第95話 双方で埋める
東邦電装の試行案件は、思ったより小さな部品だった。
制御盤の中で配線束を押さえるための、L字の板金金具。
材質は薄い鉄板。
穴が2つ。
曲げが1か所。
ぱっと見れば、難しいものには見えない。
東邦電装の小原は、商工会議所の打ち合わせ室に現物と図面を置きながら言った。
「まずは、これで試したいと思っています。形状も単純ですし、確認表の試行には向いているかと」
その言い方には、少しだけ棘が残っていた。
面倒な表を使うなら、簡単なもので試してやる。
そう聞こえなくもなかった。
黒瀬精機からは隆夫と直人。
連絡会側からは、南田板金の南田、田端商会の田端。
藤野と白井も同席している。
東邦電装側は、三崎、鹿島、小原の3人だった。
直人は、図面と現物を見比べた。
確かに、形は単純だ。
だが、単純に見えるものほど、用途や扱い方で揉める。
南田が、現物を手に取ってすぐに言った。
「曲げ方向、これで合ってますか」
小原は少し眉を寄せる。
「図面通りです」
「いや、図面では正面図だけやから、曲げがこっちへ立つのか、向こうへ立つのか、現物と合わせんと分かりにくい」
南田は、金具を机の上でひっくり返した。
「片方なら配線を押さえる。逆なら配線に当たる。見た目は同じでも、使い方は変わります」
鹿島が図面を覗き込む。
「確かに、三面図ではないですね」
小原は少し顔を赤くした。
「現物見本があるので、それに合わせればいいかと」
「初回はそれでいけます」
南田は言った。
「でも、次に現物見本がない時、誰が判断するんですか」
会議室が少し静かになった。
直人は、高井田確認項目表の試作版を開いた。
対象面。
変更履歴。
用途。
発注側記入欄。
未記入理由欄。
昨日まで紙の上にあった言葉が、今、目の前の小さな金具に乗っている。
隆夫が静かに言った。
「まず、発注側記入欄から埋めましょう」
小原が少し戸惑う。
「こちらからですか」
「はい」
直人は答えた。
「これは双方記入式です。まず、東邦電装さん側が用途と使う場所を出してください」
三崎が小原へ目を向ける。
小原は資料をめくり、少し考えた。
「用途は、制御盤内の配線束固定用金具です」
宮田はいない。
だから今日は、直人が記録を取る。
用途。
制御盤内配線束固定用。
「その制御盤は、どこで使われますか」
直人が聞く。
「工場内です」
「屋内ですか。屋外ですか」
「屋内です」
「水や油はかかりますか」
小原は、すぐには答えなかった。
鹿島が横から言った。
「設置先によります。今回の納入先は、樹脂成形工場の周辺設備です。水は直接かからない想定ですが、湿気と油分はあるかもしれません」
南田が顔を上げた。
「それ、最初に聞けてよかったですね」
小原が少し口を閉じた。
直人は書き足した。
使用環境。
屋内。
樹脂成形工場周辺設備。
湿気、油分の可能性あり。
田端が口を開いた。
「納品時は、裸で箱詰めですか。袋に入れますか」
小原が答える。
「通常はまとめて箱詰めです」
「傷は気にしますか」
「制御盤の中なので、外観はそこまで」
鹿島がすぐに補足した。
「ただ、バリで配線被覆を傷つけるのは困ります」
南田が頷く。
「ほな、見た目の小傷より、バリと角ですね」
「はい」
直人は項目表に書く。
許容範囲。
外観小傷は軽微なら可。
バリ不可。
配線被覆を傷つける角不可。
田端が言った。
「重ねて運んでええんですか」
「薄物なので、重ねても問題ないと思います」
田端は、金具の曲げ部分を指した。
「この立ち上がり、重ねたら引っかかるかもしれません。曲げが潰れたら困りますか」
鹿島が現物を持って、少し力をかけた。
「曲げ角度が変わると、取り付け時に浮くかもしれません」
「なら、重ね方は決めた方がええですわ」
田端は言った。
