第39話 洗った後の場所

 倉田精密の第二工場は、これまで黒瀬隆夫が見てきた町工場とは空気が違っていた。


 油の匂いは薄い。


 鉄を削る音も少ない。


 代わりに、白い作業台と、アルコールのような匂いと、静かすぎるほど整った棚が並んでいる。


 案内に立った片岡は、いつもより少し硬い顔をしていた。


「ここから先は、医療機器向けの小物部品を扱う区画です。まだ大きな量ではありませんが、記録と取り扱いにはかなり気を遣います」


 隆夫は頷いた。


「今日は、作る話やなく、まず流れを見るだけですね」


「はい。黒瀬さんには、まずそこを見ていただきたい」


 隆夫の隣には森川修一がいた。


 田端も同行しているが、今日はいつもの軽口がかなり少ない。


 商工会の北村も来ていた。


 だが、全員がいつもより声を落としている。


 相手が医療機器向けというだけで、場の空気は変わる。


 片岡は、白い作業台の前で足を止めた。


 そこに並んでいたのは、指先ほどの小さな金属部品だった。


 丸いもの。


 細い溝が入ったもの。


 穴の開いたもの。


 それぞれは小さいが、見た目だけでは区別がつきにくい。


「この部品は、洗浄後に箱詰めされ、次工程へ送られます。ただ、最近、洗浄済みと未洗浄の取り違えが疑われる事例がありました」


 森川が顔を上げた。


「疑われる、ですか」


「はい。実際に混ざったかどうかまでは確認できていません。ただ、記録が曖昧で、追いきれなかった」


 片岡の声は苦かった。


「医療機器向けでは、それが一番困ります」


 隆夫は作業台を見た。


 洗浄前の部品が入った浅いトレー。


 洗浄後の部品が入る白い箱。


 記録紙。


 作業者の鉛筆。


 棚の上には「洗浄前」「洗浄済」と書かれた紙札が貼られている。


 ぱっと見れば、分かれているように見える。


 だが隆夫は、すぐに答えを出さなかった。


「実際の流れを見せてもらえますか」


 片岡は担当者を呼んだ。


 現れたのは、30代半ばほどの女性だった。


 名札には「杉本」とある。


 彼女は少し緊張した顔で頭を下げた。


「よろしくお願いします」


「こちらこそお願いします」


 隆夫は丁寧に頭を下げた。


 杉本は、洗浄前の部品が入ったトレーを作業台の左側に置いた。


 記録紙に品番と数を書く。


 部品を小さな洗浄かごへ移す。


 洗浄機へ入れる。


 決められた時間が過ぎる。


 取り出したかごを、作業台の右側へ置く。


 水気を切り、白い箱へ移す。


 記録紙の「洗浄済」欄に印をつける。


 流れとしては、間違っていないように見える。


 だが森川が、少し首を傾げた。


「すみません」


 杉本が振り向く。


「はい」


「この作業台、左が洗浄前で、右が洗浄後ですよね」


「はい」


「途中で電話とか呼び出しがあったら、どうしてます?」


 杉本は少し困った顔をした。


「急ぎでなければ、そのまま終わらせます。でも、品質担当から呼ばれることもあります。その時は、作業中の札を置きます」


 杉本は、小さな紙札を見せた。


 作業中。


 赤鉛筆でそう書いてある。


 森川はそれを見て、さらに聞いた。


「この札、濡れません?」


「濡れます。だから、濡れたら替えます」


 田端が小さく息を吐いた。


 隆夫は作業台の左右を見比べた。


 洗浄前。


 洗浄後。


 確かに紙札はある。


 だが、トレーの形は似ている。


 箱も似ている。


 作業者が1人で、落ち着いて作業するなら問題は少ない。


 だが、急ぎの声が飛ぶ。


 誰かが横から別の部品を置く。


 紙札が濡れる。


 箱の位置が少しずれる。


 その瞬間に、迷いが生まれる。


「杉本さん」


 隆夫は聞いた。


「ここは、いつも1人ですか」


「基本は1人ですが、忙しい時は別の者が手伝います」


「その時、誰が最後に確認したかは残りますか」


 杉本は記録紙を見た。


「洗浄担当の欄はあります。ただ、箱詰めは同じ人がする前提になっています」


 片岡が眉を寄せた。


「そこが抜けている可能性がありますね」


 北村がメモを取る。


 洗浄担当。

 箱詰め担当。

 最終確認者。

 作業中断時。


 その字は、以前よりずっと落ち着いていた。


 田端が作業台の周りを見た。


「部品が小さいから、箱だけ入れ替わっても気づきにくいですね」


「そこが怖いところです」


 片岡が答えた。


 隆夫はうなずいた。


「現時点で、黒瀬精機がすぐ何かを作るとは言えません」


 片岡は驚かなかった。


「やはり、まず流れですか」


「はい。洗浄前と洗浄後の置き場。中断時の状態。箱詰めした人。最後に確認した人。そこを分けないと、治具を作っても外す可能性があります」


 杉本が、少しほっとしたような顔をした。


「実は、箱や札が増えるだけだと、現場はきついです」


 その言葉に、隆夫はすぐ反応した。


「増やせばええわけやないんですね」


「はい。紙が増えすぎると、結局、見なくなります」


 森川が小さく頷いた。


「手順札と一緒やな」


 隆夫も頷いた。


 見えるようにすることと、増やすことは違う。


 そこを間違えると、紙は現場を助けるどころか、邪魔になる。


 現場確認は、2時間ほどで終わった。


 隆夫はその場で、結論を出さなかった。


 代わりに、片岡へ言った。


「今日のところは、3つだけ持ち帰らせてください」


「3つ?」


「洗浄前と洗浄後の置き場を、紙札だけでなく物理的に分ける方法。作業中断時に、どこまで終わったか一目で分かる方法。最後に誰が箱詰めと確認をしたか残す方法。この3つです」


