第29話 図面は渡さない

 大和計測の会議室は、黒瀬精機の工場よりもずっと静かだった。


 油の匂いがしない。


 切り粉も落ちていない。


 機械の音もない。


 代わりにあるのは、蛍光灯の白い光と、机の上に並べられた書類と、湯呑みの底が置かれる乾いた音だった。


 黒瀬隆夫は、背筋を伸ばして椅子に座っていた。


 隣には佐伯がいる。


 向かいには、大和計測の購買担当である三好という男がいた。


 年は隆夫より少し上に見える。


 灰色の作業服ではなく、白いシャツに紺のネクタイ。


 工場の人間というより、数字を見る人間の顔をしていた。


 その横には、現場から来た辰巳が腕を組んで座っている。


 辰巳はいつものように少し無骨な顔をしていたが、今日は口数が少ない。


 三好が、黒瀬精機の見積書をめくった。


「黒瀬さん」


「はい」


「率直に申し上げます。高いです」


 昨日も佐伯から聞いた言葉だった。


 だが、会議室で購買担当から言われると、また重さが違った。


 隆夫の指が、膝の上でわずかに動く。


 値段を下げるな。


 見えるものだけで決めるな。


 美智子の字が頭に浮かんだ。


 見えない時間も、仕事。


 隆夫は息を整えた。


「はい。安い見積もりではありません」


 三好は少し眉を上げた。


 言い返されると思っていなかったのかもしれない。


「治具1台として見ると、社内で通すには説明が要ります」


「そう思います」


「では、もう少し抑えることはできませんか」


 隆夫はすぐには答えなかった。


 机の上には、黒瀬精機が出した見積書がある。


 標準台座A型本体。


 別工程用当たり設計。


 交換式当たり。


 手順札。


 予備部品。


 現場確認1回。


 記録一式。


 着手時3割、納品検収後7割。


 以前の隆夫なら、どれかを消した。


 手順札をサービスにする。


 現場確認をついでにする。


 記録は美智子に任せて、費用に入れない。


 予備部品も、あとで何かあった時に渡す。


 そうして値段を下げた。


 そして、工場のどこかが削られていった。


「抑えることはできます」


 隆夫は言った。


 佐伯がこちらを見る。


 三好の表情が少し緩む。


 だが、隆夫は続けた。


「ただし、その場合は、何を外すかを決める必要があります」


 三好の顔が止まった。


「外す?」


「はい」


 隆夫は見積書の別紙を前へ出した。


 美智子が清書した費用区分の紙だ。


「台座本体だけなら、安くできます。ですが、その場合、手順札、予備部品、現場確認、使用後の記録作成は含みません。あとから必要になれば、別費用になります」


 三好は紙を見る。


 辰巳が、そこで初めて口を開いた。


「三好さん。現場としては、本体だけやと困ります」


 三好が辰巳を見る。


「辰巳さん」


「見本1号を使った感触では、手順札と予備部品があるから現場が回ります。台座だけ来ても、結局ベテランが横について教えることになります」


 佐伯も続けた。


「今回の目的は、ただ固定する台を買うことではありません。作業者が替わっても、同じように測れる状態を作ることです」


 三好は黙った。


 隆夫は、会議室の机を見つめた。


 ここで余計なことを言いすぎてはいけない。


 現場の価値は、佐伯と辰巳が言ってくれている。


 自分は、黒瀬精機が何を含め、何を含めないかをはっきりさせるだけでいい。


 三好が見積書をもう一度めくった。


「黒瀬さん。この“記録一式”というのは?」


「納品時の確認表、使用手順、予備部品の管理、現場確認後の修正記録です」


「それも費用に入るのですか」


「入れます」


 隆夫は言った。


 声が少し震えた。


 だが、言い切った。


「紙を書くのも仕事です。記録がなければ、次に同じ不具合が出ます。その分を見えないままにすると、結局どこかで時間が消えます」


 三好は答えず、佐伯を見る。


 佐伯は静かに頷いた。


「黒瀬さんの言う通りです。見本1号で現場の声を返せたのも、最初から記録の形式があったからです」


