第96話 前回単価の中身

 南田板金から見積もりの下書きが届いたのは、翌朝のことだった。


 高井田確認項目表の試行案件。


 東邦電装向け、制御盤内配線束固定用L字金具。


 数量はまだ仮。


 条件も、まだ全部は埋まっていない。


 それでも、南田は見積もりの形にしてきた。


 直人は、黒瀬精機の事務所でその紙を広げた。


 加工費。


 曲げ方向確認。


 バリ取り範囲指定。


 梱包向き指定。


 表面処理確認待ち。


 搬送条件確認待ち。


 その下に、南田の字で短く書かれていた。


 前回単価とは別条件。


 森川修一が横から覗き込み、低く笑った。


「南田さん、はっきり書いたな」


「うん」


 直人は頷いた。


 はっきり書くことが大事だった。


 前回と同じ品番。


 前回と似た形。


 前回と同じ取引先。


 そういう言葉は、町工場にとって危ない。


 実際には、前回と同じではないことが多い。


 使う場所が変わる。


 材料が変わる。


 傷の許容が変わる。


 梱包の仕方が変わる。


 それなのに単価だけは前回と同じと言われる。


 美智子が、赤鉛筆を持って紙を見た。


「このまま東邦さんに出したら、たぶん『どこが増えたんですか』って来るね」


「来ると思う」


 直人は答えた。


 宮田悟が、別の紙を用意した。


「前回条件と今回条件を並べますか」


 美智子はすぐに頷いた。


「それやね。値段だけ出したら、高い安いの話になる。条件を並べたら、何が違うかの話になる」


 隆夫が作業場から戻ってきた。


「南田さんに確認するか」


「うん」


 直人は言った。


「表面処理のところも、吉岡さんに見てもらった方がいいと思う」


 森川が腕を組む。


「黒っぽい処理いうだけでは分からんからな」


「うん。湿気と油分があるなら、見た目だけで決めるのは危ない」


 美智子は電話を取った。


 まず南田板金。


 次に吉岡メッキ。


 それから田端商会。


 黒瀬精機の事務所で、いつものように紙が増えていく。


 だが、今日の紙は黒瀬だけのためのものではない。


 町で作る表を、実際の見積もりに落とすための紙だった。


 午後、南田板金の工場に東邦電装の小原と鹿島がやって来た。


 黒瀬精機からは直人と隆夫。


 田端も、搬送条件の確認があるからと軽トラックで寄っている。


 吉岡メッキの吉岡は少し遅れて来る予定だった。


 南田板金の工場は、黒瀬精機よりも少し広い。


 板金用の機械が並び、薄板を切った端材が整理されている。作業台には、東邦電装のL字金具と図面、そして高井田確認項目表の試行表が置かれていた。


 南田は、小原に見積もり下書きを渡した。


 小原はそれを見て、すぐに眉を寄せた。


「やはり、前回単価より上がるんですね」


 その声には、責める響きがあった。


 南田は、怒らなかった。


 ただ、別の紙を出した。


「前回単価より上がる、というより、前回と条件が違います」


 紙には、2つの欄が並んでいた。


 前回条件。


 今回条件。


 前回条件。


 曲げ方向、現物合わせ。


 バリ取り、通常範囲。


 梱包、まとめ箱。


 使用環境、未確認。


 表面処理、過去品合わせ。


 搬送条件、未指定。


 今回条件。


 曲げ方向、記録化。


 バリ取り、配線被覆を傷つけない範囲。


 梱包、曲げ部を潰さない向き。


 使用環境、湿気、油分の可能性あり。


 表面処理、詳細確認待ち。


 搬送条件、梱包仕様決定後。


 小原は、その紙を見て少し黙った。


 鹿島が先に口を開いた。


「こう並べると、確かに前回と同じとは言いにくいですね」


 南田は頷いた。


「前回の品物が悪いと言ってるんやないです。前回は前回の条件で作った。今回は、確認することが増えた。それだけです」


 直人は、その言葉を心の中で拾った。


 確認することが増えた。


 それは、値上げの言い訳ではない。


 仕事の範囲を見えるようにする言葉だった。


 小原は、まだ納得しきっていない顔で言った。


「でも、形は同じですよね」


 南田は、作業台の上の金具を持ち上げた。


「形だけなら同じに見えます」


 そう言って、金具の角を指でなぞる。


「でも、ここにバリが残っていたら、配線の被覆に傷がつくと言われました。前回はそこまで明確には言われていない。今回は、それを条件に入れる。つまり、確認する場所が増えています」


