第177話 図面を開く工場

 2002年の夏。


 午前10時を過ぎた頃、谷口が1本の電話を佐野へ回した。


「新大阪計測機器さんです。試作の見積もりで、図面をメールで送ったそうです」


「何点って?」


「14点です」


 佐野真紀の手が止まった。


「14?」


「先方もそう言ってました」


 直人も事務机から顔を上げる。


 新大阪計測機器とは、3年前に1度見積もりを出して失注したあと、何度か小さな案件でやり取りするようになっていた。1999年当時、DXFの見積図が電子メールで届いただけでも黒瀬精機には新鮮だったが、今では佐野がデータを開くこと自体に驚く者はいない。


 ただ、14種類を1度に送ってくるのは初めてだった。


「組立1台分らしいです」


 谷口が受信記録を見ながら補足した。


「検査装置の試作。全部少量で、数量は1個から4個」


「納期は?」


「そこは佐野さんと話したいって」


 佐野が受話器を取る。


「お世話になっております。佐野です」


 直人は自分の机へ戻らず、そのまま話を聞いた。


 14種類。


 見積回答は3日後まで。


 装置の組立開始は翌月。


 図面はすべてDXF。


 ただし、今届いているのは見積もり用で、発注が決まった場合には正式な製作用図面を改めて発行する。


「分かりました。14点すべて、まず受領確認します。こちらで開けないデータや不足があれば今日中に連絡します」


 佐野が電話を置いた。


「3日?」


 直人が聞く。


「はい」


「短いな」


「でも14種類とも数量少ないです」


「種類多い方が面倒やで」


「それは直人さんの仕事でしょう」


「容赦ないな」


 佐野はもうメールを開いていた。


 添付ファイルは14個。


 先方の品番ごとに名前が付けられている。


 佐野は受領したデータを案件フォルダへ保存すると、1つずつ開いて表示崩れがないか確認した。黒瀬にはすでに2次元CADがある。DXFを見るだけなら特別な作業ではなくなっていた。