 辰巳が腕を組み直した。


「うちの現場も助かりました。口で言うだけやと、たぶん半分忘れてます」


 三好は少しだけ苦笑した。


「辰巳さんが言うなら、そうなんでしょう」


 そこで、三好は別の紙を取り出した。


「もう1点。購買としては、図面の提出をお願いしたい」


 会議室の空気が変わった。


 隆夫の背中に、冷たいものが走る。


 図面。


 来ると思っていた。


 だが、実際に言われると、喉が詰まる。


 三好は続ける。


「社内で管理するためです。外注品を買う以上、仕様を残す必要があります」


 佐伯が口を開きかけた。


 だが隆夫は、先に言った。


「申し訳ありません。詳細図面一式はお渡しできません」


 三好の目が細くなった。


「なぜですか」


「この標準台座A型は、黒瀬精機で実用新案を検討しています。伊原先生にも相談中です。構造の中心になる詳細図面は、現段階では外へ出せません」


 言った。


 隆夫は自分の手のひらに汗が滲むのを感じた。


 大和計測は大事な客だ。


 佐伯は信用できる。


 辰巳も信用できる。


 だが、会社は人だけではない。


 紙が回る。


 机を渡る。


 誰かの棚に入る。


 そしていつか、どこかへ出る。


 見せる前に守る。


 その線を、ここで越えてはいけない。


 三好は厳しい顔になった。


「図面なしでは、購買として困ります」


「外形図と仕様書は出します」


 隆夫は用意してきた封筒から紙を出した。


 これも美智子と何度も確認したものだ。


 全体寸法。


 使用範囲。


 交換部品の品番。


 納品物一覧。


 保守方法。


 だが、加工に必要な詳細寸法や穴位置のすべては書いていない。


「大和計測さんが管理するための仕様は残します。ただし、製作に必要な詳細図面は黒瀬精機で管理します」


 三好は外形図を見た。


「これでは、他社で再製作できません」


「はい」


 隆夫は頷いた。


 会議室が静かになる。


「他社で再製作されないためでもあります」


 その言葉を言うのは怖かった。


 だが、言わなければ意味がない。


 三好の表情は硬い。


 佐伯は黙っている。


 辰巳も黙っている。


 隆夫は続けた。


「故障や追加があれば、黒瀬精機が対応します。予備部品も用意します。改良履歴も残します。その代わり、詳細図面は渡しません」


 三好はしばらく紙を見ていた。


 やがて、佐伯に聞いた。


「現場として、それで困りますか」


 佐伯は即答しなかった。


 少し考えてから、答えた。


「量産部品なら困ります。ですが、今回のものは現場改善用の治具です。管理仕様と保守方法があれば、当面は問題ありません」


 辰巳も頷いた。


「故障したら黒瀬さんに戻す方が早いです。うちで勝手に直して精度が狂う方が怖い」


 三好は、また黙った。


 隆夫は、その沈黙に耐えた。


 値段よりも、この沈黙の方がきつい。


 だが、ここで「やっぱり図面を出します」と言えば終わる。


 黒瀬精機は、また便利な下請けに戻る。


 しばらくして、三好は見積書を机に置いた。


「わかりました」


 隆夫は顔を上げた。


「ただし条件があります」


「はい」


「外形図、仕様書、納品物一覧、予備部品表、保守連絡先。この5点は必ず提出してください。現場で管理できるようにするためです」


「もちろんです」


「詳細図面は黒瀬精機管理。故障、追加、改造は黒瀬精機へ依頼」


「はい」


「支払い条件は、着手時3割、納品検収後7割。これは社内で確認しますが、試作要素があるので通る可能性はあります」


 隆夫の胸の奥で、何かがほどけた。


 まだ正式決定ではない。


 それでも、道が開いた。


 三好は最後に言った。


「黒瀬さん」


「はい」


「高い理由はわかりました。あとは、こちらがその価値を社内で説明できるかです」


「必要な資料があれば、作ります」


「では、見積書をこの形で預かります」


 三好は封筒に見積書を入れた。