 片岡は頷いた。


「お願いします」


「ただし、医療機器向けやからといって、うちが何でもできるわけではありません。洗浄条件そのものや、医療の基準は、こちらだけでは判断できません」


「そこは承知しています。黒瀬さんにお願いしたいのは、現場の迷いを減らすことです」


 隆夫は、その言葉を受け止めた。


 現場の迷いを減らす。


 南田板金でも、吉岡メッキでも、結局そこだった。


 ただし今回は、迷いの先にある重さが違う。


 医療という言葉が、工場の空気を重くしている。


 黒瀬精機へ戻ったのは、夕方だった。


 作業台には、美智子がすでに紙を用意していた。


「どうやった?」


 隆夫は鞄を置いた。


「怖い現場やった」


「怖い?」


「部品が小さい。箱も似てる。紙札も濡れる。洗浄前と洗浄後が、作業台の左右だけで分かれてた」


 美智子は眉を寄せた。


「左右だけ?」


「うん。落ち着いてたら分かる。でも呼ばれたり、箱が動いたりしたら怖い」


 森川が、現場で描いた簡単な見取り図を作業台に広げた。


 左に洗浄前。


 右に洗浄済。


 真ん中に洗浄機。


 手前に記録紙。


 横に一時置き場。


 美智子はその図を見て、すぐ言った。


「これ、記録紙も濡れるんちゃう?」


「濡れる」


 隆夫が答える。


「紙札も濡れてた」


「濡れる紙は、現場で弱いね」


 美智子は短く言い、別の紙を出した。


 そこへ項目を書き始める。


 洗浄前。

 洗浄中。

 洗浄済。

 箱詰め前。

 箱詰め済。

 最終確認。


 森川がその並びを見た。


「段階が多いですね」


「多い。でも、現場ではたぶん頭の中でやってる」


 美智子は言った。


「頭の中だけやと、忙しい時に落ちる」


 そこへ、学校から帰った直人が入ってきた。


「ただいま」


 工場の中の空気を見て、すぐに足を止める。


「医療のやつ?」


 隆夫は少し驚いた。


「ようわかったな」


「紙が白いから」


 直人はそう言って、作業台の図を覗き込んだ。


 洗浄前。


 洗浄後。


 左右に分かれた作業台。


 同じような箱。


 濡れる札。


 直人は、胸の奥がざわつくのを感じた。


 前の人生で、何度も見た。


 工程の流れが曖昧なまま、人の注意力だけに頼る現場。


 事故が起きるまで、「今まで大丈夫だった」で済ませてしまう現場。


 しかも今回は医療機器向けだ。


 ただの工業部品より、ずっと怖い。


「お父ちゃん」


「なんや」


「これ、洗った前と後ろ、同じ台の右と左なん?」


「そうや」


「ほな、誰かが箱をちょっと動かしたら、分からんようにならへん?」


 隆夫は黙った。


 森川も図を見る。


 直人は、できるだけ自然な言葉を探した。


「学校の給食でも、きれいな皿と食べ終わった皿、同じ場所には置かへんやん。汚い方はこっち、きれいな方はこっちって、場所が違うやろ」


 美智子の鉛筆が止まった。


「戻れんようにするんか」


 直人は頷いた。


「うん。洗う前の部品が、洗った後の場所に戻られへんようにした方がええんちゃうかなって」


 田端が、入口で腕を組んだまま呟いた。


「一方通行か」


「一方通行……」


 隆夫は図を見た。


 洗浄前。


 洗浄機。


 水切り。


 箱詰め。


 最終確認。


 それが左右ではなく、手前から奥へ、あるいは左から右へ、戻れない流れとして並ぶ。


 箱の色も変える。


 洗浄前は灰色。


 洗浄済は白。


 箱詰め済は蓋つき。


 紙札ではなく、濡れにくい札がいる。


 今の時代に、何でもきれいに封じた札を簡単に作れるわけではない。


 だが、大西樹脂なら薄い塩ビ板を切れる。


 透明のビニール袋に紙札を差し込めば、中の紙だけ替えられる。


 角に穴を開け、ひもで箱につければ、札だけがどこかへ行くことも減る。


 美智子がすぐ書いた。


 戻れない流れ。

 洗浄前と洗浄後を同じ台の左右だけにしない。

 箱の色を変える。

 洗浄済は蓋つき。

 薄い塩ビ板。

 透明ビニール差し込み札。

 箱詰め担当と最終確認者。


