第28話 値切られない見積もり

 翌朝の黒瀬精機には、いつもの機械音より先に、鉛筆の音があった。


 父の隆夫が、作業台の前で見積書の下書きをしている。


 母の美智子は、その横で仕事別原価ノートを開いていた。


 森川修一は、少し離れたところで戻ってきた見本1号の擦れ跡を確認し、手順札を差す位置を紙に描いている。


 誰も大声を出していない。


 だが、工場の空気は静かに熱を持っていた。


 大和計測から戻ってきた現場の声。


 対象部品に傷なし。


 作業者が替わっても、ばらつきは小さい。


 手順札の位置に改善が必要。


 交換式当たりには、手袋でもつまめる形が必要。


 別工程用に正式見積もりを依頼。


 黒瀬直人は、学校へ行く前に作業台の横へ立った。


 見本1号は、出ていく前より少し汚れている。


 だが、その汚れは悪いものではなかった。


 現場で使われた証拠だ。


 鉄が、工場の外の空気を吸って帰ってきた。


「お父ちゃん、見積もり今日出すん?」


「ああ」


 父は鉛筆を止めずに答えた。


「ただし、安くは出さん」


 その声は静かだった。


 意地ではない。


 怒りでもない。


 決めた声だった。


 母が原価ノートを指で押さえる。


「材料費、樹脂、ネジ、ブッシュ、加工時間、設計時間、手順札、予備部品、現場確認、記録作成。全部入れる」


 森川が少し不安そうに顔を上げた。


「高すぎたら、断られませんか」


「断られるかもしれん」


 父は言った。


 森川の表情が固まる。


 だが父は続けた。


「でも、安く出して続かへん仕事を取っても意味がない」


 直人はその言葉に、胸の奥で頷いた。


 前の人生で、父はこの一線を何度も越えられなかった。


 相手に悪い。


 次につながるかもしれない。


 うちが我慢すればいい。


 そうやって、値段から自分の時間を消していった。


 今の父は違う。


 まだ迷っている。


 けれど、消さないと決めている。


「ただな」


 父は森川を見る。


「こっちの失敗まで相手に払わせるわけやない」


 森川が目を瞬かせた。


「失敗?」


「手順札の位置が悪かった。これはうちの見本1号の詰めが甘かったところや。そこを直す時間を、全部大和計測さんに乗せるのは違う」


 母が頷いた。


「せやね。見本1号の改良として見る分と、別工程用に新しく作る分は分けなあかん」


 父は見積書の下書きに線を引いた。


 試作改良費。

 別工程用当たり設計費。

 標準台座A型本体製作費。

 手順札・予備部品・記録一式。

 現場確認1回。


「こう分ける」


 父は言った。


「見本1号の戻りでわかった改善は、うちの標準改良として一部こっちで持つ。別工程用に新しく必要な当たりや手順は、仕事の費用として見積もる」


 森川はゆっくり頷いた。


「開発費を押しつけるんやなくて、どこからが仕事か分けるんですね」


「そうや」


 父は短く答えた。


 直人は、森川の言葉に少し驚いた。


 17歳の見習いが、もうそこを考え始めている。


 これは大きい。


 材料を削るだけの職人ではなく、仕事の境目を見る職人になろうとしている。


「直人」


 母の声がした。


「学校」


「うん」


 直人はランドセルを背負った。


 行きたくない。


 今日は見積もりを出す日だ。


 父が初めて、自分たちの値段を削らずに外へ出す日だ。


 だが、直人は10歳だ。


 ここで居座るわけにはいかない。


「行ってきます」


「おう」


 父は顔を上げた。


「帰ってきたら、結果は出てるかもしれん」


「うん」


 直人は小さく頷き、工場を出た。


 その日の授業は、ほとんど耳を通り抜けていった。


 見積もり。


 値段。


 試作改良費。


 別工程用当たり。


 現場確認。


 支払い条件。


 父は、どこまで言えるだろうか。


 佐伯は、どう受け取るだろうか。


 高いと言われた時、父は引いてしまわないだろうか。


 黒板の文字をノートに写しながら、直人は何度も時計を見た。


 放課後、家に戻ると、大和計測のライトバンが工場の前に停まっていた。


