第31話 1986年春、町が動く
1986年春。
黒瀬直人は小学5年生になった。
だが、黒瀬精機の時間は、学校の学年よりずっと早く動いていた。
大和計測へ納めた別工程用のクロセ治具標準台座A型は、予定より2日遅れて完成した。
遅れた理由は、手順札の位置だった。
見本1号で出た「作業者の手が当たる」という声を受け、父の隆夫は手順札の保持部を台座の奥側へ逃がした。
森川修一は、樹脂当たりに手袋でもつまめる小さな張り出しを作った。
母の美智子は、予備部品袋に同じ印を入れ、交換手順を1枚にまとめた。
納品時、佐伯は台座を手に取って言った。
「これなら、現場で説明しやすいです」
その一言で、黒瀬精機の工場にあった緊張は少しだけほどけた。
だが、それで終わりではなかった。
大和計測の現場で使われたその1台は、別工程の作業時間を短くし、測定のやり直しを減らした。
作業者が替わっても、結果が大きくぶれない。
それは、現場にとって小さくない意味を持っていた。
やがて佐伯から、次の相談が来た。
「同じ考え方で、もう2工程ほど見ていただけませんか」
父は受話器を握ったまま、すぐには返事をしなかった。
以前なら、その場で「見ます」と答えていたかもしれない。
今は違う。
「まず現場確認の日を決めさせてください。対象部品と作業者、今の不良や手戻りの内容を見てから、見積もります」
電話を切ったあと、森川が父を見た。
「社長、落ち着いてましたね」
「手は汗だくや」
父はそう言って、苦笑した。
直人は工場の隅で宿題のノートを開いたまま、その会話を聞いていた。
父はまだ怖がっている。
だが、怖がりながら線を引けるようになっている。
それが、前の人生とは違う。
クロフィックスという名前の調査も、少しずつ進んでいた。
伊原弁理士から届いた手紙には、候補名として大きな問題は見つかっていないが、指定する商品や範囲を慎重に決める必要がある、と書かれていた。
同時に、実用新案の出願準備も進んでいた。
交換式当たり。
ブッシュ交換部。
手順札保持部。
それらを小物検査用の標準台座に組み合わせる構造。
伊原はそこを中心に、図面と説明文を整えていた。
「出願したからすぐ勝ち、ではありません」
伊原は黒瀬精機の作業台でそう言った。
「審査があります。似たものが既にあるかもしれません。けれど、出す意味はあります。黒瀬精機がこの考案を、自分たちの仕事として残そうとしている証拠になります」
父は頷いた。
「証拠、ですか」
「はい。町工場の工夫は、口で話しているうちに誰のものかわからなくなりやすい。だから、日付、図面、記録、出願。全部が線になります」
美智子は、その言葉を聞きながら、出願関係の控えを別の封筒にまとめた。
封筒の表には、きっちりした字でこう書かれている。
クロセ治具標準台座A型
実用新案関係
外部名候補 クロフィックス
まだ正式な名前ではない。
だが、黒瀬精機の中では、その言葉が少しずつ重みを持ち始めていた。
春の終わり、田端は父を連れて、また町を回った。
今度は直人も一緒ではなかった。
学校があったからだ。
それでも父は、帰ってくると工場の作業台に何枚もの紙を置いた。
南田板金。
川嶋研磨。
吉岡メッキ。
大西樹脂。
西野研磨。
それぞれの名前の横に、困りごとが書かれている。
薄板曲げの検査が勘頼り。
小物研磨後の寸法確認が人によって違う。
メッキ前後の治具掛け間違い。
樹脂部品の取り違え。
研磨品の戻し先間違い。
直人はその紙を見て、息を呑んだ。
クロセ治具は、単に大和計測だけの道具では終わらない。
町のあちこちに、似たような困りごとがある。
形は違う。
材料も違う。
工程も違う。
けれど根は同じだ。
誰かの勘に頼りすぎている。
手順が残っていない。
若い人に渡せない。
不良や手戻りの理由が紙に残らない。
黒瀬精機が見ていたものは、1つの治具ではなく、町工場全体の弱点だった。
「全部は受けられへん」
