第7話 呪いを売る店

 翌朝、セリアはいつもより早く目を覚ました。


 理由は単純である。


 廊下が騒がしかった。


 扉を開けると、宿の客が数人、距離を取って何かを見下ろしていた。


 その中心に黎人がいた。


 彼は毛布にくるまったまま、廊下の端で眠っている。寝相が悪かったのか、夜のうちに少しずつ移動したらしく、通行の邪魔になっていた。


「これ、あんたの連れか」


 宿の主人が疲れた顔で言った。


「一応」


「片づけてくれ」


「物みたいに言うわね」


「物のほうが静かだ」


 反論しようとして、セリアはやめた。


 だいたい合っていた。


 彼女は黎人の肩を揺する。黎人はうめき、目を開け、また閉じようとした。


「起きる」


 セリアは毛布を剥がした。


 黎人は不満そうに体を丸めたが、廊下の冷えた空気には勝てなかった。しぶしぶ起き上がる。


 朝食は、また揉めた。


 宿のパンと豆のスープを黎人は嫌がった。セリアは自分の分の甘い果物を半分だけ渡した。半分だけである。全部渡すほど、彼女は優しくなかった。


 黎人はそれを食べると、残りを期待する顔で見てきた。


 セリアは無視した。


 宿を出ると、町はすでに動き始めていた。


 荷車が道を通り、露店が開き、酔いつぶれていた男が道端から追い払われている。王都より荒れているが、生活の匂いはあった。


 北通りは、町の中でも少し空気が違った。


 店構えは古く、看板は控えめで、通る人間の目つきも鋭い。冒険者や商人だけでなく、身なりの悪い者、妙に高価な装飾をつけた者、顔を隠した者もいる。


 奴隷商の店は、その通りの奥にあった。


 木の扉の上に、鎖を模した看板がかかっている。


 セリアは一度立ち止まった。


 好きな場所ではない。


 だが、背に腹は代えられない。


「行くわよ」


 黎人の袖を引いて中へ入る。


 店内は思ったより静かだった。


 正面には帳場があり、奥には鉄格子の扉が見える。壁には契約書の束や、古い呪具らしきものが並んでいた。匂いは薬草と金属と、閉じ込められた場所特有の湿気が混ざっている。


