第188話 図面のない部品
2009年3月の終わり、新大阪計測機器の西村さんが黒瀬精機へ持ち込んできたのは、図面ではなく、油の染みた小さな布包みだった。
「これ、見てもらえます?」
応接机の上で布を開く。
中から出てきたのは、手のひらより少し大きい金属製のブロックだった。二本のボルトで取り付けるらしく、片側には長く擦れた跡が残っている。
「何の部品です?」
「古い検査装置のワークガイドです。うちが今売ってる設備ちゃいますよ。客先で十年以上使ってるやつです」
西村さんは最初にそこをはっきりさせた。
去年中止になった新設設備の計画とは関係ない。
今ある機械を使い続けるための話だった。
「メーカーには?」
「問い合わせてもらったんですけど、補修部品はもう出せへんそうです。それで図面も残ってない」
「これは今付いてたやつ?」
「前に交換して保管してた古い方です。今機械に付いてる方も、同じところがかなり減ってるらしいです」
俺はブロックを持ち上げた。
見た目だけなら、そう複雑な品物ではない。
角材から削り出して、穴を開け、段を付ける。加工だけを考えれば、黒瀬精機で十分できそうだった。
ただし、作るべき寸法が分からない。
「これと同じ物を作ってくれ、という話です?」
「最初はそう聞いてます」
「それは、そのままでは受けられへんな」
西村さんが眉を上げた。
「難しいですか?」
「削るのは難しくないと思います。でも、これ減ってますよね」
光っている面を指でなぞる。
「減った寸法のまま写したら、新品やなくて、使い古した部品の新品を作ることになる」
「ああ……」
「森川にも見てもらいます」
工場から森川を呼んだ。
森川はブロックを一度ひっくり返し、すぐ測定器を取りに行くことはしなかった。
「どこに付いて、何がここへ当たるんです?」
「そこから?」
西村さんが聞く。
「そこ分からんかったら、測っても数字の意味が分かりませんから」
西村さんが持参した簡単な装置配置図を出した。
検査位置へ入ってくる小型部品を左右から案内し、測定部へ送り込むためのガイドらしい。直接駆動力を受ける部品ではなく、ワークが横へ逃げるのを抑える役目だという。
「人の安全に関わるところでは?」
俺が確認する。
「そこではないです。カバーの中ですし、これが減ったらワークの位置が安定せえへんようになる」
「今は?」
「たまに入口で姿勢が崩れるようになってるそうです」
森川が摩耗面を光へ向けた。
「現物だけで決めるんは嫌ですね」
「やっぱり?」
「取付面と穴位置は拾えます。減ってないところも測れる。でも、この案内面だけは元が何ミリやったか分かりません」
そこへ宮田もやってきた。
「何です、それ」
「図面なし」
「うわ」
短い反応だったが、手はすぐ伸びた。
森川から渡された部品を見る。
「ここだけ減ってますね」
「そう見える?」
「反対側と光り方が違います」
山岸さんも旋盤の仕事を一区切りつけて覗き込んだ。
「長いこと擦ってますね。これ、現物通り作ったらあかんやつでしょう」
「全員同じこと言うな」
俺が言うと、西村さんが笑った。
「持ってきて正解やったみたいですね」
その日のうちに作れるかどうかは答えなかった。
客先の装置を見せてもらう。
実際に流しているワークの寸法も確認する。
それができないなら、この仕事は受けない。
その条件を伝えると、西村さんはその場で客先へ連絡を取り、翌日の午前中に装置を見られるよう話をつけてくれた。
翌朝、俺と森川は現物を持って先方へ向かった。
検査装置は新しくなかったが、放置されている機械でもなかった。清掃され、補修された跡もあり、必要なところへ手を入れながら使われ続けている。
担当の保全員がカバーを開けた。
「この奥です」
装置が停止し、電源が落とされていることを確認してから中を見る。
同じ形のガイドが取り付けられていた。
持参した古い部品と比べると、こちらも案内面が光っている。
「引っ掛かるのは毎回ですか?」
「いや、そこまでちゃいます。部品によって出たり出んかったりです。ただ、前より増えました」
「今流してる品種、何種類あります?」
「三種類です」
「製品図あります?」
「ありますよ」
「見せてもらえます?」
森川はそこで初めて、装置側の寸法を測り始めた。
取付面。
二本のボルト穴の位置。
ガイドを取り付けた時の高さ。
反対側にある基準面との距離。
俺は測定そのものには手を出さず、保全員から装置の使われ方を聞いた。
三種類のワークは外形寸法が少しずつ違う。
昔はさらに何種類か流していたが、現在はその三種類に絞られている。
「これ、昔交換した時の記録は残ってません?」
「交換した日だけなら保全記録にあります。でも寸法までは……」
「その時、何で交換したかは?」
「摩耗です。位置がずれるようになって交換したと書いてあります」
記録が出てきた。
詳しい図面はない。
それでも、何もないわけではなかった。
