第37話 流れを束ねる札

 1週間後、吉岡メッキの作業台には、4つの箱が並んでいた。


 全体曇り。


 穴まわりの点。


 曲げ内側の曇り。


 戻し箱。


 箱の前には、北村が書いた札が置かれている。


 まだ字は少し硬い。


 だが、以前のように「仕上がり不良」とひとまとめにされていた頃とは違う。


 不良は、種類ごとに分けられていた。


 吉岡は腕を組み、その4つの箱を睨んでいた。


「腹立つな」


 隣にいた黒瀬隆夫が聞き返す。


「何がですか」


「分けたら、見えてまうことや」


 吉岡は、穴まわりの点が出た部品を指でつまんだ。


「これは、メッキだけやない。研磨後か、穴あけ後の汚れが残っとる可能性が高い」


 次に、曲げ内側の曇りを指す。


「こっちは、曲げ油やろな。南田のところも関係ある」


 最後に、戻し箱の部品を見た。


「これは、わしが悪い。処理後に古い箱へ戻して、また汚しとる」


 吉岡は吐き捨てるように言った。


「全部うちのせいやと言われるのも腹立つが、うちのせいが混じってるのも腹立つ」


 田端が横で笑いかけたが、すぐに口を閉じた。


 今日は笑いごとではない。


 吉岡メッキの工場には、黒瀬精機の隆夫と森川、田端、商工会の北村が来ていた。


 南田と大西も後から顔を出す予定だ。


 川嶋は仕事が詰まっているらしく、研磨粉の見分け方を書いた短いメモだけを田端に預けていた。


 森川修一は、4つの箱をじっと見ていた。


「吉岡さん、戻りの数、減ってません?」


「減った」


 吉岡は渋々答えた。


「箱を分けただけで、戻し箱が原因のやつはかなり減った。処理後に古い仕切りへ戻さんようにしただけや」


 北村が慌ててメモを取る。


「戻し箱の変更で、曇りの一部が減少……」


「一部や」


 吉岡が釘を刺した。


「全部ちゃう。そう書いとけ」


「はい」


 北村はすぐに書き直した。


 隆夫は、その様子を見ながら頷いた。


 大きな改善ではない。


 派手な発明でもない。


 だが、1つずつ原因を分けると、1つずつ手が打てる。


 それは黒瀬精機だけでなく、町工場全体に必要な考え方だった。


 その時、工場の外に黒いセダンが停まった。


 降りてきたのは、スーツ姿の男だった。


 吉岡が小さく舌打ちする。


「来たか」


 田端が隆夫に耳打ちした。


「今回の戻りを出した元請けの品質担当です。倉田精密の片岡さん」


 片岡は工場へ入ると、まず吉岡に頭を下げた。


「お世話になっております」


「お世話されとるのはこっちや」


 吉岡の声は硬い。


 片岡は表情を変えず、作業台の箱を見た。


「これは?」


「戻りを分けた」


 吉岡が言う。


「今までは全部『メッキ不良』で戻されとった。けど、見ての通り、原因は1つやない」


 片岡は眉を動かした。


「メッキ条件ではないと?」


 吉岡の顔が険しくなる。


 隆夫が一歩だけ前に出た。


「すべてがメッキ条件ではない、ということです」


 片岡の視線が隆夫へ向いた。


「失礼ですが、どちら様ですか」


「黒瀬精機の黒瀬です。今回、商工会の試行相談として、工程の確認を手伝っています」


「黒瀬精機……」


 片岡は少し考えた顔をした。


「大和計測さんの治具を作られたところですか」


 田端の眉がぴくりと動いた。


 噂は、思ったより遠くまで届いている。


 隆夫は慎重に頷いた。


「はい。ただ、今日は治具を売りに来たわけではありません」


 片岡は箱を見た。


「では、何を?」


「流れを分けに来ました」


 隆夫は、作業台の紙を片岡に見せた。


 戻り不良の種類。


 メッキ前の受入状態。


 処理後の戻し箱。


 曲げ油。


 研磨粉。


 箱の材質。


 片岡は黙って紙に目を通した。


 最初は冷ややかだった表情が、少しずつ変わっていく。


「これは、誰がまとめたんですか」


「現場で見たことを、北村さんが記録しました。吉岡さん、南田さん、大西さん、川嶋さん、それぞれの見方を合わせています」


 北村は名を出されて、背筋を伸ばした。


 片岡は北村を見る。


「商工会がここまで?」


「まだ試行です」


 北村は緊張で声を硬くしながら答えた。


「ですが、1社だけに責任を寄せるのではなく、工程全体で見る必要があると考えています」


 片岡はしばらく黙った。


 吉岡は腕を組み、片岡の反応を見ている。


 南田が遅れて工場へ入ってきた。


「すまん、遅れた」


 その後ろに大西もいる。


 片岡は並んだ顔ぶれを見て、少しだけ困ったような表情をした。


「これは、ずいぶん集まっていますね」


 南田が言った。


「あんたらが全部『メッキ不良』で返すからや」


「南田さん」


 隆夫が短く止める。


 南田は口を閉じた。


 ここで怒鳴り合えば、何も残らない。


 片岡は静かに言った。


「こちらとしても、客先から戻されれば、原因工程へ戻すしかありません」


「それが雑やと言うとるんや」


 吉岡が低く言う。


 隆夫は、もう一度紙を指した。


「片岡さん。今後、戻す時に、せめて種類を分けられませんか」


「種類?」


「全体曇りなのか、穴まわりなのか、曲げ内側なのか、箱由来の可能性なのか。全部を『メッキ不良』で戻すと、吉岡さんはメッキ条件だけを疑うことになります。でも、実際には前工程や後工程も関係している」


