第36話 1社では見えない傷

 1986年初夏。


 吉岡メッキの工場へ入った瞬間、黒瀬隆夫は鼻の奥に細く刺さるような薬品の匂いを感じた。


 黒瀬精機の切削油とも、南田板金で嗅ぐ鉄と油の匂いとも違う。奥では処理槽の上に白い湯気が薄く漂い、その脇を作業服姿の職人が行き来していた。


 隆夫の隣には森川修一がいる。


 田端はライトバンを工場の外へ停め、南田、川嶋、大西もそれぞれ仕事の都合をつけて顔を出していた。そして一歩後ろには、先日の東大阪商工会議所で記録を取っていた若い職員、北村が鞄を抱えて立っている。


「ほんまに、こんな人数で見るんか」


 吉岡メッキの吉岡が、集まった顔ぶれを見回した。


 白髪の混じった短い髪に、薬品で荒れた手。声には露骨な不機嫌さがあったが、誰かを追い返そうとはしない。


「見せ物やないで」


「分かってます」


 隆夫は頭を下げた。


「今日は黒瀬精機だけで答えを出すために来たんやありません。どこで何が起きてるか、工程ごとに見てもらうためです」


「客からはメッキ不良や言われとる。こっちからしたら、面白い話やない」


「せやからやろ」


 川嶋が低い声で割り込んだ。


「吉岡の槽だけ見て終わるんやったら、わしら呼ぶ意味ない」


「分かっとるわ」


 吉岡が吐き捨てるように言い、作業台へ向かった。


 問題になっているのは、指二本分ほどの小さな金具だった。


 片側に穴があり、反対側は曲げ加工されている。メッキを終えたあと、表面に薄い曇りや細かな点が現れ、客先から「仕上がり不良」として何度か戻されていた。


「条件は毎回ほとんど変えとらん」


 吉岡が言う。


「それでも出る時と出ん時がある。向こうはメッキ条件を見直せ言うてくるけど、条件だけで直るんやったら、とっくに直しとる」


 隆夫は返事をせず、手袋を借りた。


 まず現物を見る。


 前に南田板金で現場を見た時も、原因を決めてから工場へ入れば、見たいものしか見えなくなると感じた。


 今回はなおさらだった。


 客先が「メッキ不良」と名を付けたからといって、メッキ工程だけで起きたとは限らない。


 作業台に戻り品が並べられる。


 森川が一つずつ光へかざし、向きを変えながら見ていた。


「社長」


「何や」


「これ、全部同じには見えません」


 吉岡が森川を見る。


「分かるんか、若いの」


「原因までは分かりません。ただ、出方が違います」


 森川は空いているトレーを三つ借りた。


 表面全体が薄く曇っているもの。


 穴の周囲に細かな点が集中しているもの。


 曲げの内側だけ色が違って見えるもの。


 同じ「仕上がり不良」の箱から出てきた部品が、三つに分かれた。


 隆夫は手を出さずに見ていた。


 森川が自分の目で違いを見つけたのなら、先に答えを与える必要はない。


「ええ分け方やな」


 川嶋が穴の周囲に点のある部品を一つ取った。


「これは研磨のあとか穴あけのあとに、粉か油が残った時も似た出方することあるで」


 吉岡の眉が動く。


「うちの洗浄が悪い言うんか」


「誰もそこまで言うてへん」


 川嶋は部品を光へ向けたまま答えた。


「似とる言うただけや。これ、メッキに来る前はどこ通っとる?」


