第32話 診る仕事

 南田板金の工場は、黒瀬精機よりも音が鋭かった。


 薄い金属板を曲げる音。


 型に当たる乾いた音。


 板を重ねる時の、かすかな擦れ。


 そのどれもが、黒瀬隆夫の耳には少し危うく聞こえた。


 1986年の春。


 高井田の路地には、円高という言葉がもう新聞の中だけでは済まなくなっていた。


 上の会社から単価を下げろと言われる。


 納期は短くなる。


 そのくせ、不良は許されない。


 南田板金も、その波の下にいた。


「黒瀬さん、今日は頼むわ」


 南田は、いつものように煙草をくわえかけて、途中でやめた。


 目の前に隆夫がいるからではない。


 黒瀬精機が最近、身体のことまで記録しているという話が、田端経由で町に妙な形で広がっていたからだ。


「吸うなとは言いませんよ」


 隆夫が言うと、南田は少し気まずそうに笑った。


「いや、まあ、今日はやめとく」


 田端が横で吹き出しそうになり、森川修一が必死に口元を押さえた。


 今日の黒瀬精機側は、隆夫と森川の2人だった。


 田端は案内役として来ている。


 直人は学校だ。


 今回は子供の目で見る場面ではない。


 黒瀬精機が、仕事として他所の工場を診る日だった。


 母の美智子が作った紙には、こう書かれている。


 南田板金 現場確認

 目的 薄板曲げ部品の不良・手戻り原因確認

 範囲 半日

 費用 現場確認料

 成果物 確認メモ、改善案、必要なら治具見積もり


 まだ治具を作るとは決まっていない。


 そこが大事だった。


 南田は最初、その紙を見て笑った。


「医者みたいやな」


 隆夫は頷いた。


「そうかもしれません。どこが悪いかわからんまま薬を出しても、効くかわかりませんから」


「うまいこと言うようになったな」


「田端さんに鍛えられてます」


「わしのせいかい」


 田端が笑った。


 だが、工場に入ると冗談は消えた。


 南田は問題の薄板部品を作業台に並べた。


 長さは手のひらほど。


 曲げが2か所。


 片側に小さな切り欠きがある。


 見た目には単純だが、重ねてみると微妙に角度が違っていた。


「この曲げがずれる」


 南田は部品を指で弾いた。


「検査で落ちる時もあるし、組み付け先で戻される時もある。上は『ちゃんと見ろ』と言うだけや」


 隆夫は部品を手に取った。


 軽い。


 だが薄いぶん、少しの力で歪む。


「曲げる前の位置決めは?」


「これや」


 南田が古い当て板を見せた。


 何年も使われた鉄の板で、端が少し丸くなっている。


 黒い油汚れが染み、基準にしているはずの面には細かい傷がいくつも走っていた。


 森川が身を乗り出す。


「これ、当て面が減ってません?」


 南田が眉を上げた。


「わかるか」


「たぶん。ここ、光の当たり方が違います」


 森川は指で触ろうとして、すぐに手を止めた。


 勝手に触らない。


 それも、最近覚えたことだった。


「触ってええよ」


 南田が言うと、森川は軽く指先で面をなぞった。


「段があります。毎回ここに当ててるなら、位置が少し逃げてるかもしれません」


 隆夫は頷いた。


「曲げ前の基準が動いてる可能性がありますね」


「ほな、この当て板を作り直せばええんか」