 心臓が跳ねる。


 まだ話している。


 直人は工場の入口で靴を止め、一度だけ深く息を吸った。


「ただいま」


 作業台の前に、父、母、森川、佐伯、辰巳、田端がいた。


 伊原弁理士はいない。


 今日は権利の話ではない。


 値段の話だ。


 作業台の上には、父の手書きの見積書が置かれている。


 佐伯はそれを見つめていた。


 辰巳は腕を組んでいる。


 森川は緊張で背筋が伸びていた。


 田端は珍しく黙っている。


「黒瀬さん」


 佐伯が口を開いた。


「正直に言います」


「はい」


「高いです」


 工場の空気が、すっと冷えた。


 森川の喉が動く。


 母は帳面を抱えたまま動かない。


 父は佐伯を見返していた。


 直人は入口近くで足を止めた。


 来た。


 ここが勝負だ。


 佐伯は見積書を指で押さえた。


「これまで大和計測が頼んできた簡単な治具の感覚からすると、高い。ただの台座と当たり部品として見るなら、社内では通しにくい金額です」


 父は黙って聞いた。


 以前の父なら、ここで「では少し下げます」と言ったかもしれない。


 田端も、父の横顔をじっと見ている。


 佐伯は続けた。


「ただし、黒瀬さんの見積もりは、ただの台座ではありませんね」


 父の目が動いた。


「はい」


「標準台座A型本体、別工程用当たり設計、手順札、予備部品、現場確認、記録一式。そこまで含んでいる」


「そのつもりです」


 父の声は少し硬い。


「見本1号で見えた、うちの標準改良分は引いています。大和計測さんの別工程用に新しく必要な部分だけを入れました」


 佐伯は見積書の別紙を見た。


 そこには、母の字でこう書かれている。


 今回の費用区分。

 1 黒瀬精機側の標準改良分。

 2 大和計測別工程用の専用当たり設計分。

 3 標準台座A型本体製作分。

 4 手順札・予備部品・記録作成分。

 5 現場確認1回分。


 佐伯はその紙を見ながら、小さく頷いた。


「この分け方は、わかりやすいです」


 母が少しだけ息を吐いた。


 辰巳が口を開く。


「佐伯さん、現場側から言うと、手順札と予備部品は欲しいです。あと、現場確認も。台座だけ渡されても、たぶん使い切れません」


「わかっています」


 佐伯は辰巳に頷いた。


「だから高いとは言いましたが、不要とは言っていません」


 田端がそこで低く笑った。


「値段の話は、いつも胃に悪いな」


 父は苦笑しなかった。


 真剣な顔で佐伯を見ている。


「佐伯さん」


「はい」


「もし、この見積もりが通らないなら、本体だけの安い見積もりも出せます」


 森川の顔が揺れた。


 母も父を見る。


 直人の胸が冷えかけた。


 だが父は続けた。


「ただし、その場合は手順札、予備部品、現場確認、記録作成は別です。あとから追加になれば、その都度費用をいただきます」


 直人は、息を吐いた。


 引いたのではない。


 分けたのだ。


 安く見せるために消すのではなく、含めるものと含めないものを明確にした。


 佐伯の目が、少しだけ細くなる。


「黒瀬さん」


「はい」


「私は、最初の見積もりの形で社内に出します」


 工場の空気が止まった。


 森川が目を見開く。


 父はすぐに返事をしなかった。


「よろしいんですか」


「通るかどうかは、社内で説明してみないとわかりません」


 佐伯は正直に言った。


「ただ、本体だけの安い見積もりでは、現場が困る未来が見えます。今回は、黒瀬さんの提案した形で稟議にかけます」


 母が小さく頭を下げた。


「ありがとうございます」


 父も深く頭を下げる。


「ありがとうございます」


 森川も慌てて頭を下げた。


 田端は腕を組んだまま、満足そうに頷いている。


 佐伯は続けた。


「ただし、お願いがあります」


「何でしょう」


「支払い条件です。今回、試作要素があります。全額前払いは難しいですが、着手時に一部、納品後に残りという形で社内に相談します」


 父が顔を上げた。


 母の目が鋭くなる。


