第186話 仕事がない日に給料を払う
2009年1月、黒瀬精機の工場では、年が明けても機械の音が戻りきらなかった。
補修品の相談は続いている。
中部機工や大和搬送システムの保全担当者から、古い設備の図面や現物が送られてくるようになり、前年までなら拾えていなかった仕事も少しずつ受注できていた。
それでも、一件に二個、三個、六本という仕事が多い。
新規設備向けの部品や継続品がまとまって減った分を、それだけで埋められるほどではなかった。
一月最初の金曜日、森川修一が翌週の製造予定を持って事務所へ来た。
「直人さん、これ見てもらえます?」
直人は椅子を寄せた。
森川が指したのは、納期でも設備の重複でもない。
仕事の入っていない時間だった。
「月曜は普通にあります。火曜もここまでは埋まってます。ただ、この辺から薄いです」
「山岸さんは?」
「火曜でいったん切れます。木曜に旋盤の仕事ありますけど、それまで一日以上空きます」
「宮田さんと村井は?」
「こっちも似たようなもんです。水曜まではあります」
直人は予定表を眺めた。
「前へ寄せたら?」
「できますよ」
森川は即答した。
「ただ、寄せたらその後がもっと空きます。納期のために前倒しする意味はないです」
「せやな」
「掃除とか確認で使える時間もありますけど、それも毎週何日もやるようなもんちゃいますし」
「分かった」
森川が工場へ戻る。
直人はしばらく予定表を見ていた。
半年ほど前なら、空いている場所を見れば営業へ出ていた。
今も出ている。
それでも埋まらない。
仕事を取りに行く努力が足りないと決めつけて、利益の出ない注文まで抱え込めば、数年前から繰り返してきたことへ戻る。
だが、受注が回復するまで何もせず人を抱え続ければいいわけでもない。
「オカン」
「何?」
美智子が顔を上げた。
「去年の秋からの数字、もう一回見たい」
「どれ?」
「売上だけやなくて、出ていく方も」
「何考えてんの?」
「人が一日空くようになってきた」
美智子はそれだけで意味を理解した。
棚から帳簿と入出金の予定を出す。
隆夫も途中から加わった。
「とうとうそこまで来たか」
「毎日ちゃう。でも一日分の仕事ない日が出始めた」
直人が言うと、隆夫は森川の予定表を見た。
「残業は?」
「ほとんどない」
「休日出勤も?」
「ない」
「外へ出してる分を中へ戻せんのか」
「黒瀬でできる加工なら、もう森川さんが見てる。外に出してるんは、黒瀬だけではできん工程が中心や」
「そうか」
美智子が数字を追っていた。
「材料買う量は落ちてる。外注への支払いも前より少ない。でも仕事減ったからいうて、人件費や社会保険まで同じようには落ちへん」
「今の売上で、すぐ危ない?」
隆夫が聞く。
「すぐ会社回らんようになる数字ではないよ」
美智子はそう答えた後、一枚先の予定を確認した。
「せやけど、この状態が何か月も続くんやったら別やな」
直人は頷いた。
そこで一つ、未来で聞いた制度の名前を思い出した。
「オトン。中小企業向けの雇用の助成金、去年の12月から始まってるはずや」
「何の?」
「仕事減った会社が、人辞めてもらわんと休業とかで雇用残すためのやつ」
「国が給料出してくれるんか?」
「全部ちゃう」
「詳しいん?」
「制度あるんは知ってる。でも今の条件までは覚えてへん」
隆夫が眉を上げる。
「ほな先に調べろ」
「そのつもり」
直人は翌営業日、制度について確認しに行った。
中小企業緊急雇用安定助成金。
景気悪化で売上や生産量が落ちている中小企業が、従業員を解雇せず休業などによって雇用を維持する場合に使える制度だった。
ただし、仕事が少ないから明日から休ませ、その後で申請すればいいわけではない。
利用できる事業者に当てはまるか確認する。
休業の予定を決める。
休業手当について労使で取り決める。
必要な計画を事前に届け出る。
実際に会社が休業手当を支払った後、必要な手続きを経て助成を受ける。
説明を聞いた直人は、最後の部分をもう一度確認した。
「会社から先に払うんですよね」
「はい」
「助成されるから、休ませた月の資金が要らんようになるわけではない」
「そういう制度ではありません」
「分かりました」
黒瀬精機へ戻ると、直人はもらった資料を隆夫と美智子へ見せた。
「使えそうなん?」
隆夫が聞く。
「まず条件に入ってるか数字で確認せなあかん」
「ならそこからやな」