 片岡は紙を見た。


「それを、こちらで分類しろと?」


「最初から完璧には無理です」


 隆夫は言った。


「だから、まず戻り品に札をつける。どこで見つかったか。どの箱に入っていたか。どのロットか。それだけでも違います」


 森川が小さな紙札を作業台に出した。


 黒瀬精機で試しに作ってきたものだ。


 工程札。


 品名。


 ロット。


 前工程。


 次工程。


 気づいた点。


 箱番号。


 文字は少ない。


 だが、流れを見るには十分だった。


 片岡はその札を手に取った。


「これを、各社に回すのですか」


「最初は全部には無理です。今回の金具だけでいい」


 隆夫は答えた。


「吉岡さんだけに背負わせないためでもありますし、片岡さんの会社が客先へ説明するためでもあります」


 その言葉に、片岡の目が止まった。


「客先へ説明するため」


「はい」


 隆夫は頷いた。


「ただ『メッキ屋へ戻しました』ではなく、『戻りの種類を分け、前工程と後工程を含めて確認しています』と言えます」


 片岡は工程札を見つめた。


 吉岡が小さく鼻を鳴らす。


「品質担当は、そういう言葉に弱いんか」


「弱いというより、必要です」


 片岡は静かに答えた。


「客先から問われた時、何を確認したか言えなければ、こちらも困ります」


 田端が小さく笑った。


「ほな、みんな困ってたわけや」


「笑いごとではありません」


 片岡が言うと、田端はすぐに両手を上げた。


「すんません」


 北村は、工程札を見て目を輝かせていた。


「これ、商工会の相談会でも使えるかもしれません」


 美智子がいれば、まず試してから、と言っただろう。


 隆夫はその声を思い出し、すぐに釘を刺した。


「まず今回だけです。広げるのは、うまく回ってから」


 北村ははっとして頷いた。


「はい。今回の金具だけで」


 大西が箱を見ながら言った。


「戻し箱は、うちで仮の仕切り作れる。洗える材質にする。けど、数がいるなら値段は見るで」


「タダで作らんでええ」


 吉岡が言った。


 大西が驚いた顔をする。


「吉岡さんがそう言うとは」


「わしも学んどるんや」


 吉岡は不機嫌そうに答えた。


「タダでやらせたら、あとで高くつく」


 南田が笑った。


「町が変な方向に賢くなってきたな」


「ええ方向やろ」


 田端が言った。


 片岡は、それらのやり取りを見ていた。


 町工場同士が責任を押しつけ合うのではなく、工程を分けて話している。


 それは、元請けの品質担当である片岡にとっても、見慣れない光景だった。


「黒瀬さん」


「はい」


「この工程札と分類表を、今回の試行として使わせてください。倉田精密として、戻り品の出し方も見直します」


 吉岡が目を細めた。


「ほんまにやるんか」


「やります。ただし、こちらにも条件があります」


「何や」


「分類の基準を、皆さんと共有したい。曖昧なままだと、また揉めます」


 隆夫は頷いた。


「それが必要です」


 北村がすぐに言った。


「商工会館で、短い確認会を開けます。今回の金具に関わる工場だけで」


 田端が口を開きかけ、美智子の不在を思い出したように一度止まった。


 そして慎重に言った。


「広げすぎんように、関係者だけですね」


「はい」


 北村が答える。


 隆夫は少しだけ笑った。


 田端も学んでいる。


 勢いだけで町へ流すのではなく、範囲を絞ることを覚え始めている。


 その場で決まったことは、多くない。


