それでも給料は振り込まれる。
住宅ローンが引き落とされる。
娘の塾代に消える。
息子のサッカー教室の引き落とし通知が来る。
人生というのは、気づけば「やめられないもの」の集まりになっていく。
若い頃、自分はもっと自由な人間になると思っていた。
もっと重要な仕事をし、もっと知的で、もっと遠くへ行くはずだった。
しかし現実には、毎日ほとんど同じ道を歩いている。
朝、駅まで十二分。
会社まで一時間十分。
帰宅後、スーパー。
休日、ショッピングモール。
それが人生の大部分だった。
ある日、佐伯は会社帰りに、一駅手前で降りた。
理由は特になかった。
少し歩きたかっただけだ。
春が終わりかけていた。夜風はぬるく、スーツの上着を着ていると少し暑かった。住宅街の細い道を歩く。見たことのないクリーニング店があり、古い中華料理屋があり、自動販売機の明かりだけがやけに白く浮いていた。
そのとき、佐伯は奇妙なことに気づいた。
電柱が新しかった。
ニュースでは、電柱の地中化を進めていると言っていた気がする。しかし目の前には、明らかに最近立てられたばかりの電柱がある。
真新しい番号札。
まだ傷のない灰色の表面。
そこから何本もの電線が伸びている。
佐伯は立ち止まって、それを見上げた。
別に重要な話ではない。
だが、なんとなく引っかかった。
「なくす」と言いながら、増えているもの。
そういうものが、この社会には多い気がした。
コンビニが増えたのに、自動販売機は消えない。
レジ袋は有料化されたのに、ゴミ袋は増える一方。
景気回復と言われるのに、みんな疲れた顔をしている。
社会というのは、ニュースの中にあるのではなく、こういう住宅街の細部にあるのかもしれなかった。
佐伯はスマートフォンを取り出し、メモアプリを開いた。
「新しい電柱」
そうだけ打ち込む。
それが、あとになって思えば、少し長い散歩の始まりだった。
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