美智子は資料を読みながら、対象となる期間を確認した。
「売上の数字、こっちで出すわ」
「佐野さんの受注記録とも合わせたい」
「分かった」
佐野真紀にも資料を回す。
佐野は必要書類を一通り確認した後、休業を実施するまでの手順へ目を留めた。
「これ、先に日を決める必要ありますね」
「そうみたい」
「森川さんに製造予定見てもらわないと無理です」
「うん。ただ、制度使うために仕事ずらすんは違うから、納期優先で見てもらう」
「分かりました」
数日かけて数字を確認した。
美智子は一度計算したものを、そのまま提出用にはしなかった。佐野の記録と照らし合わせ、期間も確認し直す。
「条件には当てはまりそうやな」
最後にそう言った。
隆夫が資料を机へ置く。
「ほな使う?」
「工場の仕事がほんまに余ってる日だけや」
直人が答えた。
「そこは森川さんに見てもらう」
「休ませる人間には、いつ話す」
「決めてからいきなり、はあかんやろ」
隆夫は頷いた。
「先に説明する」
その日の終業前、隆夫は工場の人間を集めた。
機械を止めさせて長い話をするほどでもない。
それでも、会社の仕事量が減っていることを社員自身が感じている以上、曖昧にはしなかった。
「去年の秋から仕事減ってるんは、みんな分かってると思う」
隆夫が話し始めた。
「今んところ、人に辞めてもらう話は考えてへん。ただ、この先も仕事ない日に全員出てもらっても、工場でやることがなくなる」
山岸浩司が腕を組んだまま聞いている。
宮田悟と村井健太も黙っていた。
「それで、会社都合の休業を入れることを考えてる」
最初に口を開いたのは村井だった。
「休みになる日が増えるってことですか?」
「そうなる可能性がある」
「給料はどうなるんです?」
当然の質問だった。
隆夫は逃げなかった。
「休業してもらう日は、会社から休業手当を出す。ゼロにはせえへん。ただ、いつもの出勤日とまったく同じやという話でもない。そこは正式に決めてから金額も含めて説明する」
山岸が聞いた。
「ずっと休みになるわけちゃうんやろ?」
「仕事ある日は来てもらう。休み増やしたいからやるんちゃう。作るもんない日だけや」
「仕事戻ったら?」
「普通に戻す」
宮田が一度頷いた。
「分かりました」
直人は隆夫の隣で聞いていた。
社員を安心させるために、「絶対大丈夫」と言うことはできない。
先の受注量を保証できない以上、そんな約束をすれば嘘になる。
「仕事戻った時に、今の人数でまた作れる状態にはしときたい」
直人はそれだけ言った。
「そのために使える制度があるんやったら、使う。詳しい日程は森川さんと詰めて、決まったらまた説明します」
山岸が直人を見る。
「営業も頼むで」
「それは今もやってるわ」
「足らんから休みになるんやろ」
「厳しいなあ」
「こっちは休業手当になるんやからな」
山岸が笑った。
冗談には聞こえたが、言っていることはその通りだった。
「取ってくるよ」
直人も笑って返した。
説明を済ませたからといって、翌日から休業を始めたわけではない。
必要な取り決めを行い、従業員側との確認も済ませる。
会社として休業を行う日と対象を決め、必要な計画を事前に届け出た。
その間にも、仕事は入る。
補修品が一件増えた週は、予定していた候補日を動かした。
新大阪計測機器から急ぎの試作品が入った時には、森川が予定を最初から組み直した。
「この日は休業にできません」
森川が言った。
「何が入った?」
「新大阪さんです。前日に仕上げ予定ですけど、もし寸法修正出た時に人おらんかったら困ります」
「ほな外そ」
「こっちなら問題ないです」
森川が別の日を指す。
「山岸さんの仕事、前日までで一回切れます。次が翌々日からです」
「その間に無理に何か前倒ししてへん?」
「してません」
「ならそこやな」
直人が答える。
製造を休業計画へ合わせるのではなく、実際の受注に合わせた結果として空く日を使う。
森川がその順番を崩さなかった。
一月下旬、黒瀬精機で最初の休業日が来た。
対象になった山岸は、その日だけ会社へ来なかった。
朝、工場へ入った直人は、いつも聞こえる旋盤の音がないことに気づいた。
機械が故障しているわけではない。
材料待ちでもない。
作る仕事がないから、人ごと休ませている。
宮田は別の加工を進め、村井も自分の仕事へ入っていた。
「山岸さんおらんと、やっぱり静かですね」
村井が言った。
「機械一台分やのにな」