 帳場の向こうにいた中年の店主が、目だけで2人を見た。


「買いか、売りか」


 セリアは眉をひそめた。


「相談」


「相談料は先払いだ」


「呪いについて聞きたい」


 店主の視線が少しだけ鋭くなった。


「誰にかかってる」


「私」


「内容は」


「この男から一定距離以上離れると痛みが出るらしい。王城でかけられた」


 店主は黎人を見た。


 黎人は店内をきょろきょろ見ている。鉄格子の奥を見て、少し怖がった顔をした。


「そいつは何だ」


「勇者様」


 店主は真顔のまま黙った。


 そして言った。


「売り物にはならんな」


「売りに来たんじゃない」


「念のためだ。こっちにも選ぶ権利がある」


 セリアは少しだけ感心した。


 この店主は、この町の中ではまともな判断力を持っているらしい。


「呪いを見られる?」


「専門ではない。だが奴隷契約で使う拘束術なら多少はわかる」


「それでいい」


 店主は帳場から出てきて、セリアの足元を見た。王城で光が絡んだのは足首だった。


 彼は小さな石板を取り出し、セリアの足元に置く。呪文のようなものを短く唱えると、石板に薄い光が走った。


 店主は目を細める。


「……妙だな」


「解けそう?」


「その前に、かかっていない」


 セリアは聞き間違えたかと思った。


「何が?」


「呪いだ。少なくとも今、あんたに拘束の呪いはかかっていない」


 店の中が静かになった。


 黎人が奥の檻を覗こうとして、店主に睨まれた。彼はすぐ引っ込んだ。


 セリアはゆっくり息を吸った。


「もう一度見て」


「同じだ」


「王城で、魔法陣が出た。足首に光が絡んだ」


「脅しの術式か、見せかけだな。実害のある呪いじゃない」


「距離を取ったら痛むって」


「試したのか」


「……試してない」


 店主は肩をすくめた。


 セリアは額に手を当てた。


 王城。


 ズマル。


 前金。


 勇者。


 全部が腹立たしい形でつながっていく。


 つまり、彼女は呪いで縛られていたわけではない。


 呪われていると思わされていただけだった。


 その間、黎人を洗い、歩かせ、廊下に寝かせ、甘いものを半分取られた。


 セリアの中で、何かが静かに燃え始めた。


「ありがとう。相談料は払う」


「毎度」


 店主は感情の薄い声で言った。


 その時、店の奥の扉が開いた。


 若い男が出てくる。


 年は20代前半くらい。旅装だが、ただの冒険者には見えなかった。身のこなしは軽く、目つきは冷静で、こちらを見た瞬間に状況をかなり読んだ顔をした。


「騒がしいと思ったら、面白い組み合わせだな」


 男はセリアを見て、次に黎人を見た。


 黎人を見た時間は、少し長かった。


「それが新しい勇者か」


 セリアは剣の柄に手を置いた。


「あなた、何者?」


「岩崎煇」


 男はあっさり名乗った。


「この国で少し前まで勇者をやっていた者だ」


 セリアはすぐには信じなかった。


 だが、店主が否定しない。


 むしろ、面倒な人間が出てきたという顔をしている。


「前の勇者?」


「正確には、追い出された勇者だな」


 煇は軽く言った。


 軽く言ったが、目は笑っていなかった。


「王城から逃げてきたの?」


「逃げたというより、追放された。都合の悪いことを見たからな」


「都合の悪いこと?」


「ズマルだ。あの召喚術士は、ただの王の側近じゃない」


 セリアは黙った。


 王城でのズマルの態度を思い出す。


 あの男は、最初から全部わかっていたような顔をしていた。


「詳しく聞かせて」


「その前に、あんたの事情も聞きたい。そいつを連れてここへ来た理由は?」


 セリアは短く説明した。


 王城の依頼。


 高い前金。


 勇者の世話。


 離れたら痛むという呪い。


 そして、今それが嘘だとわかったこと。


 煇は最後まで黙って聞いた。


 聞き終えると、黎人を見た。


「なるほど。王城もずいぶん雑なことをする」


「雑で済ませたくないんだけど」


「なら、仕返しするか」


 セリアは煇を見た。


 その言葉は、彼女が心の中で考え始めていたものとほとんど同じだった。


「できるの?」


「できる可能性はある。少なくとも、あの王とズマルに何も言わず引き下がるよりは面白い」


「面白さで命を賭ける趣味はないわ」


「俺もない。だから勝ち目を作る」


 煇の声は落ち着いていた。


 正義感だけで突っ走る人間には見えない。むしろ、腹の底に怒りを沈めながら、手順を考えるタイプに見えた。


 セリアは黎人を見た。


 黎人は話をまるで理解していない。店内の椅子に座ろうとして、店主に視線で止められていた。


「これ、役に立つと思う?」


 セリアが尋ねる。


 煇は少し考えた。


「役に立つように使うしかない」


「使えるの?」


「弱すぎるものは、時々、強いものの想定から外れる」


 セリアは顔をしかめた。


「それ、褒めてる?」


「事実を言ってる」


 煇は淡々と答えた。


 店主が帳場の奥でため息をつく。


「相談なら外でやれ。うちは作戦会議室じゃない」


「悪い」


 煇は短く謝った。


 セリアは相談料を払い、黎人の袖をつかんだ。


 店を出る前に、彼女は振り返る。


「本当に呪いはないのね」


「ない」


 店主は即答した。


「あんたはいつでもその男から離れられる」


 セリアは黎人を見た。


 いつでも離れられる。


 その言葉は、思っていたより重かった。


 今すぐ置いていくこともできる。


 逃げることもできる。


 依頼を投げ捨てることもできる。


 だが、彼女の中の怒りは、ただ逃げるより少し厄介な方向へ向かっていた。


 王城に騙されたまま終わるのは、気に入らない。


 ズマルの顔を思い出す。


 あの薄い笑み。


 あれをそのままにするのは、もっと気に入らない。


「仕返しの話、聞くわ」


 セリアが言うと、煇は小さく頷いた。


「なら、場所を変えよう」


 こうして、セリアは自由になった。


 自由になったはずだった。


 だが彼女は、なぜかまだ黎人の袖をつかんでいた。


 それが責任感なのか、怒りの勢いなのか、前金の未練なのか、自分でもよくわからなかった。


 ただひとつ確かなのは、この時点で黎人本人だけが、話の中心にいながら何も理解していなかったことである。

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