第40話 中学3年の手
1989年4月。
黒瀬直人は、中学3年生になっていた。
昭和は終わり、平成が始まっている。
町の空気も、3年前とは違っていた。
高井田の路地には、相変わらず旋盤の音が響いている。
板金の音も、研磨の匂いも、メッキ屋の酸の匂いも残っている。
だが、その上に、どこか浮ついた熱が乗っていた。
土地の値段が上がる。
銀行が金を貸したがる。
新しい機械を入れろと言われる。
工場を広げろと言われる。
そして、同じ口で、加工単価は下げろと言われる。
直人は、その空気を知っていた。
前の人生でも見た。
笑いながら借金を増やし、仕事が増えた気になり、気づけば返済と安値仕事に追われる工場。
バブルの熱は、町工場の床下からも入り込んでくる。
だから、直人は怖かった。
学校帰り、直人は黒瀬精機の引き戸を開けた。
「ただいま」
声は少し低くなっている。
背も伸びた。
ランドセルはもうない。
肩から下げた学生鞄を工場の隅に置き、手を洗ってから作業台へ向かう。
そこには、流れ札の束が積まれていた。
吉岡メッキ。
南田板金。
倉田精密。
大和計測。
大西樹脂。
それぞれの札は、工場ごと、工程ごとに分けられている。
3年前は、直人は工場の隅で見ているだけのことが多かった。
だが今は違う。
機械には触らせてもらえない。
父の隆夫からも、森川修一からも、そこはきつく言われている。
けれど、流れ札の整理、品番ごとの箱分け、納品控えの写し取り、簡単な寸法記録の転記、母の美智子が作る原価ノートの索引作りは、直人の手伝いになっていた。
「直人、そこ、倉田精密の医療向けと吉岡さんの一般部品、混ぜんといて」
美智子が帳面から顔を上げずに言った。
「わかってる。白い札が医療向け、茶色が一般部品やろ」
「色だけで見たらあかん。品番も見る」
「はいはい」
「はいは1回」
「はい」
森川が横で笑った。
「奥さん、直坊にも容赦ないですね」
「直人が一番、変なところで先に行くからや」
美智子は淡々と言った。
「手だけ早くなって、目が雑になったら困る」
直人は苦笑しながら、札を1枚ずつ確認した。
品名。
ロット。
前工程。
次工程。
見つけた場所。
気づいた点。
箱番号。
確認者。
たった数行の札だ。
けれど、この札があるだけで、町工場の流れは少し変わった。
吉岡メッキでは、戻り品をひとまとめにされることが減った。
南田板金では、清水が自分の判断を言葉にできるようになった。
倉田精密では、洗浄前と洗浄後の置き場が一方通行になり、箱の色と札が分けられた。
大和計測では、クロセ治具標準台座A型が3工程に増えている。
外へ出す名前は、クロフィックス。
その名は、町の中でも少しずつ知られ始めていた。
ただし、父は今でも軽々しく使わない。
クロフィックスは、ただの台座の名前ではない。
現場を診て、使う人を見て、手順と記録まで含めた仕事の呼び名になりつつあった。
実用新案の方は、伊原弁理士との補正を何度か重ね、ようやく先が見え始めていた。
ただし、伊原はそのたびに同じことを言った。
「守れるのは、構造の一部です。黒瀬精機の強さは、現場を診ること、手順を残すこと、流れ札で工程をつなぐことまで含めた仕事にあります」
登録が近づいても、黒瀬精機が守るべきものは、紙1枚の権利だけではなかった。
森川は21歳になっていた。
顔つきは、もう見習いのそれではない。
若い職人として、町の中でも少しずつ名を知られ始めている。
それでも時々、勢いで削りそうになると、隆夫に止められる。
「森川、急ぐな。急いで寸法外したら、早いんやなくて遅いんや」
「はい」
その返事も、昔より落ち着いていた。
隆夫は40代半ばになっていた。
煙草は完全にはやめていない。
だが、本数はかなり減った。
健康診断も毎年受けている。
美智子の帳面には、仕事の数字だけでなく、父の体調の記録も残っていた。