 1 今回の金具だけ、工程札を使う。

 2 戻り品は4分類で記録する。

 3 戻し箱を仮に変更する。

 4 分類基準を関係工場で共有する。

 5 原因が見えるまで、どこか1社へ全責任を寄せない。


 吉岡は最後の5番を見て、少しだけ目を伏せた。


「もっと早く、こうしてたらな」


 誰もすぐには返事をしなかった。


 それぞれに、思い当たることがあった。


 戻された部品。


 怒鳴られた若い衆。


 泣き寝入りした値引き。


 原因が曖昧なまま、どこかの町工場が飲み込んできた時間。


 隆夫は、作業台の上の工程札を見た。


 小さな札だ。


 だが、流れを束ねるには、こういう小さなものが必要だった。


 その日の夕方、黒瀬精機へ戻ると、美智子が工場の奥で帳面を見ていた。


 隆夫は、工程札の試作品と分類表を作業台に置いた。


「また紙が増えた」


 美智子が言った。


 隆夫は少し身構えた。


 だが美智子は、紙を手に取ると、すぐに目を細めた。


「これはいる紙やね」


「怒られるかと思った」


「いらん紙なら怒る」


 美智子は工程札を裏返して見た。


「ただ、これも値段考えなあかんで」


「やっぱりそこか」


「当たり前やろ。札を作るのも、分類するのも、確認会を開くのも、全部時間や」


 隆夫は頷いた。


「今回は試行や。でも、次からは相談料の中に入れる必要がある」


「うん」


 美智子は帳面を開いた。


 町工場相談会 試行費用。


 そのページに、工程札という項目を書き足す。


 森川は横で工程札を見ていた。


「社長」


「なんや」


「これ、治具やないけど、治具みたいですね」


「どういう意味や」


「部品を固定するんやなくて、仕事の流れを固定する札みたいな」


 隆夫はその言葉に少し驚いた。


 美智子も顔を上げる。


 直人は、工場の入口でそれを聞いていた。


 森川の言葉は、核心に近かった。


 仕事の流れを固定する札。


 それは、クロセ治具とは別の形で、町のばらばらな工程をつなぐ道具になるかもしれない。


 隆夫は工程札を見た。


「流れを固定する札か」


 森川は慌てて首を振る。


「すんません。変な言い方しました」


「いや」


 隆夫は静かに言った。


「ええ言い方や」


 その夜、黒瀬精機の工場には、機械音が少し遅くまで響いた。


 大和計測向けの仕事もある。


 南田板金の追加見積もりもある。


 吉岡メッキの工程札も動き始めた。


 仕事は増えた。


 簡単にはなっていない。


 むしろ、面倒なことは増えている。


 だが、その面倒は、誰か1社が黙って飲み込む面倒ではなかった。


 町全体で分け、記録し、次へ渡すための面倒だった。


 直人は、作業台の上に並ぶ工程札を見た。


 前の人生で、この町は少しずつ痩せた。


 仕事の流れは見えないまま途切れ、誰が何を支えていたのか、失ってから気づくことも多かった。


 だが今、1986年の東大阪で、流れを見えるようにする小さな札が生まれようとしている。


 それは、派手な発明ではない。


 新聞に載るような出来事でもない。


 けれど、町工場が1社ずつ消えていく未来を変えるには、こういう小さな線を束ねるものが必要だった。


 1986年初夏。


 黒瀬精機は、部品を固定する治具だけでなく、仕事の流れをつなぐ札を作り始めた。


 町をひとつの工場として動かすための、最初の道具だった。


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