第12話 正しさで救われなかった男

 岩崎煇は、正しいことが好きだった。


 子どもの頃から、そうだった。


 順番を守らない者がいれば注意した。弱い者いじめを見れば止めに入った。教師が理不尽なことを言えば、理由を尋ねた。


 そのせいで面倒な奴だと思われることもあったが、煇はあまり気にしなかった。


 正しいことをして嫌われるなら、嫌う側がおかしい。


 そう思っていた。


 大学に入ってからも、その性格は大きく変わらなかった。


 煇は都内の私立大学で法律を学んでいた。弁護士になりたいというほど明確な夢があったわけではない。ただ、世の中の決まりがどう作られ、どう使われ、どう悪用されるのかには興味があった。


 講義は真面目に受けた。


 バイトもしていた。


 人付き合いは得意ではなかったが、完全に孤立していたわけでもない。


 大学のサークルにも、一応所属していた。


 一応、である。


 飲み会が多く、内輪の空気が強いサークルだった。煇は途中からほとんど顔を出さなくなった。だが、名簿には残っていたし、連絡も時々来た。


 ある夜、そのサークルの飲み会に誘われた。


 久しぶりだから来いよ。


 そんな軽い文面だった。


 煇は迷ったが、行くことにした。大学生活で人間関係を全部切るのもよくないと思ったからだ。


 店は駅前の居酒屋だった。


 最初は普通だった。


 近況を話し、講義の愚痴を聞き、誰かの就活の話を聞く。煇は酒に強いほうではないので、量は控えた。


 それでも、途中から記憶が曖昧になった。


 体が重くなり、視界が揺れ、音が遠くなる。


 誰かが笑っていた。


 誰かが肩を貸した。


 次に目を覚ました時、煇はホテルのベッドの上にいた。


 隣には、同じサークルの女子学生がいた。


 頭が痛かった。


 記憶はほとんどない。


 何が起きたのか、煇にはわからなかった。


 彼女も動揺していた。


 2人はまともに話せないまま別れた。


 煇は混乱したまま帰宅し、シャワーを浴び、バイトへ向かった。


 そこに警察が来た。


 不同意性交の疑い。


 その言葉を聞いた瞬間、煇は世界から音が消えたように感じた。


 彼は否定した。


 記憶がない。


 同意があったかどうかもわからない。


 そもそも自分も何かを飲まされた可能性がある。


 だが、疑われた時点で、日常は壊れた。


 バイト先にはいられなくなった。


 大学にも居づらくなった。


 サークルの人間は急に距離を置いた。


 ネットには、誰が流したのかわからない噂が出た。


 証拠不十分で釈放された。


 それは無罪判決ではない。


 世間にとっては、白ではなく、灰色だった。


 灰色は、叩きやすい。


 煇は実家へ戻った。


 両親は最初、彼を信じようとした。だが、近所の目や親戚の言葉に疲れ、少しずつ会話が減った。


 煇は部屋に閉じこもるようになった。


 そこで彼は、インターネットの中に逃げた。


 同じように社会から弾かれたと語る男たちがいた。


 女に人生を壊された。


 男性差別だ。


 社会は男を守らない。


 煇は最初、それらを疑いながら読んだ。


 だが、疑いながらも、そこには自分の怒りに形を与える言葉があった。


 正しさで救われなかった。


 ならば、正しさそのものが歪んでいるのではないか。


 彼は少しずつ過激な言葉に慣れていった。


 ただ、完全に呑まれたわけではなかった。


 どれだけ怒っても、彼の中にはまだ、物事を分けて考える癖が残っていた。


 女全員が悪いわけではない。


 社会全体を壊せばいいわけでもない。


 だが、自分の人生が壊れたのは事実だった。


 そして、その責任を誰も取らなかった。


 ある日、煇はデモに参加した。


 男性差別反対を訴える小さな集まりだった。


 駅前の広場で、十数人がプラカードを持って声を上げる。通行人の多くは冷たい目を向けるだけだった。