前の人生で54歳の若さでこの世を去った父が、今は自分の身体を見ながら仕事をしている。
そのことが、直人には何より大きかった。
「直人」
隆夫が声をかけた。
「ちょっとこれ見てくれ」
作業台の上に、銀行からの案内が置かれていた。
設備資金の融資案内。
低金利。
事業拡大。
優良取引先向け。
そういう言葉が並んでいる。
直人の胸が、嫌な音を立てた。
「銀行さん、また来たん?」
「ああ。商工会経由でも話が来てる。クロフィックスも流れ札も伸びてるなら、今のうちに機械を増やした方がええんちゃうか、言うてな」
田端が、ちょうど工場へ入ってきた。
「そら銀行は貸したいでしょう。今、どこも景気ええ話ばっかりですから」
美智子が冷たい目で見る。
「田端さんも、その口?」
「僕は違いますよ。借りるなとは言いませんけど、浮かれて借りたら怖いと言いに来たんです」
「それならええです」
田端は胸を撫で下ろした。
直人は融資案内を見たまま、黙っていた。
隆夫が聞く。
「直人、お前はどう思う」
昔なら、こんなふうに聞かれなかった。
今も、最終判断を任されているわけではない。
けれど父は、直人の妙な勘を無視しなくなっていた。
直人は言葉を選んだ。
バブルが弾ける。
土地の値段が下がる。
借金で苦しむ。
そんなことを言えるはずがない。
だから、工場の言葉で言う。
「今、機械を増やしたら、誰が見るん?」
隆夫は黙った。
「森川さん?」
森川が少し目を開いた。
「俺は、今の仕事でもかなり詰まってるで」
「お父ちゃん?」
隆夫は苦笑した。
「俺も、もう1台分は身体が足りん」
「ほな、人を入れる?」
美智子が帳面を閉じた。
「人を入れたら、給料と教育がいる」
「そう。機械だけ来ても、人と記録と仕事の流れが追いつかんかったら、結局またお父ちゃんが夜中まで見るんちゃう?」
工場が静かになった。
直人は、そこまで言って少し息を吸った。
「クロフィックスも流れ札も、今はちゃんと見てるから回ってると思う。機械だけ増やして、見る人が足らんかったら、黒瀬精機が黒瀬精機じゃなくなる気がする」
田端が腕を組んだ。
「中学生の言葉ちゃうな」
直人は肩をすくめた。
「帳面見てたら、誰でも思うやろ」
「普通の中学生は帳面見ません」
森川が笑った。
美智子は笑わなかった。
真剣な顔で、融資案内を見ていた。
「直人の言う通りやね」
隆夫が妻を見る。
「美智子も反対か」
「借りること自体に反対やない。でも、先に借りて仕事を取りに行くのは怖い」
美智子は帳面を指で叩いた。
「うちは、仕事を見てから作る工場になってきた。困りごとを分けてから、必要なものを作る。機械も同じやと思う。先に大きい機械を買って、それに合う仕事を探し始めたら、順番が逆や」
隆夫はしばらく黙っていた。
その顔には迷いがある。
新しい機械を入れたい気持ちはあるのだろう。
職人なら当然だ。
より精度の出る機械。
より速く削れる機械。
できる仕事が増える機械。
それは魅力的に決まっている。
だが、魅力的なものほど怖い。
「森川」
隆夫が言った。
「お前はどう思う」
森川は驚いたように顔を上げた。
「俺ですか」
「ああ」
森川は少し考えた。
昔なら、すぐに「新しい機械、ええですね」と言ったかもしれない。
だが今は違った。
「欲しいです」
正直な声だった。
「でも、今入ったら、たぶん俺、触りたくなって焦ります。今の仕事もまだ全部見えてるわけやないのに、新しい機械に逃げるかもしれません」
隆夫の目が細くなる。
森川は続けた。
「先に、人を育てた方がええと思います。機械を入れるなら、その機械で何を作るか、誰が段取り見るか、どの仕事を断るかまで決めてからがええです」
田端が感心したように息を吐いた。
「森川くん、大人になったなあ」
「からかわんといてください」