「裸でざっと入れるなら安いです。でも、曲げを守るなら、仕切りか向き合わせが要ります」
小原が、少し面倒そうに言った。
「そこまで必要ですか。小さい金具ですよ」
田端は笑わなかった。
「小さいから、箱の中でよう動くんです」
南田も続けた。
「小さい金具ほど、曲げが当たって変形することあります」
直人は、小池製作所の「小さいから楽ではない」という文字を思い出した。
あれは、ここにも通じる。
「小原さん」
直人は静かに言った。
「この確認は、金具を高くするためだけのものではありません。どこまでなら簡易でいいかを決めるためでもあります」
小原が直人を見る。
「どういう意味ですか」
「全部を厳重梱包にすれば、費用は上がります。でも、裸で入れて曲げが変われば、現場で使えない。だから、どこを守るか決めるんです」
三崎が頷いた。
「つまり、過剰にしないためにも必要な確認ということですね」
「はい」
直人は答えた。
「何でも厳しくする表ではなく、必要なところだけを決める表です」
鹿島が、初めて少し納得した顔をした。
「では、今回の梱包条件は、曲げ部を潰さない向きで箱詰め。外観小傷は軽微なら可。バリと角は不可。こういう整理ですか」
南田が頷く。
「それなら見積もりできます」
小原が、すぐに言った。
「見積もりは、前回と同じ単価でお願いしたいです」
南田の顔が、少し変わった。
直人も手を止めた。
来た。
条件が増えても、単価は前と同じ。
町工場が何度も飲み込んできた言葉だった。
南田は、すぐには怒らなかった。
その代わり、確認項目表の方を指した。
「前回と同じ条件なら、前回単価で考えられます。でも今回は、確認することが増えています」
「どこが増えていますか」
小原の声には、少し反発があった。
南田は淡々と答えた。
「曲げ方向の記録。バリ確認の範囲。梱包向き。湿気と油分がある現場という条件。これを見たうえで、表面処理も考える必要があります」
鹿島が反応した。
「表面処理?」
「今の見本は、何か黒っぽい表面処理がされてますか」
南田が聞く。
小原が資料を見る。
「協力会社からの過去品なので、詳細は……」
そこで、小原の声が止まった。
未記入理由欄。
発注側回答待ち。
昨日まで議論した欄が、目の前に現れた瞬間だった。
直人は、何も責めなかった。
ただ紙に書いた。
表面処理詳細。
発注側確認待ち。
鹿島がそれを見て、少し苦い顔をした。
「これが、発注側回答待ちですか」
「はい」
直人は頷いた。
「未記入は、不備ではありません。なぜ未記入なのかを残します」
白井が言った。
「これなら、受注先の未記入と、発注側の未提示が分かれますね」
三崎は、腕を組んだまま紙を見ていた。
小原は、何か言いたそうだったが、言葉を飲み込んだ。
田端が少しだけ場を緩めるように言った。
「運送欄も、今は一部未確定でええですわ。梱包が決まらんと、運び方も決まらんので」
直人は書いた。
搬送条件。
梱包仕様決定後に確定。
未記入理由。
梱包仕様未確定。
南田が小さく笑った。
「表、使えるやないか」
古川はいない。
だが、もし居たら「せやから言うたやろ」と言ったかもしれない。
会議は、思ったより時間がかかった。
小さなL字金具一つに、用途、環境、曲げ方向、バリ、梱包、表面処理、搬送が絡む。
鹿島は途中から、品質保証の目で表を見始めていた。
小原は最後まで少し硬かったが、最初よりは口数が減っていた。
三崎は、まとめに入った。
「今回の試行では、発注側が用途、使用環境、許容範囲を先に記入する。受注側は、加工条件のうち共有できる範囲、確認方法、梱包条件を記入する。未確定部分は未記入理由欄に残す」
藤野が頷く。
「検収保留には使わない」
「はい」
三崎は、はっきり答えた。
「検収保留には使いません。未記入理由を見て、追加確認が必要な項目を整理するために使います」
