第203話 吉岡さんが槽を止める

「黒瀬さん。うち、今年いっぱいで終わるわ」


 2013年2月。


 吉岡メッキの作業台へ図面を広げようとしていた直人の手が止まった。


「……何が?」


「何がって、メッキ屋や」


「いや、ちょっと待ってください」


「待っても年末は来るぞ」


 吉岡はいつもの調子で言いながら、処理槽のほうへ視線を向けた。


 薬品の匂いがする。


 排水設備から低い音が続き、その横では品物を吊った治具が次の処理を待っている。


 今日も工場は動いていた。


「仕事減ったんですか?」


「減ってへん」


「ほな何で」


「これや」


 吉岡が処理槽の縁を軽く叩いた。


「槽もそろそろ大きい修理いる。整流器も古い。排水のほうも、この先続けるなら手ぇ入れなあかん」


「一気に?」


「何年も使ってりゃ、そういう時期も来る」


「直したらええやないですか」


「誰が何年使うねん」


 そこで直人は黙った。


 吉岡は手袋を外し、作業台へ置いた。


「わしがあと10年、15年やるんやったら金入れる。次にやる人間がおって、その先20年使うんやったら借りても直す」


「継ぐ人は?」


「おらん」


「前から働いてる人は?」


「働くんと、工場持つんはちゃう」


「話はしたんですか」


「したよ」


 吉岡は面倒そうな顔をした。


「設備の金だけちゃう。薬品仕入れて、排水見て、役所の対応して、品物悪かったら客に説明して、金足らんかったら銀行行って。それ全部込みで継ぐんやぞ」


「……まあ」


「お前はやってるから分かるやろ」


「分かりますけど」


「なら、無理に押しつけられへんのも分かるやろ」


 直人は何も返せなかった。


 机の上には、包装機メーカーから届いた新機種用の図面がある。


 17点。


 前年に12台分を一式で納めた会社から、その後に相談されていた仕事だった。


 その17点のうち、3点に表面処理が指定されている。


「これ持ってきたんです」


「何や」


「次の包装機。表面処理3点」


 吉岡が図面を受け取った。


「数量は?」


「最初8台分。その後はまだ分かりません」


「継続する可能性あるんか」


「あります」


「ほな、うち使うな」


「今年いっぱいやるんでしょう?」


「今年の8台だけ作って終わるならできる。でも来年も追加来る品物やったら、最初から次のとこ通したほうがええ」


「吉岡さんのほうが分かってる仕事やのに」


「せやからや」


 吉岡が3枚の図面を戻した。


「最初にうちで通して、半年後にまた別んとこで確認し直すんか? 二度手間やろ」


 理屈ではその通りだった。


 納期だけ考えれば、吉岡へ出すのが一番簡単だ。


 どんな状態で持ち込めばいいかも知っている。吉岡も黒瀬の品物を見慣れている。


 だが、この先も続く可能性がある仕事なら、今から別の行き先を作ったほうがいい。


「今出してる仕事は?」


「それは持ってこい」


「え?」


「年内は仕事する言うてるやろ」


「新しい仕事は持ってくんな言うたやないですか」


「先がある新規品や。今までやってる品物まで全部引き上げられたら、年末まで何して過ごすねん」


「ややこしいなあ」


「お前が勝手に全部移そうとするからや」


「まだ何も言うてへん」


「顔が言うてる」


 どこかで聞いたようなことを言われ、直人は苦笑した。


「じゃあ既存品は、今まで通り相談します」


「年末まではな」


「分かりました」


「ただし、来年へ続く品物は別んとこ探せ」


「候補あります?」


「田端に聞け」


「吉岡さんは紹介してくれへんの?」


「わしが紹介したとこで何か出たら、お前ずっと言うやろ」


「言いませんよ」


「美智子さんが言う」


「オカンを何やと思ってんですか」


「黒瀬の金庫番」


「否定できへんな……」


 吉岡が笑った。


「候補決めたら、図面ぐらい見たる」


「ええんですか?」