 煇はマイクを持たなかった。


 ただ立っていた。


 その時、人混みの中から1人の女が飛び出してきた。


 同じサークルにいた元同級生だった。


 彼女の顔は怒りと恐怖で歪んでいた。


 煇が何か言う前に、腹に熱い痛みが走った。


 包丁だった。


 周囲が悲鳴を上げる。


 煇は膝をついた。


 元同級生は何か叫んでいた。


 お前のせいで。


 許さない。


 そんな言葉が聞こえた気がした。


 煇は、自分が刺された理由さえ最後まで整理できなかった。


 視界が暗くなる。


 正しさとは何だったのか。


 法律とは何だったのか。


 自分は本当に、何かを間違えたのか。


 答えは出なかった。


 次に目を開けた時、煇はセナン王国の玉座の間にいた。


 勇者として召喚された。


 最初、彼は笑いそうになった。


 冗談にしては質が悪い。


 前の世界で社会から追い出された人間が、今度は世界を救う勇者だという。


 だが、召喚された以上、やることはあった。


 煇はこの世界を学び、言葉を覚え、ステータスやスキルの仕組みを調べた。彼の能力は派手ではなかったが、特殊だった。


 不公平な状況を指摘すると、その場の条件を一部均すことができる。


 ただし万能ではない。


 相手との関係、状況、言葉の通し方。いくつもの条件がある。使い方を間違えれば何も起きない。


 だから煇は、力に酔わなかった。


 むしろ、力を使うほど慎重になった。


 王城にいた頃、彼はすぐに違和感を覚えた。


 クルル王は愚かだった。


 それはまだいい。


 愚かな王でも、周囲が支えれば国は回る。


 問題はズマルだった。


 召喚術士。


 王の側近。


 骨董品収集の相談役。


 彼はあまりにも多くのものを握っていた。


 煇は地下へ運ばれる魔道具を見た。


 勇者召喚とは別の陣。


 古い帝国文字。


 魔族に関する断片。


 それを調べようとした時、王は急に煇を遠ざけ始めた。


 最後には、追放同然に城を出された。


 煇は抵抗しなかった。


 抵抗すれば殺される可能性があったからだ。


 彼はまた、社会の中心から弾き出された。


 だが、前の世界と違うことがひとつあった。


 今度は、ただ部屋に閉じこもるつもりはなかった。


 彼は情報を集めた。


 冒険者、商人、奴隷商、王城を辞めた使用人。使えるものは何でも使った。


 そして、新しい勇者が召喚されたという噂を聞いた。


 姿を見せない勇者。


 王城が隠す勇者。


 それがセリアに連れられて奴隷商へ来た時、煇は思った。


 女神はまた、ひどい冗談を言う。


 全て0の男。


 スキルなし。


 言葉も通じない。


 前世で何があったかは知らないが、見ればわかる。


 救いようのない弱さだった。


 だが同時に、ズマルの計画にとっては異物でもある。


 強者でも賢者でもない。


 だからこそ、計算から漏れる。


 煇はそう考えた。


 そして今、その異物は魔族に連れていかれた。


 共和国へ向かう馬車の上で、煇は眠らずに座っていた。


 セリアも眠っていない。


「助けに行けたと思う?」


 彼女が聞いた。


「あの場では無理だ」


「そう」


「納得できないか」


「できる。でも、気分は悪い」


「それでいい」


 煇は暗い道の先を見た。


「気分が悪いと思えるうちは、まだ判断を間違えにくい」


 セリアは少しだけ彼を見た。


「あなた、やっぱり面倒くさい人ね」


「よく言われる」


 煇は短く答えた。


 正しいことは、人を救うとは限らない。


 それでも、何が間違っているのかを見ないふりはできない。


 だから彼は、また動く。


 今度こそ、誰かに全部押しつけられて終わらないために。

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