いつ交換したか。
どういう症状が出たか。
何のための部品なのか。
どこへ取り付くのか。
何がその間を通るのか。
森川が三種類の製品図を並べる。
「直人さん、これなら工場戻ってもう一回見たいです」
「何か分かった?」
「だいたい。ただ、今ここで元寸法やと言い切りたくないです」
「分かった」
古いガイドを預かったまま黒瀬精機へ戻った。
午後、森川が作業台の上へ部品を置き、村井を呼んだ。
「村井、これ測ってみて」
「全部ですか?」
「まず減ってへんと思うところから。厚み、取付面、穴位置。案内面は最後」
「分かりました」
村井はもう、測定器の使い方から教える段階ではない。
どこを基準に測るかを考え、数字を紙へ落としていく。
しばらくして、手が止まった。
「森川さん」
「何?」
「これ、こっちとこっちで合わないです」
「どれぐらい?」
「0.4ミリ弱」
森川が覗き込む。
村井は左右の寸法をもう一度測った。
測り間違いではない。
「平均取ったらあかんですよね」
村井が先に言った。
森川が笑った。
「よう分かってるやん」
「だって、どっちかが減ってるなら平均したら両方違いますよね」
「そういうこと」
俺も横から数字を見る。
ほぼ同じ形に見えた左右で、約0.4ミリ差がある。
加工時のばらつきかもしれない。
長年の摩耗かもしれない。
その数字だけでは決められない。
山岸さんが古い部品を手に取った。
「こっちがワーク当たってた面でしょう」
「そうです」
「なら、この差は摩耗で考えた方が自然ちゃいますか。取付側はほとんど傷んでへんし」
森川も頷く。
「俺もそう思います。ただ、0.4全部が摩耗した量とはまだ言えません」
そこで午前中に測った装置側の数字が出てきた。
三種類のワーク寸法も並べる。
現物の減っていない取付基準から、装置の中心。
反対側ガイドとの位置関係。
現在使われている最も幅のあるワーク。
最も細いワーク。
数字を一つずつ合わせていく。
ここには、新しい管理表も、新しい札もいらなかった。
必要なのは、どの数字なら信用できるかを見分けることだった。
「これやな」
森川が鉛筆で一か所を囲んだ。
「元はこの辺やと思います」
「断定できる?」
「完全には無理です。元図面がないんですから。でも、取付位置と使ってる三品種から考えたら、この寸法が一番筋通ります」
村井が聞いた。
「じゃあ、この寸法で作るんですか?」
「いきなり完成品にはせえへん」
「少し残す?」
「そう」
森川が検討図へ線を引く。
「案内面だけ仕上げ代残して、一個作る。実機に付けて三品種流してから最後決める」
その方がいい。
机の上だけで正解を作ろうとする必要はない。
佐野さんには、この段階のものを正式な製作用図面として扱わないよう頼んだ。
「現物採寸と、こちらで推定した寸法を分けておきます」
「頼む」
「ファイル名も検討用にします。客先確認が終わってから製作用へ移しますね」
「それで」
佐野さんは余計な技術判断を加えず、誰が見ても現在地が分かるように整理する。
加工できるかを決めるのは森川たち。
図面を管理するのは佐野さん。
俺は客先へ、黒瀬精機がどこまで責任を持って作るのかを説明する。
役割を混ぜなければ、この手の仕事でも一人に全部集めずに済む。
見積もりも、単純な一個の加工費にはしなかった。
現物の確認。
客先での採寸。
検討図の作成。
試作品一個。
実機確認後の仕上げ。
そこまでが今回の仕事だと分けて出した。
先方から正式な発注が入ったあと、森川が工場の予定へ組み込んだ。
仕事量が落ちている時期だからといって、今日頼まれて明日完成という約束にはしない。
すでに受けている仕事を動かさず、空いているところへ入れる。
試作を担当したのは宮田だった。
「基準、ここでええんやな」
「はい。案内面だけ残してください」
森川が答える。
「了解」
加工そのものは難物ではない。
むしろ難しかったのは、機械へ材料を載せるまでだった。
何ミリにするのか。
その数字は何を根拠にしたのか。
現物のどこが元の形で、どこが使われて変わった形なのか。
そこが決まれば、宮田の手は速かった。
完成した試作品を村井が測る。
「穴位置、厚み、取付面、全部入ってます」
「案内面は?」
「指示通り残ってます」
「ほな持って行けるな」
実機確認の日、俺と森川が先方へ向かった。
古い部品を外し、試作品を取り付ける。
ボルト穴は無理なく合った。
ガイドの高さも問題ない。
まず装置を動かさず、一種類目のワークを手で通した。
抜ける。
二種類目も通る。
三種類目で、途中にわずかな抵抗が出た。
「ここやな」
森川が止める。
保全員も手でワークを動かした。
「前みたいにガタガタではないけど、ちょっと当たりますね」
「仕上げ代残してるんで、そこは直せます」
森川はその場で寸法を確認した。
再び三種類のワークを見る。
「案内面のこっち側だけ、0.15ミリ逃がしたいです」