 直人も思わず前に出そうになった。


 一部前払い。


 それは、黒瀬精機にとって大きな一歩だった。


 材料費や外注費を全部抱えたまま、入金を待たなくて済むかもしれない。


「それは、こちらからもお願いしたい条件です」


 父が言った。


 佐伯は頷く。


「では、見積書に支払い条件を追記してください。着手時3割、納品検収後7割。これで通るかどうか確認します」


 母がすぐにメモを取る。


 着手時3割。

 納品検収後7割。


 森川が小さく呟いた。


「3割……」


 田端が言った。


「大きいで、森川。材料と外注の息が少しできる」


 森川は頷いた。


 まだ完全には理解できていないかもしれない。


 だが、金が入る日と出る日の差が工場を苦しめることは、少しずつわかり始めている。


 辰巳が見本1号を見ながら言った。


「黒瀬さん、現場としては早めに欲しいです。ただ、急がせて雑になるのは困ります」


 父は頷いた。


「納期は無理に詰めません。必要なら、先に現場確認の日だけ押さえます」


「それでお願いします」


 佐伯は見積書を丁寧に封筒へ入れた。


「この内容で持ち帰ります。結果は数日中に連絡します」


 父は深く頭を下げた。


「お願いします」


 佐伯たちが帰ったあと、工場には長い沈黙が残った。


 最初に口を開いたのは森川だった。


「社長」


「なんや」


「俺、途中で値段下げるんかと思いました」


「俺も、少し思った」


 父は正直に言った。


 森川が驚く。


 父は作業台の見積書の控えを見た。


「高いと言われると、今でも怖い。断られるんちゃうかと思う」


 母が静かに言った。


「でも、消さへんかった」


「ああ」


 父は頷いた。


「消したら、また戻るからな」


 田端が笑った。


「黒瀬さん、よう踏ん張った」


「まだ注文が決まったわけではありません」


「それでもや。値段の中身を消さずに出した。それが大事や」


 直人は父を見ていた。


 父は強くなった。


 急に大物社長になったわけではない。


 まだ怖がっている。


 迷っている。


 だが、怖がりながら踏みとどまった。


 それが何より大きい。


 母は見積書の控えを帳面に挟み、赤い鉛筆で日付を書いた。


「返事待ち」


 その横に、こう書き足す。


 着手時3割条件。


 父はそれを見て、少し笑った。


「美智子、逃がさへんな」


「逃がさへん」


 母はきっぱり言った。


「見積もりも、入金日も、煙草も」


「最後余計や」


 工場に笑いが起きた。


 その笑いの中で、直人は作業台の上の見本1号を見た。


 まだ、注文は確定していない。


 だが、黒瀬精機は今日、初めて自分たちの値段を外へ出した。


 安く受けるためではない。


 続けるために。


 人を削らないために。


 知恵を仕事として残すために。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 大和計測へ別工程用クロセ治具標準台座A型の見積もり提出。

 佐伯さん、高いと言った。

 父、値段の中身を消さずに説明。

 本体のみの安い見積もりも可能だが、手順札・予備部品・現場確認・記録は別費用と伝えた。

 佐伯さん、最初の見積もりの形で社内稟議へ。

 支払い条件、着手時3割、納品検収後7割を相談。

 父、怖かったが値下げしなかった。


 直人は少し手を止めた。


 それから、大きく書いた。


 高いと言われた時に、何を消さないか。

 そこに、工場の未来が出る。


 鉛筆を置いた。


 階下から、父と母が低い声で話す音が聞こえる。


 見積もりの控え。


 原価ノート。


 返事待ちの赤い文字。


 それらは、まだ売上ではない。


 だが、前の人生にはなかった足跡だった。


 1985年の東大阪。


 小さな町工場は、初めて値切られないための見積もりを出した。


 返事はまだ来ない。


 けれど黒瀬精機は、もう安く黙って削られるだけの工場ではなかった。


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