 田端が手元の控えを見る。


「曲げは南田さんとこ。穴あけは別工場。研磨は川嶋さんとこやなくて山辺研磨やな」


「最近、山辺んとこ忙しい言うてたな」


 南田が部品を受け取り、今度は曲げ部分を見る。


「こっちは曲げ油が残ってる可能性もある。内側だけやろ?」


「今度は南田のとこか」


 吉岡が言う。


「そうかもしれんし、違うかもしれん」


 南田は気にした様子もなく答えた。


「それ見るために来たんやろ。最初から吉岡のせいやない言いに来たわけちゃうで」


 吉岡は何も返さなかった。


 その横で、大西が戻り品の箱を持ち上げていた。


「吉岡さん、この仕切り、ずっと使ってるんですか」


「ああ。戻ってきた箱も、そのまま使うことある」


「これ、古い塩ビ板ですね」


「塩ビが悪いんか?」


「材質だけで悪いとは言えません。ただ、表面だいぶ傷んでます」


 大西が仕切り板を傾ける。


 細かな傷の間に、黒っぽい汚れが残っていた。


「油汚れも残ってる。メッキ終わった品物をここへ戻してるなら、一回疑った方がええです。板を新品にしたら全部直る、いう意味やないですよ」


「箱でまた汚してる可能性がある?」


「可能性はあります」


 吉岡が腕を組んだ。


 さっきまで「メッキ不良」だった一つの問題が、目の前で少しずつ崩れていく。


 メッキ条件かもしれない。


 研磨や穴あけ後の残留物かもしれない。


 曲げ油かもしれない。


 処理を終えたあとに戻す箱の状態かもしれない。


 しかも一つだけではなく、別々の原因が同じ箱の中へ混じっている可能性まである。


 北村の鉛筆が忙しく動いていた。


 だが、会話の速度に追いつかず、何度も紙の上を行き来している。


「北村さん」


 隆夫が声をかけた。


「はい」


「全部文章で追わんでええです。今は出方だけ分けてもらえます?」


「出方ですか」


「はい。誰が悪いかはまだ書かんといてください」


 北村は一瞬考えてから、新しい紙を出した。


 隆夫も横へ立ち、大きく四つに分ける。


 全体の曇り。


 穴まわりの点。


 曲げ内側の曇り。


 戻し箱に入ったあとの再汚染の可能性。


「四つ目だけ、不良の見え方やないですね」


 北村が気づいた。


「そうです。これはまだ原因候補です。混ぜん方がええな」


 北村が欄を分け直した。


 隆夫はそれを見て頷く。


 現場を整理するなら、見えた事実と考えられる原因を一緒にしてはいけない。


「つまりや」


 吉岡が四つに分かれた部品を見ながら言った。


「うちだけのせいやないかもしれん。でも、うちのせいやないとも言われへん」


「今はそうです」


 隆夫ははっきり答えた。


「せやから、責任を決めるより先に、どこから状態が変わったか見たいんです」


 南田が腕を組む。


「メッキへ入る前を見なあかんな」


「研磨後と穴あけ後もや」


 川嶋が続ける。


「吉岡へ来た時点で点があるなら、槽の中だけ見ても終わらん」


「戻し箱は、まず一個だけ替えてみてもええ」


 大西が言った。


「洗えて、表面の汚れを落としやすい仕切りを試す。効果があるか見てから数増やしたらええ」