「まだ閉めてへん」


「分かってますよ」


「それと、勝手に廃業したみたいに言い回るなよ。年末までやるんやから」


「誰に言い回るんですか」


「田端」


「あの人もう知ってそうやけど」


 工場を出て、その場で電話をかけた。


『はい、田端です』


「吉岡さんとこ、年末で終わるって聞いた?」


『聞きましたよ』


「やっぱり」


『昨日電話ありました』


「俺、遅いやん」


『順番ちゃいます?』


「何の順番や」


『知らんけど』


「知らんのかい」


 直人は駐車した車にもたれた。


「表面処理、新しいとこ探したいんやけど」


『何の処理です?』


「新しい包装機の部品。3点ある」


『3点とも同じ処理?』


「ちゃう。2種類」


『なら図面見せてください』


「田端さんが加工するんちゃうやろ」


『運んでたら、どこが何やってるかくらい分かりますよ』


「候補ある?」


『あります。ただ、吉岡さんとこでやってた仕事を全部1軒へ持っていくのは無理やと思います』


「やっぱり?」


『小口多いとこ、量産多いとこ、大きい品いけるとこ。それぞれ違いますから』


 昔から分かっていたことだった。


 表面処理なら、何でも同じ工場へ持っていけばいいわけではない。


 吉岡へ頼むことが多かっただけで、処理の種類や数量によって別の会社へ出す仕事もある。


「この3点に合うところだけ見たい」


『なら2軒あります』


「明日動ける?」


『午前なら』


「頼む」


 黒瀬精機へ戻ると、直人は3枚の図面を佐野へ渡した。


「この3点、見積の外注先まだ入れんといて」


「吉岡さんではないんですか?」


「新規品は別を探すことになった」


「何かありました?」


「今年いっぱいで仕事を終えるって」


 佐野の手が止まった。


「吉岡メッキさんが?」


「うん。ただ、今やってる既存品は年末までお願いする。全部一気に変える話やないから」


「分かりました。この3点だけ外注先未定にしておきます」


「お願い」


 工場へ入ると、森川が加工済みの部品を確認していた。


「森川、ちょっとええ?」


「はい」


「吉岡さんとこ、今年いっぱいで閉める」


 森川が直人を見る。


「メッキ全部?」


「会社自体を終わるって。今出してる分は年末までやってくれる」


「急に困る仕事あります?」


「今すぐはない。ただ、新しい包装機の3点は吉岡さん使わん」


「次を探す?」


「田端さんに2軒候補出してもらった。最初の確認だけ先にやる」


 森川は頷き、すぐに加工予定を聞いてきた。


「黒瀬で加工してから出す品物あります?」


「2点」


「なら初回分だけ先に加工しましょうか。全部作ってから処理で引っ掛かったら止まるんで」


「そうして」


「何個?」


「包装機1台分だけ」


「分かりました」


 翌朝、田端と2社を回った。


 最初は八尾方面の工場だった。


 処理自体はできる。


 図面を見た担当者も、条件としては問題ないと言った。


 ただし数量を聞いたところで反応が変わった。


「8台分だけですか?」


「最初は」


「1品で8個から16個くらいですよね」


「そうです」


「できますけど、最低処理費が掛かります」


 提示された金額を見る。


 品物1個当たりへ直せば、吉岡へ出していたときよりかなり高くなる。


 直人は値切らなかった。


 相手には相手の設備と段取りがある。


「分かりました。一回持ち帰ります」


 次の工場では逆だった。


「この数量なら大丈夫ですよ」


 担当者は図面を見ながら言った。


「ただ、この処理だけはうちではやってません」


「3点全部は無理?」


「2点ならできます。残り1点は別へ出してもらったほうがいいです」


 直人が田端を見る。


「やっぱり1軒では終わらんな」


「言うたでしょう」


「吉岡さん、よう受けてくれてたな」


「何でも吉岡さんやったわけちゃうけど、黒瀬さんの小口と相性よかったんでしょうね」


