第5話 旅というより荷物運び

 王都を出てすぐ、セリアは悟った。


 これは旅ではない。


 荷物運びである。


 しかも荷物は勝手に止まり、勝手に座り込み、たまに不満そうな声を出す。


 セリアは街道の真ん中で振り返った。


 黎人は、すでに息を切らしていた。


 まだ王都の城壁が見える距離である。普通の旅人なら、歩き始めたばかりで体が温まってくる頃だ。ところが黎人は、肩で息をし、額に汗を浮かべ、いかにも限界だという顔をしている。


「嘘でしょ」


 セリアは思わず呟いた。


 黎人は答えない。言葉がわからないからではなく、そもそも答えるだけの余裕がなさそうだった。


 彼は道端の石に腰を下ろそうとする。


 セリアは慌てて腕をつかんだ。


「まだ休まない。歩く」


 身振りを交えて前を指差す。


 黎人は嫌そうな顔をした。


 その顔に、セリアのこめかみが少し動いた。


 彼女は冒険者である。荷運び、護衛、魔物退治、野営、雨の中の移動。楽な仕事ばかりではなかった。だが、ここまで始まりから心を折りにくる依頼は珍しい。


 目的地は、王都から一番近い町だった。


 普通に歩けば半日ほどで着く。街道は整備が悪く、ところどころ石が浮き、雨の跡でぬかるむ場所もあるが、冒険者にとっては大した道ではない。


 問題は、黎人だった。


 歩幅が小さい。


 足が遅い。


 少しの坂で止まる。


 虫が飛べば驚く。


 鳥の声がすれば振り返る。


 何もなくても座ろうとする。


 セリアは何度も深呼吸した。


 王城でかけられた呪いが本物なら、彼を置いていくわけにはいかない。一定距離以上離れると痛みが出ると言われている。試す気はあまりなかった。


 だが、試さなくても別の痛みが出そうだった。


 主に頭に。


「前金、前金、前金」


 セリアは自分に言い聞かせるように呟いた。


 高い報酬。


 高すぎる前金。


 あれは我慢料だ。


 そう思うしかない。


 黎人はしばらく歩くと、腹を押さえた。


 空腹なのかと思い、セリアは荷物から干し肉と硬いパンを出した。


「食べる?」


 差し出す。


 黎人はパンを受け取り、かじった。


 すぐに顔をしかめた。


 そして、口の中のものを道端に吐き出した。


 セリアは無言で固まった。


 黎人は干し肉の匂いを嗅ぎ、これも嫌そうに押し返した。


「……食べないの?」


 当然、返事はない。


 セリアはもう一度パンを差し出した。


 黎人は首を振る。


 その態度には、はっきりとした拒否があった。


「あなた、今の状況わかってる? ここ、街道。私は料理人じゃない。王城の食堂でもない。これを食べないなら、次まで何もない」


 言葉は通じない。


 それでも言わずにはいられなかった。


 黎人は不満そうに腹を押さえている。


 セリアは荷物を探り、昨日買っておいた小さな焼き菓子を見つけた。自分用だった。疲れた時に食べるつもりだった。


 試しに差し出す。


 黎人はそれを受け取り、食べた。


 表情が少し緩んだ。


 セリアは空を仰いだ。


「甘いものなら食べるのね」


 勇者の新情報である。


 役に立つかどうかは別として。


 日が高くなった頃、街道脇の草むらが揺れた。


 セリアは即座に剣へ手をかける。


 現れたのは、小型の魔物だった。


 緑がかった肌に、小さな牙。粗末な棍棒を持ったゴブリンが3体。王都近くの街道に出るには珍しくない相手で、駆け出し冒険者でも落ち着いて対処すれば倒せる。


 セリアは黎人を背後に下げた。


「動かないで」


 言っても通じないが、手で制す。


 ゴブリンたちは、まずセリアを見た。


 次に黎人を見た。


 そして、なぜか少し戸惑った。


 魔物にも相手を選ぶ本能はある。強い相手には警戒し、弱い相手には襲いかかる。だが、黎人はその判断を少し狂わせる存在だった。


 あまりにも弱そうだった。


 獲物というより、食べても腹を壊しそうな何かに見えたのかもしれない。


 ゴブリンの1体が、試すように近づいた。


 黎人はそれを見て、顔色を変えた。


 目を見開き、口を開け、後ろへ下がろうとする。


 足がもつれた。