「ずっとあそこ動いてるの見てましたから」
「明日は戻るよ」
「それは分かってます」
村井は笑って加工へ戻った。
その日は予定通りに終わった。
翌朝、山岸は普通に出勤してきた。
「おはようさん」
「おはようございます」
作業着へ着替え、旋盤の前へ行く。
森川はすでにその日の仕事を用意していた。
直人が近づく。
「昨日どうやった?」
山岸が振り返った。
「何が?」
「いや、急に平日休みなったから」
「朝はええな思ったで」
「朝は?」
「昼から長い」
「何してたん?」
「何で会社に休まされて、休みの過ごし方まで報告せなあかんねん」
「別に報告ちゃうわ」
山岸が笑った。
「家おったよ。せやけど、これ毎週増えるんは困るな」
「手当のこと?」
「そらそうや。休み欲しけりゃ自分で有休取るわ。会社から仕事ないから休んで言われるんは別やろ」
直人は頷いた。
「うん」
「仕事戻るんやったらええけどな」
「戻すようには動く」
「そこは頼むわ」
「分かってる」
山岸は旋盤へ向き直った。
機械が動き始める。
昨日一日止まっていたとは思えないほど、いつもの音だった。
二月になると、休業日は少し増えた。
全員を同じ日に休ませるわけではない。
森川が受注と納期を見て、どの工程に仕事がないかを確認する。
ある週は山岸。
別の週は村井。
仕事が重なれば休業候補から外す。
宮田の加工が続いている時に、制度を使うためだけに休ませることもしなかった。
それでも、二人が同じ日に休む日が一度できた。
直人が朝、工場へ降りる。
機械の前に二人分の空きがある。
森川は宮田の仕事を確認していた。
「今日、これで全部?」
「はい。夕方まで掛かるのは宮田の分だけです」
「明日は?」
「山岸さんも村井も朝からあります」
「予定変わってへん?」
「変わってません」
「分かった」
直人はそれだけ聞いて事務所へ戻った。
美智子が給与関係の書類を確認している。
「休業手当、今月分これな」
「うん」
「会社から先に出す分やから」
「分かってる」
「助成金入る時期と一緒に考えたらあかんで」
「そこは分けて見てる」
「ならええ」
直人は金額を見た。
人を休ませれば、その日の会社負担が消えるわけではない。
売上のない日に金を払う。
その一部を後から助けてもらう。
それでも社員を抱える方を選んでいる。
「思ったより出るな」
直人が言うと、美智子が顔を上げた。
「当たり前やろ」
「いや、分かってたけど」
「人残すいうんは、口で言うだけやったらタダやからな」
「痛いとこ言うなあ」
「ほんまのことや」
美智子は書類を揃えた。
「でも今のところ払える。払えるうちは、今決めたやり方でええんちゃう」
「うん」
「ただ、仕事取ってこんかったらずっとは無理やで」
「オカンまでそれ言う?」
「山岸さんにも言われたんやろ」
「何で知ってるねん」
「狭い会社やから」
「またそれか」
直人は苦笑した。
午後から客先へ出た。
新しい設備の話だけではない。
補修品、試作、設計変更、少量品。相手の工場で今必要になっている仕事を聞いて回る。
だが、営業へ行ったその日に機械一台分の仕事が手に入るほど甘くはなかった。
何件か相談はもらった。
見積もりにならないものもあった。
図面が届くのは来月だと言われた案件もある。
会社へ帰れば、今日止まっていた機械が動き出すわけでもない。
二月後半。
山岸と村井が休業した日の夕方、工場では宮田の機械だけが最後まで動いていた。
森川がその日の作業を確認し、終業前に翌朝の準備をする。
「明日は二人とも普通に?」
直人が聞いた。
「はい。山岸さんは朝から旋盤。村井はこっちです」
森川が図面を二枚見せた。
「宮田は?」
「今日の続き終わったら別の小ロット入れます」
「分かった」
翌朝。
山岸が出勤し、旋盤の電源を入れる。
少し遅れて村井も自分の持ち場へ向かった。
「おはようございます」
「おはよう」
昨日二台止まっていた工場に、また機械音が戻る。
休業日がなくなったわけではない。
来週にも一日、仕事の薄い日がある。
受注が回復したわけでもない。
それでも今日作る物はあり、昨日休んだ二人がその前に立っている。
直人は工場を一度見渡した後、鞄を取りに事務所へ戻った。
今日は朝から客先を三社回る予定だった。
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