「そうやな」


 その言い方が一番正しかった。


 昼過ぎに黒瀬へ戻った。


 候補は2社。


 ただし、片方だけですべてを置き換えることはできない。


 直人は美智子へ金額を見せた。


「こっち高いな」


「最低処理費がある」


「数量増えたら?」


「下がる。ただ最初8台しか決まってへん」


「なら8台で考えなあかんな」


「うん」


「安いほうだけに寄せられへんの?」


「できへん処理が1点ある」


「ほな、選ぶ話ちゃうやん」


「そうなる」


 美智子は見積を直人へ返した。


「客には?」


「まだ。まず1台分だけ処理して、仕上がり見てから話す」


「その確認品の費用は?」


「見積に入れる」


「ならええ」


 翌週。


 森川が前倒しした2点の加工が終わった。


 村井が初回分を箱へ入れる。


「これ、新しいところですか?」


「そう」


「吉岡さんのところは?」


「既存品はまだ出す。これは新規品やから別」


「分かりました」


 田端が集荷に来た。


 荷台には別の会社から預かった箱が2つ載っている。


「黒瀬さんの、これ?」


「うん」


「こっちは若江方面へ持っていきます」


「頼む」


 田端が送り状を確認した。


 その横に、もう一つ黒瀬の箱が置いてある。


「これ吉岡さん行き?」


「そう。こっちは前からやってる品物」


「同じ日に両方出るんや」


「今はな」


 田端は何も言わず、それぞれ違う位置へ箱を積んだ。


 1週間後、新しい処理先から確認品が戻った。


 村井が箱を開ける。


「あれ?」


「何?」


「色、違いません?」


 直人も手に取った。


 確かに違う。


 過去に吉岡で処理した似た部品と並べれば分かる程度だが、表面の色味が少し違って見える。


「寸法は?」


 森川が測定する。


「問題ないです」


「図面条件は?」


「入ってます」


 処理指定も合っている。


 検査項目にも外れているものはない。


 村井が聞いた。


「これなら出せるんですか?」


「客に見てもらう」


「規格入ってても?」


「前と見た目違うからな。俺らだけで『同じ扱いでええ』とは決めへん」


 直人は確認品を箱へ戻した。


 その日の午後、包装機メーカーへ持ち込む。


 生産技術担当は過去の処理品と新しい処理品を机の上へ並べた。


「少し違いますね」


「処理指定と寸法は入ってます」


「これはどこに付く部品でしたっけ」


 組立図を広げる。


 カバーの内側。


 通常使用では外からほとんど見えない場所だった。


「機能には?」


「処理会社からは、指定条件内との回答です」


「じゃあ、これで一度組んで確認します」


「残りは止めてあります」


「助かります。明日には返事できます」


 その日は結論を持ち帰らなかった。


 黒瀬へ戻ると、吉岡行きの箱が作業台の端に置かれていた。


 翌日集荷する既存品だ。


 その隣には、新しい処理会社から戻ってきた確認品の控えと検査記録がある。


 吉岡の工場は、まだ開いている。


 今まで頼んできた仕事も、明日またそこへ出す。


 一方で、来年以降も続くかもしれない品物は、別の工場で確認を始めた。


 田端が夕方の集荷に来た。


「吉岡さん行き、これですね」


「うん」


「新しいほうは?」


「客の確認待ち」


「まだ決めへんの?」


「急いで決めてもしゃあないやろ」


「年末までまだありますしね」


「そういうこと」


 田端は吉岡行きの箱だけを荷台へ積んだ。


 シャッターを閉める前、直人は作業台に残った確認品を見た。


 明日は、客から返事が来る。


 それで1点進む。


 残りの処理先も、まだ決めなければならない。


 吉岡が槽を止めるまで、あと9か月あった。




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