 鹿島が小原へ言った。


「配線被覆を傷つけない、という条件はこちらから出しました」


 小原は、少し口を閉じた。


 田端が横から言った。


「梱包も同じですわ。まとめ箱でええなら安い。でも曲げを守るなら、入れ方を決める。どっちが正しいかやなくて、どっちを選ぶかです」


「入れ方だけで、そんなに変わりますか」


 小原が聞く。


 田端は、空の箱を持ってきた。


 同じ金具を、無造作に10個入れる。


 箱を軽く揺らすと、金具同士が当たって小さな音を立てた。


 次に、向きを揃えて曲げ部がぶつからないように入れる。


 動きは少ない。


 田端は言った。


「見た目は同じ箱です。でも、入れる手間と、傷み方が違います」


 小原は、箱の中を覗いた。


 それでも、まだ渋い顔だった。


「ただ、全部に手をかけると高くなります」


「そうです」


 直人は言った。


「だから、全部に手をかけないために確認しています」


 小原が直人を見る。


 直人は、前回条件と今回条件の紙を指した。


「外観の小傷は軽微なら可と決めました。そこには手をかけない。バリと角は不可と決めました。そこには手をかける。梱包も、曲げ部だけ守る。全部を厳しくするんじゃなくて、必要なところだけに絞っています」


 鹿島が頷いた。


「品質保証としては、その方が説明しやすいです。全部きれいに、ではなく、配線被覆を傷つけないことを優先する。そこが明確になります」


 南田は、作業台に薄板の端材を置いた。


「実際に見てもらいましょう」


 短い試し片を切り、曲げる。


 曲げそのものは早い。


 小原の目にも、そこだけ見れば簡単に見えただろう。


 だが、そこからが違った。


 南田は曲げた金具の角を指で確認し、細かいバリを落とす。


 さらに、配線を模した被覆付きの細い線を当て、軽くこすった。


「ここで引っかかると、現場で嫌がられます」


 線の被覆に、うっすら跡が残った。


 南田は、もう一度角を落とし、再びこする。


 今度は引っかかりが少ない。


 小原は、黙って見ていた。


 鹿島が言った。


「なるほど。バリ取りの範囲を指定する意味はありますね」


 南田は頷いた。


「ただし、全部の角を同じように丁寧に仕上げる必要はない。配線に触れる角を優先する。そこを決めたいんです」


 直人は、試行表に書き込んだ。


 バリ取り範囲。


 配線接触側優先。


 非接触側は通常範囲。


 外観小傷、軽微なら可。


 小原が、その文字を見て言った。


「非接触側は通常範囲でいいんですか」


「いいかどうかは、東邦さんが決めるところです」


 直人は答えた。


「ただ、そこまで全部厳しくすると、費用も時間も増えます」


 小原は、鹿島を見た。


 鹿島は少し考えてから言った。


「非接触側は通常範囲でいいです。制御盤内で見える場所でもありませんし、機能に関係しません」


 直人は頷き、書き足した。


 発注側確認済。


 非接触側、通常範囲可。


 小原は、その一行を見ていた。


 自分たちが条件を決めたことが、紙に残る。


 それは、彼にとって少し居心地の悪いことだったかもしれない。


 しかし、鹿島はむしろ落ち着いた表情になっていた。


「これは、こちらの判断も残るんですね」


「はい」


 直人は答えた。


「受注側だけの判断にしないためです」


 その時、吉岡メッキの吉岡がやって来た。


 作業着のまま、短く挨拶をして、現物を手に取る。


「黒っぽい処理いうのは、これか」


 南田が頷く。


「過去品やけど、詳細が分からん」


 吉岡は金具を角度を変えて見た。


「見ただけでは断定できん。黒染めか、簡易な塗装か、別の処理かもしれん。湿気と油分があるなら、何も考えずに過去品合わせは危ないな」


 小原が少し慌てた。


「過去品と同じでいいと思っていたんですが」


 吉岡は小原を見た。


「同じ処理を指定できるなら、それでええです。けど、何が同じか分からんまま『同じ』は指定になりません」


 直人は、その言葉を紙に書いた。


 何が同じか分からない「同じ」は指定にならない。


 美智子がいたら、赤鉛筆で囲んだだろう。


 鹿島が静かに言った。


「表面処理は、当社で過去発注履歴を確認します」


 直人は未記入理由欄に書いた。


 表面処理詳細。


 発注側確認待ち。


 過去発注履歴確認。


 吉岡が続けた。


「もし湿気を気にするなら、表面処理の選択肢はあります。ただ、処理を変えれば色味や寸法への影響もゼロではない。制御盤内で色味が問題ないなら、錆びにくさを優先する考えもある」