隆夫が、少しだけ肩の力を抜いた。
直人も、心の中で息を吐いた。
大きく勝ったわけではない。
だが、表が止める紙ではなく、そろえる紙として使われた。
それだけでも、今日の意味はあった。
南田は、最後に言った。
「この条件なら、見積もりは前回と同じにはなりません」
小原の顔がまた少し硬くなる。
南田は続けた。
「ただ、全部高くするという話でもありません。外観小傷は軽微なら可。そこは手をかけません。バリと角、曲げ方向、梱包だけ見る。必要なところだけ入れます」
鹿島が頷いた。
「その見積もりなら、こちらも説明しやすいです」
小原は、少し遅れて頷いた。
「……分かりました」
会議が終わった後、藤野は紙を見ながら言った。
「小さな金具で、これだけ出るんですね」
田端が笑う。
「小さいから出るんですわ」
南田も言った。
「簡単な仕事ほど、条件を言わんまま進みがちやからな」
白井は、試行表の控えを見ていた。
「発注側回答待ちが、かなり効きましたね」
直人は頷いた。
「空欄を責める紙ではなく、空欄の理由を見る紙にできました」
隆夫が静かに言った。
「今日は、それが一番大きいな」
黒瀬精機へ戻ると、美智子がすぐに結果を聞いた。
直人は、試行表の控えを机に広げた。
美智子は最初に、未記入理由欄を見た。
表面処理詳細。
発注側確認待ち。
搬送条件。
梱包仕様未確定。
その2つを見て、静かに頷く。
「ちゃんと発注側の空欄も出たんやね」
「うん」
「それなら、表として一歩進んだね」
森川修一が作業場から顔を出した。
「どうでした?」
「小さい金具で、だいぶ揉めた」
直人が言うと、森川はにやっと笑った。
「小さいもんほど揉めるんや」
宮田悟は、試行表を見ながら言った。
「未記入理由欄、かなり重要ですね。空欄のままだと、受注側の不備に見えます。でも理由があると、次に誰が動くか分かります」
「そうや」
直人は答えた。
「空欄を責めるんじゃなくて、次の動きにする」
美智子が、赤鉛筆でその言葉を囲んだ。
空欄を責めず、次の動きにする。
隆夫は、南田から預かった見積もり用のメモを見ながら言った。
「南田さん、今回は前回単価では受けんやろな」
「受けないと思う」
直人は頷いた。
「でも、どこが増えるかは説明できる」
美智子が言った。
「それが大事やね。高い安いの前に、何が増えたか見える」
森川が腕を組む。
「しかし、東邦の若い人、納得しました?」
「完全にはしてへんと思う」
直人は正直に答えた。
「でも、鹿島さんは少し見方が変わった。三崎さんも、使い方は守る方向になった」
「小原さんは?」
「面倒やと思ってる」
森川は笑った。
「まあ、そういう人もおるわな」
「うん」
直人も少し笑った。
みんなが最初から分かってくれるわけではない。
むしろ、分からない人がいるから、表の使い方を決める必要がある。
夜、黒瀬精機の作業台には、東邦電装の試行表の控えが置かれていた。
高田包装の改善版。
河島産業の赤と青。
倉田精密の保管札。
そして、東邦電装のL字金具。
全部違う仕事だ。
だが、どれも同じ問いに戻ってくる。
何を守るのか。
誰が条件を出すのか。
どこまでが仕事なのか。
何を出して、何を守るのか。
直人は、未記入理由欄の文字を見つめた。
発注側確認待ち。
その一行は、町工場だけが責められないための小さな盾だった。
美智子が、最後に赤鉛筆で書いた。
空欄にも、理由がある。
直人は、その文字を見て頷いた。
表は、全部を埋めるためだけのものではない。
埋められない理由を、見えるようにするためのものでもある。
双方で埋める。
埋まらないところは、双方で理由を見る。
高井田確認項目表は、また少しだけ、止める紙から遠ざかった。
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