「いや、本気で言うてる」
隆夫は、融資案内をゆっくり畳んだ。
「銀行には、今回は見送ると返事する」
工場の空気が少し緩んだ。
だが、隆夫は続けた。
「ただし、機械を入れんという意味やない。先に、どの仕事を伸ばすか決める。医療機器向けの相談も、町工場相談会も、今はまだ試行や。そこを見極める」
美智子が頷いた。
「借りる時は、返す形まで見てから」
「わかってる」
隆夫は自然に答えた。
その日の夕方、直人は母と一緒に帳面の索引を作っていた。
仕事別原価ノートは、もう何冊にも増えている。
クロフィックス。
流れ札。
南田板金。
吉岡メッキ。
倉田精密。
医療機器向け相談。
それぞれのページを探すだけでも時間がかかるようになっていた。
「お母ちゃん」
「何?」
「これ、番号の付け方をそろえへん?」
「番号?」
「仕事ごとに、年と相手と種類を入れる。たとえば、1989-KU-IR-001とか」
美智子が手を止める。
「何それ」
「1989年、倉田、医療関連、1番目。そういう感じ。後から探す時、名前だけやと似た仕事が増えたら困るやろ」
「年、4つもいる?」
「いると思う」
直人は、なるべく自然に言った。
「90年代だけなら2つでもええけど、帳面は後で見るもんやろ。あとで年が増えた時、1989って書いてた方が迷子にならへん」
美智子はしばらく直人を見た。
「どこでそんなこと覚えたん」
「図書室で、分類番号みたいなん見た」
完全な嘘ではない。
学校の図書室にも分類はある。
ただ、直人の頭にあるのは、もっと後の時代の品番管理やファイル番号の考え方だった。
美智子は少し考え、紙に書いた。
西暦4桁。
取引先。
仕事種類。
連番。
「これ、使えるかもしれん」
「うん。あと、札にも同じ番号を書いたら、帳面とつながる」
美智子の目が鋭くなった。
「隆夫さん」
父が顔を上げる。
「また直人が変なこと言うてる」
「ええ方の変なことか?」
「たぶん、ええ方」
田端が横から覗き込んだ。
「奥さん、これ、町工場相談会にも使えますよ。相談番号を振れば、どの工場のどの件か迷わん」
美智子はすぐに田端を見た。
「広げるのは、うちで試してから」
「はい」
田端は素直に下がった。
直人は、母が書いた番号案を見ていた。
小さなことだ。
でも、こういう小さなことが積み重なると、後の時代に強くなる。
紙の束を、ただの紙の束で終わらせない。
仕事の記憶としてつなぐ。
それが、黒瀬精機を大きくしすぎず、でも強くする道になる。
夜、工場のシャッターを下ろす前、隆夫は作業台の上に置いた融資案内をもう一度見た。
そして、帳面の横に置いた。
「捨てへんの?」
美智子が聞く。
「捨てへん。今は借りへん理由も残しとく」
直人は、その言葉に胸が熱くなった。
父は、ただ断ったのではない。
なぜ断ったのかを残す。
未来で同じ誘惑が来た時、迷わないために。
森川がシャッターの前で言った。
「社長、今度新しい機械を入れる時は、俺が段取り見られるようになってからにしてください」
隆夫は笑った。
「ほな、早く育て」
「はい」
「でも、焦るな」
「はい」
同じ返事でも、森川の声には以前より重みがあった。
直人は工場の灯りを見た。
1989年春。
中学3年になった直人は、もう工場の隅で見ているだけではなかった。
機械は触れない。
商談の主役にもなれない。
それでも、帳面に番号を振り、札と記録をつなぎ、父が大きな借金へ踏み出す前に問いを投げることはできた。
前の人生で守れなかったものは、まだここにある。
父も、母も、森川も、工場の灯りも。
だからこそ、急いではいけない。
大きくなることと、強くなることは違う。
黒瀬精機は、その違いをようやく選び始めていた。
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