 問題は、その先だった。


「全部開きました」


「印刷できる?」


「できます。ただ、1枚だけ文字が重なってるように見えます」


「データ側?」


「それはまだ分かりません」


 佐野は勝手に文字位置を直さなかった。


「先方に確認します。黒瀬側で見やすく直して、それを正しい図面みたいに扱う方が危ないので」


「頼む」


 残り13枚を印刷すると、直人は工場へ持っていった。


「森川、ちょっと時間取れる?」


 森川修一が予定表を見る。


「今なら20分ぐらい」


「14種類ある」


「20分撤回してええですか」


「聞くだけ聞いて」


 山岸が横から笑った。


「工場長、逃げるん早いな」


「14枚一気に持ってくる人に言うてください」


「俺が持ってきたんちゃう。客や」


「客より直人さんの方が断りやすいんで」


「ひどいな」


 直人は図面を作業台へ広げた。


「全部、試作。数量一から四。見積もり3日後」


 森川の表情が仕事の顔に変わる。


 1枚目を取る。


「これはNC旋盤でいけます」


 2枚目。


「フライス要りますね。黒瀬だけではしんどい」


 3枚目。


「これも旋盤。ただし薄肉なんで、つかみ方考えたいです」


 4枚目には表面処理がある。


 5枚目はアルミ。


 6枚目はSUS。


 図面を1枚ずつ見ながら、直人はその場で「取る」「取らない」を決めなかった。


「森川。加工できるかだけ見て。値段と、受けるかどうかはあとで俺がまとめる」


「分かりました」


「今の予定に14種類全部ねじ込める?」


「ねじ込む前提で聞かんといてください」


「入るかどうか聞いてる」


 森川は予定表を見直した。


「全部一斉に来たら嫌です。でも、試作で1個2個なら、黒瀬でやる分を六、7種類までに絞れば入れられます」


「残りは協力先?」


「形見て決めてください。黒瀬で無理にやるより早いところあるでしょう」


 そこは直人も同じ考えだった。


 14種類全部を自社加工へ引き込んでも、売上が増えるとは限らない。


 不得意な加工に時間を取られ、その間に得意な仕事を止めれば逆効果だ。


「宮田さん」


「はい」


「これ見て」


 直人が比較的単純な旋盤品を渡す。


 宮田悟は図面を見ると、素材径と仕上がり径を確認した。


「在庫材では太すぎます。買った方が早いですね」


「何本取れる?」


「定尺で買うなら、数量2個やから余ります」


「余り使えそう?」


「この材質なら使えます。ただ、次いつ使うかは分かりません」


「そこ込みで材料費出すわ」


 次に村井健太へ1枚渡した。


「村井、これなら今の設備でどう組む?」


 入社から3年ほど経ち、村井はもう洗浄や面取りだけを教わる立場ではない。単純な加工なら自分で段取りを考え、難しいところだけ確認を求める。


 図面をしばらく見たあと、村井は答えた。


「1回で両方は無理です。最初に外径出して、反対つかみ直して長さ仕上げます。ただ、この公差なら2回目のつかみで振れ見たいです」


「何で?」


「ここ。穴と外径の同軸があるんで」


 森川が横から図面を見る。


「それでええ。最初から穴まで仕上げ切るなよ。二工程目の基準残しといて」


「はい」


 直人は加工時間だけをメモした。


 村井の考え方は採る。


 ただし初回の条件確認は森川が見る。


 誰か1人に14種類を丸ごと抱えさせる必要はなかった。


 昼前には、黒瀬で加工候補にするものが7種類まで絞れた。


 残り7種類のうち、3種類は既存の協力先へ見積もりを頼む。


 2種類は工程の組み合わせ次第。


 最後の2種類は、黒瀬が間に入るより専門の加工先へ直接出してもらった方がよさそうだった。


「直人さん」


 佐野が工場へ来た。


「文字重なってた図面、先方から返事です。向こうの出力でも重なってたそうです。修正版送り直すって」


「古い方どうする?」


「受領原本は残します。でも見積もり対象から外して、《差替前》にします」


「新しいの来たら並べて」


「はい」


「あと、この2種類」


 直人は専門外と判断した図面を渡した。


「黒瀬から協力先へ出す見積もりには入れへん。先方に、直接専門業者へ当たった方がいいって返す」


「14種類全部まとめて請けないんですか?」


「まとめるために高くなったら意味ないやろ」


「分かりました」


 佐野はそれ以上何も言わなかった。


 午後、谷口が協力先から戻ってきたファックスを受け取る。


「南田さんから1件、返ってきました」


「早いな」


 直人は価格と納期を確認する。


 別の協力先からは、材料支給なら可能という返事。


 さらに1社は、その週の予定が埋まっているため希望納期では難しいと回答してきた。


 以前の直人なら、そこで別の加工先を探してでも14種類をまとめようとしたかもしれない。


 今回は違った。


「この1種類も、新大阪さんへ返そう」


 隆夫が聞く。


「受けへんの?」


「受けることはできる。でも新しい協力先探して、初回だけ1個作ってもらって、黒瀬が検査して、3週間以内。そこまでして間へ入る意味が薄い」


「手数料取ったら?」


「取れるけど、その分先方が高なる」


「じゃあ何種類見積もる?」


「11種類」


「14来て11?」


「うん。うち七、協力先四。残り三は今回は黒瀬で持たん」


 隆夫は図面を見た。


「売上減るぞ」


「受注してから困るよりましや」


「まあな」


 直人はそこで、先方へ1度電話を入れた。


「14種類のうち、11種類は黒瀬で見積もります。残り3種類は、こちらで無理にまとめるより別の専門業者へ直接出された方がいいと思います」


『3種類は対応できませんか』


「作れないわけではありません。でも黒瀬が新しく外注先を探して取りまとめるだけになります。その分、納期も値段も余計に掛かります」


『一括でお願いできる会社を探しているのですが』


「装置1台分の窓口を減らしたい、という意味ですよね」


『そうです』


「なら11種類まででも、今より発注先は減らせるでしょう。何でも黒瀬経由にすることが一括化とは限らないと思います」


 相手は少し考えた。


『分かりました。まず11種類でお願いします』


「ありがとうございます」


 受注前から、できない仕事を抱え込まない。


 それも3年前とは違うところだった。


 見積もり作業は翌日まで続いた。


 単品に近い試作なので、1個当たりの加工費は量産品より高い。


 段取りが1回必要なのに、製品は1個か2個しかないからだ。