 小原が言った。


「そこまで必要ですか」


 吉岡は、少しだけ目を細めた。


「必要かどうかを決めるために、使用環境を聞いてるんです」


 その場が、少し静かになった。


 直人は思った。


 今日の小原は、何度も同じ壁にぶつかっている。


 そこまで必要か。


 前回と同じでいいのではないか。


 小さい部品ではないか。


 その感覚は、悪意ではない。


 だが、その感覚のまま進むと、手間は受注側へ流れる。


 東邦側の判断不足が、南田や吉岡や田端の確認不足に変わってしまう。


 三崎はいない。


 だが、鹿島はそれを感じ取っているようだった。


「小原くん」


 鹿島が言った。


「この表は、相手に書かせるだけのものではない。こちらが決めていないことも見える。そこを嫌がると、使えない」


 小原は、少し悔しそうに頷いた。


「はい」


 南田が、そこで見積もり下書きへ戻った。


「今回の見積もりは、こう分けます」


 加工費。


 バリ取り追加範囲。


 曲げ方向記録。


 梱包向き指定。


 表面処理は、東邦さんの確認後に別途。


 搬送条件は、梱包仕様決定後。


 南田は小原へ紙を向けた。


「今すぐ決められるのはここまでです。表面処理と搬送は、未確定のまま金額を決めると、あとで揉めます」


 小原は、見積もりを見た。


「では、今出る金額は仮ですか」


「仮です」


 南田は迷わず答えた。


「ただし、加工とバリ取りと曲げ方向記録の部分は出せます。表面処理と搬送を含めた正式見積もりは、条件確定後です」


 田端が頷く。


「運送も同じです。箱の大きさと詰め方が決まらんと、混載できるかどうかも変わります」


 鹿島は、試行表を見ながら言った。


「なるほど。見積もりも、埋まったところと未確定のところを分けるわけですね」


「はい」


 直人は答えた。


「全部埋まるまで出さないのではなく、決まったところから出す。ただし、未確定を未確定のまま隠さない」


 鹿島は、ゆっくり頷いた。


「これは使えます」


 小原は、まだ苦い顔だったが、今度は反論しなかった。


 南田板金での確認が終わる頃には、試行表は朝よりもずいぶん埋まっていた。


 用途。


 使用環境。


 守る面。


 許容傷。


 バリ取り範囲。


 曲げ方向。


 梱包向き。


 表面処理確認待ち。


 搬送条件確認待ち。


 そして、未記入理由欄。


 発注側確認待ち。


 梱包仕様未確定。


 過去発注履歴確認。


 小さな金具一つの紙としては、少し大げさにも見える。


 だが、これがないと、全部が「前回通り」の一言に飲まれる。


 帰り際、小原が直人に言った。


「黒瀬さん」


「はい」


「正直、まだ面倒です」


「はい」


「でも、今日見たら、何を面倒がっていたのかは少し分かりました」


 直人は、小原を見た。


 小原は目を逸らさなかった。


「こちらが決めていないことまで、受注側に押し込んでいたんですね」


 その言葉は、小さかった。


 だが、直人には十分だった。


「全部ではないと思います。でも、見えにくかっただけやと思います」


 小原は少しだけ頷いた。


「次までに、表面処理の履歴を確認してきます」


「お願いします」


 鹿島が横から言った。


「搬送条件も、こちらで必要数と納品単位を出します。田端さん、そのうえで相談させてください」


 田端は笑った。


「最初に言うてくれるなら、何ぼでも相談乗りますわ」


 黒瀬精機へ戻った直人は、試行表の写しを美智子へ渡した。


 美智子は、まず未記入理由欄を見た。


「増えたね」


「うん」


「でも、悪い空欄やないね」


 直人は頷いた。


「次に誰が動くか分かる空欄になった」


 宮田悟が、その言葉をすぐに書いた。


 次に誰が動くか分かる空欄。


 森川修一が作業場から顔を出す。


「今日も揉めました?」


「揉めた」


「勝った?」


 直人は少し考えた。


「勝ったというより、少し見えた」


「何が?」


「前回単価の中身」


 森川は、少し笑った。


「ええ言葉やな」


 美智子が、赤鉛筆で紙の上に書いた。


 前回単価には、前回条件が入っている。


 隆夫は、その文字を見て深く頷いた。


「これやな」


 直人も頷いた。


 前回単価。


 その言葉は、便利だ。


 だが、前回単価には、前回の条件が入っている。


 前回の曖昧さも、前回の我慢も、前回の未確認も入っている。


 条件が変われば、単価も変わる。


 確認範囲が増えれば、手間も変わる。


 それを言えるようにするために、表がある。


 夜、黒瀬精機の作業台には、東邦電装の試行表と南田板金の見積もり下書きが並んでいた。


 まだ正式ではない。


 だが、前へ進んでいる。


 直人は、最後に美智子が書いた一行を見た。


 前回単価には、前回条件が入っている。


 それは、町工場がずっと言えなかったことかもしれない。


 同じに見える仕事でも、同じとは限らない。


 同じ値段でできるかどうかは、同じ条件かどうかを見てから決める。


 高井田確認項目表は、今日また少し、値段を言うための紙に近づいた。


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