 尻もちをついた。


 次の瞬間、彼のズボンに染みが広がった。


 セリアは見なかったことにしたかった。


 だが、匂いがそれを許さなかった。


 ゴブリンたちも、明らかに動きを止めた。


 1体が鼻をひくつかせる。


 別の1体が、顔をしかめたように見えた。


 魔物にまで嫌がられている。


 セリアは一瞬だけ、剣を抜く気力を失いかけた。


 だが仕事は仕事である。


 彼女は前へ出た。


 1体目の棍棒を避け、柄で腕を打つ。体勢が崩れたところを蹴り飛ばす。2体目が横から飛びかかってくるが、低く身を沈めてかわし、剣の腹で首元を叩いた。3体目は迷っている間に、セリアの踏み込みを受けて草むらへ転がった。


 殺すほどの相手ではない。


 追い払えれば十分だった。


 ゴブリンたちは悲鳴を上げ、森のほうへ逃げていった。


 セリアは剣を鞘に戻す。


 そして、ゆっくり振り返った。


 黎人は座り込んだまま、震えていた。


 ズボンは濡れている。


 顔には、恐怖と不満と、誰かに助けてもらって当然という感情が混ざっていた。


 セリアは額を押さえた。


「水場を探すわ」


 言葉は通じない。


 だが、今度ばかりは通じなくても連れていくしかない。


 街道を少し外れたところに、小さな沢があった。


 セリアは黎人をそこまで引っ張っていった。途中で彼は何度も足を止めようとしたが、セリアは許さなかった。


 沢の水は冷たい。


 旅人なら手を洗い、水袋を満たす程度に使う場所だ。


 だが今は、黎人を洗う場所になった。


「脱ぐ」


 セリアは身振りで示した。


 黎人は首を振る。


 セリアは剣の柄に手を置いた。


 黎人は少しだけ従順になった。


 もちろん、全部を1人でやらせるのは無理だった。彼は服を脱ぐのも遅く、濡れた衣服をどう扱えばいいのかもわかっていない。セリアはなるべく視線を外しながら、最低限の指示を身振りで出す。


 水をかけると、黎人は情けない声を上げた。


 冷たいのだろう。


 セリアも冷たい。


 主に気持ちが。


「勇者って、何だったかしら」


 彼女は沢の石に腰かけ、濡れた布を絞りながら呟いた。


 黎人は震えている。


 ゴブリンに襲われかけただけで失禁し、水浴びをさせられ、文句を言いたそうに口を開けている。


 これが女神に選ばれた勇者。


 これが王城から押しつけられた依頼。


 これが自分の高額報酬の理由。


 セリアはだんだん腹が立ってきた。


 黎人本人にも腹が立つ。


 王城にも腹が立つ。


 前金に負けた自分にも、少し腹が立つ。


 だが、ここで投げ出すわけにはいかない。


 呪いがある。


 それに、報酬もある。


 何より、投げ出したところで、この男が1人で生きていけるとは思えなかった。


 それは同情ではない。


 事実である。


 水浴びが終わる頃には、日が少し傾いていた。


 予定では、もう目的地の町が見えていてもいい時間である。


 だが、実際にはまだ半分も進んでいない。


 セリアは濡れた服を枝にかけ、替えの布を黎人に渡した。


 黎人はそれをうまく着られず、途中で絡まった。


 セリアは無言で直した。


 もう怒る気力も少し削れていた。


「今日は野宿ね」


 空を見上げて、彼女は言った。


 黎人は意味を理解していない。


 ただ、甘いものがもう出てこないことには気づいたらしく、不満そうな顔をしていた。


 セリアは荷物を背負い直す。


 近くで夜を越せる場所を探さなければならない。火を起こし、見張りをし、明日の食料を考え、この勇者がまた何かをやらかさないよう気を配る。


 旅は始まったばかりだった。


 だが、セリアにはもう十分長く感じられた。


 王都の鐘の音は、当然もう聞こえない。


 代わりに聞こえるのは、濡れた布を引きずる黎人の足音と、彼の腹が不満げに鳴る音だけだった。


 セリアは前を向き、小さく呟いた。


「これ、追加料金取っていい仕事でしょ」


 返事はなかった。


 返事があったところで、たぶん余計に腹が立つだけだった。

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