 吉岡が苦い顔をした。


「結局、金かかる話やな」


「かかります」


 隆夫はごまかさなかった。


「ただ、全部一度に替える必要はないです」


「またそこか」


「原因がまだ分かってないのに全部替えたら、何が効いたのか分からんようになります」


 隆夫は北村の紙の下へ、試すことだけを書いた。


 まず戻り品を見え方で分ける。


 メッキ前の受け入れ時に、穴の周囲と曲げの内側の状態を見る。


 処理後の品物を戻す箱は、一部だけ別のものに替えて比較する。


 戻ってきた品物については、どのロットで、どの箱を使っていたか分かる範囲で残す。


「一週間、これだけやってみませんか」


「治具は?」


 吉岡が聞いた。


「今は作りません」


「黒瀬さんとこ、治具屋みたいなことしとるんやろ」


「必要なら作ります。でも、どこで何が起きてるか分からんまま作っても、外す可能性があります」


 田端が口元を緩めた。


「黒瀬さん、最近ほんま、すぐ物作らんようになりましたね」


「作った方が金になるんですけどね」


「それ言うんや」


 南田が笑った。


「金もらうからこそ、外したもん作ったらあかんでしょう」


 隆夫が返すと、吉岡もようやく少しだけ表情を緩めた。


「ほな一週間や。分けて残す。箱も一部替える。それで見えんかったら次考える」


「お願いします」


 北村がそこで手を挙げた。


「あの、今回の確認を、東大阪商工会議所で進めている試行相談の記録として残してもいいでしょうか」


 吉岡が振り向く。


「会社名まで出すんか?」


「いいえ。外へ事例として出す話ではありません」


 北村は首を横に振った。


「まずは今回の相談記録としてです。もし今後、似た相談の参考に使うことがあっても、会社名や取引先名を勝手に出しません。それに、今回まだ原因は確定していませんから、成功例として扱うこともできません」


 吉岡は少し考えたあと、鼻を鳴らした。


「それならええ。ただ、きれいな話にするなよ」


「きれいな話?」


「『みんなで集まって原因が分かりました』みたいに書くな。まだ何も分かってへん」


 北村は慌てて頷いた。


「はい。今日分かったのは、戻り品を一種類の不良として扱えない、というところまでにします」


「それならええ」


 隆夫は北村を見た。


 先日の商工会議所では、会話についていくだけで精いっぱいに見えた若い職員が、今日は「何が確定していないか」まで確認している。


 商工会議所が各工場の技術判断をするわけではない。


 北村の役目は、相談の入口をつくり、必要な人をつなぎ、話したことが後から別の意味に変わらないよう記録するところまでだった。


 技術の中身は、現場にいる者が決める。


 そこを混ぜなければいい。


 確認を終える前、吉岡が隆夫へ封筒を差し出した。


「今日の現場確認料や」


「ありがとうございます」


 隆夫は受け取ったあと、すぐに財布へしまわなかった。


「ただ、今日は川嶋さんも南田さんも大西さんも、自分のところの工程を見てくれてます。次に試作品を作ってもらったり、別工場へ確認に行ってもらうなら、その分までこの金で済ませたことにはせんといてください」