 南田が早くも答えを求める。


 隆夫は首を振った。


「まだです」


「まだ?」


「曲げ前だけとは限りません。検査も見せてください」


 南田は少し面倒くさそうに顔をしかめたが、何も言わず奥へ案内した。


 検査台には、古い合わせ治具が置かれていた。


 部品を当てて、曲げ角度と切り欠き位置を見るものだ。


 だが、その合わせ治具もまた、長く使われてきたものだった。


 端が欠け、目印の線は黒ずみ、どこまでが合格でどこからが不合格なのか、見ただけでは曖昧だった。


「これで見てるんですか」


 森川が聞く。


「昔からな」


 南田が答える。


「わしが見たらわかる。けど、若いのが見ると迷う」


「若い人はどなたですか」


 隆夫が聞くと、南田は工場の奥へ声をかけた。


「清水!」


 奥から20代前半くらいの若い工員が顔を出した。


 まだ動きに硬さがある。


 手袋には油が染みていた。


「この子が最近、検査も手伝ってる」


 清水は気まずそうに頭を下げた。


「すんません。よう戻されます」


「謝る話やない」


 隆夫は言った。


 清水が顔を上げる。


「わからんものを、わからんまま見ろと言われたら誰でも迷います」


 その言葉に、南田の顔が少し動いた。


 清水も驚いたように隆夫を見た。


 隆夫は合わせ治具を指した。


「南田さんなら、この線の汚れも傷も含めて読める。でも清水くんには、どこを見たらええかが残っていない」


「残っていない?」


「はい。南田さんの頭の中にはある。でも、治具にも紙にも残っていない」


 工場の中が静かになった。


 田端が腕を組んだまま、何も言わずに聞いている。


 森川は、清水の手元を見ていた。


「清水さん」


「はい」


「この部品、検査する時、どっち向きに置きます?」


 森川が聞く。


 清水は部品を取り、合わせ治具に置いた。


 すぐ横から南田が言う。


「逆や」


 清水の肩が縮む。


「すんません」


 森川はすぐに言った。


「いや、これ、逆に置けますよ」


 南田が眉をひそめる。


「何やて?」


「切り欠きが小さいんで、ぱっと見で向きがわかりにくいです。置けてしまう形になってます」


 隆夫も部品を逆に置いてみた。


 確かに、完全にはまるわけではない。


 だが、慌ただしい現場なら一瞬迷う。


 新人ならなおさらだ。


「向きの間違いも混じってますね」


 隆夫が言った。


 南田は頭をかいた。


「曲げのずれだけやと思ってたわ」


「曲げ前の位置決め、検査治具の摩耗、部品の向き間違い。少なくとも3つあります」


 隆夫は作業台に紙を広げ、鉛筆で分けて書いた。


 1 曲げ前の当て面摩耗

 2 検査治具の合格線が曖昧

 3 部品向きの取り違え


「治具1つ作れば終わり、ではないです」


 南田が苦い顔をする。


「金かかる話やな」


「かかります」


 隆夫は隠さず言った。


「ただし、全部を一度にやる必要はありません」


「どう分ける」


「まず、曲げ前の当て板を作り直す。次に、検査用の限度見本を作る。清水くんでも合否がわかるように、良品、注意、不良を分ける。最後に、部品の向きを間違えないよう、置く方向が見える印か、逆向きでは入らない簡単な逃げを作る」