 森川は図に矢印を描いた。


「こうですかね」


 洗浄前から洗浄機へ。


 洗浄機から水切りへ。


 水切りから箱詰めへ。


 箱詰めから最終確認へ。


 矢印は戻らない。


「これなら、箱が迷子になりにくい」


 森川が言った。


 直人は頷く。


「うん。あと、途中で呼ばれた時の置き場もいるんちゃう?」


「作業中断の場所か」


 隆夫が言った。


「うん。途中で止まった部品が、終わったふりして進んだら怖いやん」


 工場が静かになった。


 直人の言葉は子供のものだった。


 だが、中身は重かった。


 途中で止まったものが、終わったふりをして進む。


 それは、どんな工場でも起きる怖さだった。


 隆夫は、直人の頭に手を置いた。


「ええところ見たな」


 直人は少し照れた。


「怖いだけやで」


「怖いところを見るのが、最初や」


 隆夫は言った。


 美智子は新しい紙に表題を書いた。


 医療機器向け小物部品

 洗浄後取り違え防止 確認案


 その下に、3つの案を並べる。


 1 置き場を一方通行にする。

 2 箱と札を、洗浄前・洗浄済・箱詰め済で分ける。

 3 中断置き場と最終確認者を決める。


 田端はそれを見て、静かに言った。


「黒瀬さん、これ、ただの札の話やないですね」


「ああ」


 隆夫は頷いた。


「現場の流れそのものや」


「しかも医療向けです。ここでうまくいけば、かなり大きい」


 田端の声には期待と警戒が混じっていた。


 美智子がすぐ釘を刺す。


「大きくする前に、範囲と費用」


「はい」


 田端は即答した。


「今日は先に言われると思ってました」


 森川が笑いをこらえた。


 だが、すぐに図面へ目を戻した。


「社長、これ、樹脂の札なら大西さんに相談ですか」


「そうやな。薄い塩ビ板か、透明の差し込み札が使えるか見てもらう」


「箱は?」


「既製品でいけるかもしれん。まず探す。なければ作る」


 美智子が言う。


「作る前に、既製品で済むものは済ませる。そこも値段に関わる」


「わかってる」


 隆夫は自然に答えた。


 その声に、美智子は少しだけ笑った。


 夫婦の会話は、工場の緊張をわずかに緩めた。


 その夜、黒瀬精機の作業台には、医療機器向け相談の見取り図が残った。


 洗浄前。


 洗浄中。


 洗浄済。


 箱詰め済。


 最終確認。


 そして、作業中断。


 どれも、まだ紙の上の言葉にすぎない。


 だが、その紙には、これまでの町工場仕事とは違う重さがあった。


 直人は、図の端に描かれた一方通行の矢印を見つめた。


 未来の工場では、こういう流れを当たり前に考えなければならなくなる。


 誰が触ったか。


 どこで止まったか。


 どの箱に入ったか。


 洗った後に、何が混ざったか。


 それを残せない工場は、だんだん厳しい仕事から外れていく。


 前の人生の黒瀬精機は、そこまで行けなかった。


 だが今は、まだ1986年だ。


 まだ間に合う。


 隆夫は、最後に片岡へ送る確認案の端に、こう書いた。


 まず、作らない。

 まず、流れを戻れない形にする。


 森川がそれを見て言った。


「社長、変な言い方ですけど、作らんための仕事ですね」


「そうかもしれん」


 隆夫は答えた。


「作る前に、間違えん流れを作る」


 美智子が帳面に今日の日付を書いた。


 医療機器向け小物部品 初回確認。


 その横に、直人が言った言葉を小さく書き残す。


 洗った前と後を、同じ台の左右だけにしない。


 直人はそれを見て、少しだけ顔が熱くなった。


 自分の一言が、帳面に残った。


 ただ見ているだけではない。


 少しずつ、この工場の流れに、自分の手が入っている。


 1986年秋。


 黒瀬精機は、医療機器向けの小物部品に、まだ手を出してはいない。


 だが、手を出す前に見るべき怖さを、ひとつ見つけた。


 洗った後の場所。


 そこを間違えないことが、次の未来への入口になろうとしていた。


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