第13話 説明できる職人 

 翌朝、黒瀬直人はいつもの時間に目を覚ました。


 窓の外は明るい。


 階下から聞こえてくるのは機械の音ではなく、味噌汁の匂いと、母の美智子が食器を並べる音だった。


 工場は、まだ動いていない。


 それが少し前までの黒瀬精機とは違うところだった。


 朝飯を食べる。


 腹を空かせたまま機械に触らない。


 焦っている日ほど、まず人間を整える。


 そんな当たり前を、この家はようやく覚え始めていた。


 直人は布団から起き上がり、机の上の未来ノートに目をやった。


 昨日のページには、大和計測の部品についた傷のことが書かれている。


 大和計測部品に傷。

 森川さんが仮押さえ中に発生。

 父、怒鳴らず不具合記録を作った。

 佐伯さんへ即報告。

 傷の位置を絵に残した。

 母、手順を1、2、3で書く案。

 森川さん、明日自分で説明する。


 最後の1行を見て、直人は小さく息を吐いた。


 森川修一は、今日、自分の失敗を相手に説明する。


 17歳の見習いには重い役目だ。


 だが、きっと必要なことだった。


 前の人生で、森川は信頼できる職人だった。


 ミスが起きた時、若い職人をただ怒鳴るのではなく、まず状況を聞く男だった。


 その強さは、最初からあったわけではないのかもしれない。


 今日のような朝を、何度も越えた先にあったのだろう。


 直人が顔を洗って台所へ下りると、ちゃぶ台には朝食が並んでいた。


 白いご飯。


 味噌汁。


 卵焼き。


 漬物。


 そして、父の隆夫が湯呑みを前にして、不具合記録の紙を見ていた。


 ただし、作業着の袖はまだまくられていない。


 工場へ下りる前の、食卓の時間だった。


「おはよう」


「おう」


 父が顔を上げる。


 目の下に少し疲れがある。


 昨日のことを考えて、夜遅くまで眠れなかったのかもしれない。


 だが、機械は回していない。


 それだけで、直人は少し安心した。


「森川さんは?」


「もうすぐ来るやろ」


 母が味噌汁をよそいながら言った。


「来たら、ちゃんと食べたか聞かなあかんね。昨日の顔色やと、朝ごはん抜いてきそうやし」


 父が苦笑した。


「あいつ、緊張したら飯食わんからな」


「そういう時ほど食べなあかんのよ」


 母は当然のように言った。


 その言葉に、直人は頷いた。


 しばらくして、工場側の戸が開いた。


「おはようございます」


 森川の声だった。


 いつもより少し小さい。


 台所に顔を出した森川は、作業着を着ていたが、袖はまだきちんと下ろしていた。


 顔色は悪い。


 目の下に、うっすら影がある。


「森川さん」


 直人はすぐに聞いた。


「朝ごはん食べた?」


 森川は一瞬だけ目を逸らした。


「……ちょっとだけ」


「ちょっとだけって何?」


「茶だけ」


「それ食べたって言わへん」


 母がすぐに茶碗を出した。


「座り。ご飯あるから」


「いや、奥さん、今日はそんな」


「今日はそんな、やない。今日は特に食べなあかん日や」


 森川は困ったように父を見た。


 父は味噌汁をすすりながら言った。


「食え。腹に力入らんと、謝る声も出ん」


 森川は観念したように座った。


「……いただきます」


 母が大盛りのご飯と味噌汁を置く。


 森川は最初、箸が進まなかった。


 だが、父に「食え」と目で言われ、少しずつ口に運び始めた。


 食卓の横には、不具合記録と対策案が置かれている。


 父は紙を指で押さえた。


「食べながらでええ。森川、昨日の説明、もう1回言うてみろ」


 森川は慌てて箸を置こうとした。


「飯は置かんでええ。食いながら聞く」


「はい」


 森川は味噌汁を飲み、少し息を整えた。


「今回の傷は、仮押さえの時に部品が逃げて、その逃げた先に金属の角があったことで入りました。自分の押さえ方にも問題はありますが、作業者の注意だけで防げる形ではありませんでした」


 父は頷いた。


「続き」


「対策として、部品が逃げる方向の金属角をなくします。逃げる先には樹脂を使います。基準を決めるところと、傷を防ぐところを分けます。あと、押さえる順番を手順書に書きます」