 会議は終わった。


 隆夫は深く頭を下げた。


「よろしくお願いします」


 大和計測を出た時、外の空気が少し冷たかった。


 工場の匂いとは違う。


 大きな会社の敷地に吹く風は、どこか乾いている。


 佐伯が隣に立った。


「黒瀬さん」


「はい」


「図面のところ、よく言いましたね」


「手が震えました」


 隆夫は正直に言った。


 佐伯は少し笑った。


「そうは見えませんでした」


「見えないようにしてました」


「それでいいと思います」


 辰巳が後ろから言った。


「現場は、黒瀬さんに続けてもらわんと困ります。安く買って、次から作れませんでは意味ないですから」


 隆夫は頭を下げた。


「ありがとうございます」


 その時、黒瀬精機の工場にいる直人の顔が浮かんだ。


 10歳の息子。


 だが、時々、誰よりも遠くを見ている目をする。


 隆夫は自分の手を見た。


 図面を渡さなかった手。


 値段を消さなかった手。


 まだ震えている。


 だが、その震えは情けないものではなかった。


 黒瀬精機に戻ったのは、夕方前だった。


 直人はすでに学校から帰っていた。


 森川は工場の入口に立って待っていた。


 母の美智子は、帳面を開いたまま顔を上げる。


 田端も、なぜか工場の隅で缶コーヒーを持っていた。


「どうでした」


 森川が一番に聞いた。


 隆夫は作業台に鞄を置いた。


「高いと言われた」


 森川の顔が固まる。


「図面も求められた」


 母の手が止まる。


 直人も、黙って父を見る。


 隆夫は続けた。


「値段の中身は説明した。図面一式は渡せないと言った。外形図と仕様書だけ出す」


 森川が息を止めている。


 母が静かに聞く。


「それで?」


「見積書は、この形で預かってくれた。着手時3割、納品検収後7割も社内確認してくれる」


 森川が大きく息を吐いた。


「通りそうなんですか」


「まだわからん」


 隆夫は言った。


「でも、安く直して出し直せとは言われなかった」


 田端が缶コーヒーを作業台に置いた。


「それは勝ちやな」


「まだ勝ってません」


「いや、今日は勝ちでええ」


 田端は言った。


「値段を消さんかった。図面も渡さんかった。これで持ち帰らせた。それだけで大きい」


 母は帳面に赤鉛筆で書いた。


 大和計測 見積提出。

 詳細図面は渡さず。

 外形図・仕様書対応。

 着手金3割、確認待ち。


 直人はその文字を見た。


 父は今日、大きな会社の会議室で踏ん張った。


 それは、工場の作業台で踏ん張るのとは違う種類の強さだった。


 森川が見本1号を見た。


「社長」


「なんや」


「図面、渡せって言われたら、俺やったら渡してしまいそうです」


「俺も、昔なら渡してた」


 隆夫は言った。


「でも、渡したら終わりやと思った」


 母が頷く。


「守るって、こういうことなんやね」


「怖いけどな」


 隆夫は苦笑した。


 直人は、父の顔を見上げた。


 疲れている。


 だが、昨日より少しだけ大きく見えた。


 夜、黒瀬精機の工場には機械音が戻らなかった。


 その代わり、父と母と森川が、外形図と仕様書を並べていた。


 詳細図面は棚の奥へ戻す。


 外へ出す紙と、出さない紙。


 机の上で、はっきり分けられている。


 直人はその様子を見ながら思った。


 仕事は、作るだけではない。


 断ることも仕事だ。


 渡さないことも仕事だ。


 値段を消さないことも仕事だ。


 1985年の東大阪。


 黒瀬精機は、初めて大きな会社の会議室で、自分たちの線を引いた。


 その線は細い。


 まだ鉛筆で引いたような頼りない線だ。


 けれど、消さずに残せば、いつか工場を守る境界になる。


 黒瀬精機は今日、便利な下請けから一歩だけ離れた。


 その一歩は、誰にも見えないほど小さい。


 だが直人には、確かに見えていた。


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