「分かっとる」


 吉岡が答える。


 北村も頷いた。


「今日決まっているのは、黒瀬精機さんの現場確認までです。ほかの会社に作業をお願いする場合は、内容と費用を別に確認します」


「それでお願いします」


 第35話――そんな言葉は、この工場には存在しない。


 代わりに、先日の東大阪商工会議所で決めたことが、一つずつ実際の仕事になっていた。


 相談だけなら何でも無料。


 現場へ出ても時間はただ。


 原因が分からなくても、とりあえず治具を作る。


 そういう曖昧な受け方をやめようと決めたからこそ、今日も「まだ分からない」と言えた。


 吉岡メッキを出た時には、夕方の光が路地へ斜めに差していた。


 田端のライトバンの横で、南田が煙草を取り出しかける。


「一本吸ってから帰るわ」


「どうぞ」


 隆夫が答えると、南田が少し意外そうな顔をした。


「止めへんの?」


「人の工場の外まで俺が決められませんよ」


「最近、黒瀬さんが何でも決める人に見えてきたからな」


「それ一番あかんやつです」


 森川が横で笑った。


 その言葉に田端も吹き出し、張り詰めていた空気がようやく緩んだ。


 黒瀬精機へ戻ると、美智子が作業台で帳面を開いていた。


「どうやった?」


「まだ分からん」


 隆夫がそう答えると、美智子は顔を上げた。


「それで帰ってきたん?」


「それで帰ってきた」


 隆夫は北村が作った控えを置いた。


「同じ不良で戻ってきてるけど、見た目が違う。全体の曇り、穴まわり、曲げの内側。それと、戻し箱も怪しいかもしれん」


 美智子は紙へ目を通した。


「“かもしれん”ばっかりやね」


「今日はそれでええと思う」


「うん。その方がええ」


 美智子は迷わず答えた。


「分かってへんのに原因書く方が怖い」


 森川が、自分で分けた三種類の簡単なスケッチを机に出す。


「俺、最初は全部メッキの違いやと思ってました。でも見たら、ほんまに出方が違ったんです」


「森川が最初に分けた」


 隆夫が言う。


「へえ」


 美智子が少し笑う。


「見る目ついてきたんちゃう?」


「まだ違うって分かっただけです」


「それが最初やろ」


 そこへ学校から帰った直人が入ってきた。


「ただいま」


「おかえり」


 鞄を置いた直人が、作業台の紙に気づく。


「何これ?」


「不良品の分け方」


 森川が説明した。


「メッキ不良で全部戻ってきてたんやけど、見たら違う出方してた」


「どこが違ったん?」


 森川が三つの絵を指す。


「全部曇ってるやつ。穴の周りだけ点あるやつ。曲げた内側だけ曇ってるやつ」


「同じ部品?」


「同じ」


 直人は紙を覗き込んだ。


 十一歳の顔の奥で、別の時間を知る記憶が動く。


 前の人生では、不具合が起きた時に「外注不良」「加工不良」「材料不良」と、会社名や工程名だけで箱へ押し込まれる場面を何度も見た。


 そうすると、原因より先に責任の押しつけ合いが始まる。


 けれど、この場でそれを難しい言葉にする必要はない。


「オトン」


「何や」


「一個ずつ、どこまで大丈夫やったか見たらええんちゃう?」


「どこまで?」


「穴開けた時は点なかったとか、曲げた時は曇ってなかったとか。最後から戻るんやなくて、途中で一回ずつ見る」


 隆夫は紙へ目を落とした。


 今日、吉岡たちが話していたことと同じだった。


「それを来週見る予定や」


「そっか」


「先越されたな」


 森川が笑うと、直人も笑った。


「ならええやん」


 美智子は北村の記録を読みながら、赤鉛筆を一本取った。


「これ、誰が何を見たかも分けた方がええね」


「やっぱり言うた」


 田端が入口から声を上げた。


「何が?」


「北村くん、今日ずっと必死で書いてたから、これ美智子さんに見せたら直されるやろなって」


「直すよ」


 美智子は当然のように言った。


「川嶋さんが穴まわり。南田さんが曲げ。大西さんが戻し箱。森川さんが見え方の分類。これが全部“大勢で確認”だけになったら、次に誰へ聞けばええか分からんやろ」


 隆夫は頷いた。


「明日、北村さんにも伝えとく」


「怒らんように言うたってや」


「怒らへんやろ」


「美智子さんから言われたら?」


 田端が言うと、美智子が顔を上げた。


「私が言おか?」


「やめといたってください」


 今度は森川まで笑った。


 翌朝、隆夫が東大阪商工会議所へ電話すると、北村は最後まで話を聞いたあと、少し悔しそうに答えた。


『確かに、“参加者”だけ書いてました。誰が何を確認したかまでは分けてません』


「次からでええですよ」


『いえ、昨日の分から直します。皆さんに確認してから記録を足します』


「確認してから?」


『私の記憶だけで書いたら、記録にならないですよね』


 隆夫は受話器を持ったまま、わずかに笑った。


「そうですね。お願いします」


 電話を切り、工場へ目を向ける。


 森川は旋盤の前に立ち、いつもの仕事へ戻っていた。


 吉岡は吉岡の槽を見る。


 南田は曲げを見る。


 川嶋は研磨の痕を見る。


 大西は箱や仕切りを見る。


 北村は、それぞれが見たものを混ぜずに残す。


 黒瀬精機一社で全部を見る必要はなかった。


 むしろ、一社で全部を分かったつもりになる方が危ない。


 一週間後に何が残るのか。


 それを見てから、次に手を出せばいい。


 今はまだ、三つに分けた戻り品の箱と、疑うべき場所がいくつか見えただけだった。


 けれど吉岡メッキの作業台では、それまで一つの「メッキ不良」として積まれていた傷が、初めて別々の顔を見せ始めていた。


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