 森川が横から言った。


「手順札も、1枚でええと思います。たくさん書くと見ません」


 南田が森川を見る。


「若いの、言うなあ」


 森川は一瞬たじろいだが、引かなかった。


「うちでも、手順札の位置で失敗しました。使う人の手に当たると邪魔やし、字が多いと読まれません」


 南田は少し笑った。


「経験者の顔しとる」


「まだ全然です」


 森川は正直に言った。


「でも、見本1号で現場から戻ってきました」


 田端が、そこでようやく口を開いた。


「南田さん、これが黒瀬さんとこの新しいやり方や。いきなり『治具作ります』やなくて、どこで狂うか分ける」


「面倒やけど、確かに見えたな」


 南田は清水を見た。


「お前、向き間違えてたんか」


 清水は青くなる。


 だが南田は怒鳴らなかった。


 古い合わせ治具を見て、ため息をつく。


「いや、これはわしが悪いな。わしにだけわかる道具やった」


 清水は言葉を失った。


 隆夫は、その一言を聞いて静かに頷いた。


 南田が自分でそこに気づいた。


 それなら、仕事になる。


 ただ治具を売るのではない。


 現場が変わる可能性がある。


 現場確認は半日で終わった。


 隆夫は、その場で結論を出さなかった。


 黒瀬精機へ戻り、原価を見てから、改善案と見積もりを出す。


 南田もそれを受け入れた。


「今日の分、これでええんか」


 南田が封筒を出した。


 中には、現場確認料が入っている。


 隆夫は一瞬、受け取る手を止めた。


 やはり、少し怖い。


 ただ見ただけで金をもらう。


 昔の自分なら、遠慮したかもしれない。


 だが、美智子の声が頭に響いた。


 見えない時間も、仕事。


 隆夫は封筒を受け取った。


「領収書を出します」


 南田はにやりと笑った。


「ほんまに変わったな」


「まだ慣れません」


「慣れろ。わしも払うのに慣れる」


 その言葉に、田端が笑った。


「それ、町に広めたい言葉やな」


「勝手に広めるな」


 南田が睨む。


 それでも、その顔は少し晴れていた。


 黒瀬精機へ戻ると、美智子が待っていた。


 隆夫は封筒と現場メモを作業台に置く。


「現場確認料、いただいた」


 美智子は封筒を見て、すぐには手を伸ばさなかった。


「ちゃんと受け取れたんやね」


「ああ」


「ほな、仕事やね」


「仕事や」


 短いやり取りだった。


 だが、工場の空気が少し変わった。


 黒瀬精機は、物を作る前の時間にも値段をつけた。


 それは小さなことに見えて、町工場にとっては大きな一歩だった。


 森川は南田板金の部品を模した紙を作業台に置き、向きを間違えないための形を描いていた。


「逆向きでは入らんようにするなら、ここを逃がせば……いや、でも作りにくいか」


 ぶつぶつ言いながら線を引く。


 隆夫はその横に座った。


「清水くんが迷わん形にせなあかん」


「はい」


「南田さんが見てわかる形やなくて、清水くんが見てわかる形や」


 森川の鉛筆が止まった。


「それ、難しいですね」


「難しい。だから仕事になる」


 森川は小さく頷き、もう一度線を引き直した。


 その日の夕方、直人が学校から帰ると、作業台には南田板金の現場メモが広げられていた。


 父も森川も、まだ少し疲れた顔をしている。


 しかし、目は暗くなかった。


「どうやったん?」


 直人が聞くと、父は封筒を指で叩いた。


「作る前の仕事で、金をもらった」


 直人は目を見開いた。


 現場確認料。


 それは、前の人生の黒瀬精機がほとんど取れなかったものだった。


 相談に乗る。


 現場を見る。


 原因を分ける。


 提案する。


 その時間は、いつもどこかでサービスになっていた。


「南田さん、払ってくれたん?」


「ああ」


 父は頷いた。


「嫌そうやったけどな」


「払う方も慣れてへんもんな」


「そうやな」


 父は苦笑した。


「こっちも、受け取るのに慣れてへん」


 美智子が帳面に金額を書き込んだ。


 南田板金 現場確認料。


 その文字を、直人はじっと見た。


 小さな金額かもしれない。


 大和計測の注文に比べれば、大した額ではないかもしれない。


 だが、意味が違う。


 黒瀬精機は、物を納める前の知恵に値段をつけた。


 それは、未来の町工場が生き残るために必要な考え方だった。


 田端が言った。


「黒瀬さん、これ、いけるで」


「何がですか」


「町工場診断や」


 父が顔をしかめる。


「大げさです」


「名前は大げさでも、中身は必要や。困りごとを分ける。作るものと作らんものを決める。値段をつける。これができる工場、少ない」


 美智子がすぐに釘を刺す。


「広げすぎたら潰れます」


「わかってます、奥さん」


 田端は両手を上げた。


「まずは南田さんだけ。次は、黒瀬さんが選ぶところだけ」


 隆夫は考え込んだ。


 町工場診断。


 言葉は軽い。


 だが、やっていることは軽くない。


 下手に広げれば、黒瀬精機は相談だけで潰れる。


 けれど、上手く絞れば、町全体の不良と手戻りを減らせるかもしれない。


 それはクロセ治具の先にある仕事だった。


 単なる道具ではない。


 町の作業を診る目。


 直人は、田端の言葉を聞きながら胸の奥で静かに息を吸った。


 スケールが、また少し広がった。


 黒瀬精機が作るのは、1つの治具だけではない。


 見えない困りごとを見えるようにする仕組み。


 それが町に広がれば、消えるはずだった工場の灯りを、少しは残せるかもしれない。


 その夜、黒瀬精機の作業台には、南田板金の改善案が3枚並んだ。


 曲げ前の当て板。


 検査用の限度見本。


 向き間違いを防ぐ置き治具。


 全部を作るかは、まだ決まっていない。


 だが、父はそれらを1つにまとめず、別々の見積もりに分けた。


 南田が選べるように。


 黒瀬精機が無理をしないように。


 そして、清水が迷わず使えるように。


 工場の外では、春の夜風が路地を抜けていた。


 まだ町の灯りは多い。


 まだ間に合う。


 直人には、そう思えた。


 1986年春。


 黒瀬精機は、初めて物を作る前の知恵に値段をつけた。


 それは、町をひとつの工場として診るための、最初の仕事だった。


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