父は言った。
森川が頷く。
「受けたら潰れます」
「せや」
父は紙を3つに分けた。
すぐ見るもの。
今は見ないもの。
田端さん経由で話だけ聞くもの。
美智子はそれを見て、仕事別原価ノートの横に新しいページを作った。
町工場相談一覧。
「相談を受けるだけでも時間がかかる。そこも記録する」
母が言うと、父は素直に頷いた。
「わかった」
以前なら、きっと「ちょっと聞くだけや」と言った。
だが今は、その「ちょっと」が積もる怖さを知っている。
その頃、町の空気も変わり始めていた。
円高の影は、新聞の経済面から工場の見積書へ降りてきていた。
ある日、南田板金の南田が黒瀬精機へ顔を出した。
片手に、くしゃくしゃになった見積依頼書を持っている。
「黒瀬さん、これ見てくれ」
父が受け取る。
そこには、薄板部品の加工単価が書かれていた。
父の顔が曇る。
「これは……厳しいですね」
「厳しいどころやない。前より下げろ言うてきた。理由は円高や。うちが輸出してるわけでもないのにや」
南田は吐き捨てるように言った。
「上が苦しい。だから下も苦しめ。そういう理屈や」
工場に沈黙が落ちた。
田端も、ちょうど来ていた。
珍しく冗談を言わない。
森川は黙って南田の見積書を見ている。
「断るんですか」
森川が聞いた。
南田は苦笑した。
「断れたら格好ええんやけどな。仕事がなくなったら、うちは食えん」
父はしばらく考えた。
そして、南田の部品をもう一度見た。
「この仕事をそのまま受けたら、赤字ですか」
「ほぼ赤や」
「では、加工単価の話だけでなく、不良と手戻りを減らせないか見た方がいい」
南田は眉を寄せた。
「治具を売り込むんか」
「違います」
父は首を振った。
「まず見るだけです。曲げ前の位置決めなのか、曲げ後の検査なのか、材料の置き方なのか。そこを分ける。うちが受けられるかどうかは、その後です」
田端が小さく笑った。
「黒瀬さん、言い方が商売人になってきたな」
「嫌な言い方ですか」
「いや、ええ言い方や」
南田はしばらく父を見ていた。
やがて、疲れたように肩を落とした。
「ほな、一回見てくれ。見る分の金は払う」
父は驚いた。
「いいんですか」
「タダで見てもろたら、またわしらが甘える。黒瀬さんとこも潰れる。川嶋に怒られるわ」
南田はそう言って、少しだけ笑った。
川嶋研磨の言葉が、町の中で効き始めていた。
誰かが安く受けすぎると、町全体の値段が下がる。
その言葉は、ただの説教ではなかった。
町の生存本能だった。
南田板金の現場確認は、翌週に決まった。
黒瀬精機としては、初めての「有料の困りごと確認」だった。
治具を作るかどうかは、まだ決まっていない。
だが、困りごとを分ける時間に値段がついた。
それは、黒瀬精機にとって大きな変化だった。
その夜、父は工場の壁に貼られた「黒瀬精機の決まり」を見ていた。
もう新しい行を書き足すことはしなかった。
増やすだけでは意味がない。
守ることの方が難しい。
森川は、見本1号の横で新しい当たり部品の図を描いていた。
美智子は、南田板金の相談用紙を原価ノートに挟んでいる。
直人は、工場の入口に立って、外の道を見ていた。
高井田の路地には、まだいくつもの工場の灯りが残っている。
だが、未来ではその灯りのいくつもが消える。
今なら、まだ間に合うかもしれない。
黒瀬精機1社を助けるだけでは足りない。
田端が言ったように、町はひとつの工場だ。
ならば、守るべきものも1社ではない。
この町の血の流れを、止めないこと。
それが、いつか日本の未来につながる。
1986年春。
小学5年生になった直人の世界は、教室の机の上よりも、工場の作業台よりも、さらに外へ広がり始めていた。
黒瀬精機は、最初の1台を売った。
次に始まったのは、町をつなぐ仕事だった。
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