「両側?」
俺が聞く。
「いや、こっちだけです。反対を触ったら基準位置まで動きます」
そこは曖昧にしない。
どの面を、いくら削るのか。
保全員にも確認してもらう。
「それで三種類ともいけそう?」
「寸法上は。ただ、削ったあともう一回ここで流します」
試作品を持ち帰った。
その日の工場では、森川自身が修正を担当した。
現地で判断した本人が加工面を指定し、案内面の片側だけを0.15ミリ落とす。
ほかの面は触らない。
翌日、再び取り付けた。
一種類目。
二種類目。
三種類目。
すべて手送りで通したあと、保全員が装置を低速で動かした。
ワークがガイドへ入り、姿勢を保ったまま検査位置へ送られていく。
何度か繰り返した。
三種類を入れ替えても、入口で姿勢を崩さない。
「前より落ち着きましたね」
保全員が装置を見ながら言った。
「しばらく使ってもらって、変な摩耗出んか見てください」
森川は成功したからといって言い切らなかった。
「今までの部品と材質条件も完全に同じとは断定できません。まずこの一個で様子見てもらいたいです」
「予備は?」
「これで問題ないの確認してからの方がええです」
俺も同意した。
最初から三個、四個と作って売れば金額は増える。
けれど元図面のない部品だ。
一個目で何か見落としていた場合、同じ間違いを何個も並べることになる。
「一週間ほど見ます」
保全員が言った。
「そのあと問題なければ予備もお願いします」
「分かりました」
黒瀬精機へ戻ると、佐野さんが検討図を机に出した。
「実機で決まった寸法、ここですね」
「うん。案内面はこの寸法で確定」
「ほかは変更なし?」
「なし」
「では、検討図とは分けます」
画面上のデータを書き換えるだけではなかった。
現物から測った数字を残した資料。
装置側との照合で決めた検討図。
実機確認後に決まった製作用の図面。
それぞれが混ざらないようにする。
「備考、どうします?」
「どういう意味?」
「元図面があって、それを転記した図面じゃないですよね。あとで見た人が分からなくならないようにしたいです」
俺は少し考えた。
「原図なし。現物、取付部、使用ワーク確認のうえ復元――ぐらいでええんちゃう?」
「それなら分かります」
佐野さんが入力する。
これで次に同じ注文が来ても、摩耗した現物をもう一度最初から測る必要はない。
ただし、別の装置へそのまま使えるとは限らない。
今回確認した装置に対して作った図面だということも残しておく。
午後二時が近づくと、谷口さんは電話の引き継ぎを佐野さんへ渡し、自分の机を片づけた。
「お先に失礼します」
「お疲れさん」
仕事の種類が増えても、そこへ谷口さんの勤務時間まで勝手に合わせる必要はない。
電話やFAX、郵便物の入口を担ってもらう。それ以上の仕事を増やすなら、別に考える話だった。
数日後、先方から連絡が入った。
一週間使っても引っ掛かりは出ていない。
摩耗の様子にも異常はない。
そこで初めて、同じ寸法で予備を二個作ってほしいという正式注文になった。
今度は現物復元ではない。
佐野さんが管理している製作用図面を使い、森川が予定へ入れ、宮田が加工する。
村井も完成品の寸法を確認した。
「最初のやつ測ってた時より楽ですね」
「そら図面あるからな」
山岸さんが言う。
「前は何を作るか決めるところからやった」
「加工時間より、そっちの方が長かったですもんね」
「そういう仕事もあるいうことや」
機械の音に紛れながら、二人の会話が続いていた。
俺は口を挟まなかった。
この仕事で黒瀬精機の売上が急に戻るわけではない。
翌月の予定表にはまだ薄い日があり、休業を使う可能性も残っている。
新しい設備投資が再開したわけでもなかった。
ただ、これまでとは違う金の取り方が一つ見えてきた。
材料を削った量ではない。
機械を回した時間だけでもない。
失われた図面の代わりに、残された現物と装置から必要な形を読み直す。
それも町工場が売れる仕事だった。
夕方、佐野さんが図面台帳を閉じる前に一行を追加した。
今回起こした図面の番号。
客先。
対象装置。
そして、復元の根拠。
横には、最初に持ち込まれた摩耗品の採寸記録も残されている。
俺はそれを確認してから工場へ戻った。
宮田が予備の二個目を削り、村井が一個目を測っている。
森川は別の通常加工の予定を見ていた。
特別な担当部署ができたわけでも、専用の機械を買ったわけでもない。
黒瀬精機が前から持っていた人と設備で、一つ仕事の幅が広がっただけだ。
作業台の端には、最初に持ち込まれた古いガイドが置かれていた。
もう、それを正解として写す必要はなかった。
佐野さんの図面台帳には、黒瀬精機が実機で確かめた寸法が残っている。
図面のなかった部品が、一つだけ減っていた。
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