 佐野が一覧へ数字を入れながら尋ねた。


「11種類、それぞれ単価だけで出します?」


「工程別の細かい原価までは出さん。でも品番ごとの価格は分ける」


「まとめ値引きは?」


「せん」


「即答ですね」


「14種類まとめて来たから安くなる仕事ちゃう。むしろ段取りは11回ある」


「ですよね」


「ただ、同じ材料をまとめて買える分と、同じ日に協力先へ回せる分はこっちの原価で拾ってる」


「それを値引き欄にはしない?」


「最初から価格へ反映する」


 佐野が頷く。


 最終的な見積総額は、11種類で112万円になった。


 隆夫が数字を見る。


「100万超えたか」


「種類あるからな」


「粗利は?」


「予定通りなら十分残る。ただ、初回やから黒瀬の加工時間は余裕見てる」


「納期は?」


「全部1日には出さへん。完成したものから2回に分けて納める」


「先方了解してる?」


「これから聞く」


「先に聞いてへんの?」


「製造順見てからの方が確実やろ」


 直人は森川のところへ戻った。


「11種類になった」


「減りましたね」


「黒瀬七、外四」


「いつから?」


「注文来たらや」


「それが普通です」


「分かってるって」


 森川は予定表を見ながら、7種類を3つのまとまりに分けた。


 旋盤主体。


 複合加工。


 初品確認に時間を取りたいもの。


「全部同時に材料入れんといてください」


「何で?」


「完成品の置き場より、途中品が増える方が嫌です。先に3種類、次に2種類、最後2種類で流したい」


「納品2回なら?」


「1回目に5種類、2回目6種類ぐらいならいけます」


「協力先戻りも合わせられる?」


「そこは直人さんが納期取ってください」


「分かった」


 製造順を森川が決め、直人が外との約束へ落とす。


 役割を逆にしなければ、話は早かった。


 その日のうちに新大阪計測機器へ、112万円の見積もりと2回納品の条件を返した。


 3年前のように、紙図面が翌日届くのを待つ必要はない。


 見積もりに使う図面はDXFで受け取った。


 ただし、見積図はあくまで見積図だ。


 1週間後。


 新大阪計測機器から注文の電話が入った。


 谷口が取り、直人へ回す。


「11種類、全部お願いしたいそうです」


「注文書は?」


「ファックスで今から送るって」


 受話器を取った直人は、最初に価格ではなく図面を確認した。


「製作用の正式図面は別で発行されますよね」


『はい。注文書と合わせて、承認済みの製作用図面を送ります。DXFも再送します』


「見積時のデータと同じでも、こちらでは新しい方を正式版として確認します」


『お願いします』


 電話を切ると、佐野がすでに案件フォルダを開いていた。


「見積時のDXF、製作フォルダへコピーしないで」


「しません」


「早いな」


「3年前から同じこと言われてますから」


「注文来ると嬉しくなって、そのまま使いそうになるやろ」


「直人さんと一緒にしないでください」


「俺も使わへんって」


 佐野は新しく届いた正式図面を、見積用データとは別の場所へ保存した。


 図面番号。


 版。


 発行日。


 11種類すべてを照合する。


 1件だけ、見積時から寸法公差が変わっていた。


「直人さん」


「出た?」


「1個違います」


 直人と森川が確認する。


 外径そのものは同じだが、公差帯が狭くなっている。


「これ、見積もり変わる?」


 直人が聞く。


 森川は少し考えた。


「加工時間は大きく変わりません。ただ測定は増やしたいです」


「何分ぐらい?」


「数量2個やから、総額で見たら大したことないです」


「じゃあ今回は価格そのまま?」


「製造側はそれでいけます」


 直人は先方へ変更点を確認し、正式図面の内容で製作することを双方で合わせた。


 ここで初めて11種類が製造予定へ入った。


 村井も1種類を担当した。


 比較的単純な段付き部品だったが、最初の1個を削り終えると、自分から森川を呼んだ。


「工場長、初品お願いします」


「測った?」


「はい。ここだけ中央寄りです」


「補正する?」


「まだしません。2個しかないんで、1個目通ってるなら2個目削ってから判断したいです」


 森川が記録を見る。


「それでええ。2個目も同じ方向へ寄ったら次の時の条件に残しといて」


「はい」


 直人は少し離れたところから聞いていた。


 村井に「そこはこうする」と口を挟む必要はなかった。


 黒瀬精機が図面を開けるようになったのは、パソコンがあるからだけではない。


 開いたあと、誰が加工方法を決めるのか。


 誰が初品を見るのか。


 どの図面を正式とするのか。


 その仕事まで分かれてきている。


 1回目の納品は5種類。


 予定した日に田端へは載せず、新大阪計測機器側の指定便で送った。残り6種類は協力先からの戻りを確認し、黒瀬で必要な受入確認をしてから2回目へまとめる。


 納品後、すぐに次の注文が来たわけではなかった。


 それでも今回の11種類は問題なく組み込まれ、試作装置も予定通り組み上がったという連絡が入った。


 そして翌年1月。


 谷口が朝の電話を取り、少し笑って直人を見た。


「新大阪計測機器さんです」


「何?」


「また図面送ったって」


「何種類?」


 谷口が受信記録を見る。


「9種類」


 直人は思わず工場の方を見た。


 森川と目が合う。


「森川」


「まだ受ける言わんといてくださいよ」


「分かってる」


「先に図面見るんでしょう」


「そう」


「なら持ってきてください」


 佐野はもうパソコンを立ち上げていた。


 9個のDXFが届く。


 今度は誰も、図面が紙で届かないことを話題にしなかった。


 谷口が電話の入口を受け、佐野がデータを開く。


 直人が見積もる範囲を決め、森川が製造できるかを見る。


 3年前には、DXFを開けること自体が黒瀬精機の新しい仕事だった。


 今は、その先で何を引き受けるかを選ぶ方が重要になっていた。


 佐野が9枚を印刷して机へ置く。


「見積用、9種類です」


 直人は1枚目を取り、森川のところへ向かった。


 画面の中の線を紙へ出せることは、もう強みとは呼べない。


 その線を見て、いくらなら作れるのか、いつなら作れるのか、そして黒瀬が作るべきなのかを答えられる。


 黒瀬精機は、そこまで来ていた。



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