「最初に言うことは?」


 森川は背筋を伸ばした。


「こちらの確認不足で傷をつけてしまい、申し訳ありませんでした」


「うん」


 父は短く言った。


「それでええ」


 森川はほっとしたように息を吐いた。


 母が味噌汁を指さす。


「ほら、冷めるで」


「はい」


 森川はまた箸を取った。


 直人はその光景を見ながら、胸の奥で何かがほどけるのを感じていた。


 失敗した翌朝でも、まず飯を食う。


 失敗した人間を、飯の席から追い出さない。


 それは甘やかしではない。


 人を潰さずに、次へ向かわせるための準備だ。


 朝食が終わると、直人は学校へ行く時間になった。


 工場では、父と森川が不具合記録を整え、母が佐伯と辰巳へ渡す分の紙を封筒に入れている。


 直人はランドセルを背負いながら、父に聞いた。


「佐伯さん、何時に来るん?」


「午後や。学校終わって戻るころには、まだおるかもしれん」


「俺、喋らん方がええんやろ」


「そうやな」


 父は少しだけ表情をやわらげた。


「今日は森川が説明する日や」


「うん」


 直人は頷いた。


 わかっている。


 自分が前に出れば、森川の経験を奪うことになる。


 それでは意味がない。


「行ってきます」


「行ってらっしゃい」


 母の声に送られて、直人は家を出た。


 その日の授業は、やはり頭に入りにくかった。


 黒板の文字を写しながらも、頭の片隅では工場の作業台が浮かんでいる。


 傷のついた部品。


 不具合記録。


 森川の青い顔。


 父の静かな声。


 そして、佐伯がどう受け止めるか。


 昼休み、友達の健一が声をかけてきた。


「直人、今日も野球せえへんの?」


「今日は無理やわ」


「また工場?」


「うん」


「お前、工場の社長みたいやな」


 直人は苦笑した。


「社長ちゃうよ」


「ほな、何なん?」


 直人は少し考えた。


 10歳の自分は何なのか。


 51歳の記憶を持つ、町工場の息子。


 父を救いたい。


 森川を育てたい。


 母の苦労を減らしたい。


 未来の黒瀬精機を変えたい。


 だが、今はただの小学4年生だ。


「工場が好きなだけ」


 直人はそう答えた。


 健一は首を傾げた。


「変わってんな」


「そうかも」


 放課後になると、直人は走り出したい気持ちを抑えながら、早足で家へ向かった。


 角を曲がると、黒瀬精機の前に見覚えのある車が停まっていた。


 大和計測のライトバン。


 まだいる。


 直人の胸が跳ねた。


 工場のシャッターは開いている。


 中から、森川の声が聞こえた。


「……ですので、今回の傷は、自分が押さえ方を間違えたことだけが原因ではなく、部品が逃げる形のまま確認していたことが原因です」


 直人は工場の端にそっと立った。


 佐伯が作業台の前にいる。


 辰巳も隣にいた。


 父は森川の横に立っているが、口は挟んでいない。


 母は少し離れたところで帳面を抱えて見守っていた。


 森川は顔を赤くしながらも、紙を見て説明していた。


「こちらが傷の位置です。絵にしました。実物もこのまま保管しています」


 森川は傷のついた部品を見せた。


 佐伯はすぐには触らず、まず目で確認した。


「触っても?」


 父が頷く。


「お願いします」


 佐伯は慎重に部品を持ち、傷の位置を確認した。


「確かに、ここですね」


「はい」


 森川の声が少し震える。


「こちらの確認不足で傷をつけてしまい、申し訳ありませんでした」


 森川は深く頭を下げた。


 父も頭を下げる。


「申し訳ありません」


 工場の中に、重い沈黙が落ちた。


 直人は息を止めた。


 佐伯はしばらく傷のついた部品を見ていた。


 それから、不具合記録に目を落とした。


「報告が早かったのは助かりました」


 森川が顔を上げる。


 佐伯は続けた。


「傷が出た部品をそのまま残しているのもいい。傷の位置を絵で残したのもいいです」


 父がわずかに息を吐いた。


 佐伯は森川を見た。


「森川さん、でしたね」


「はい」


「怖かったでしょう」


 森川は言葉に詰まった。


「……はい」


「隠そうとは思いませんでしたか」


 森川の喉が動く。


 父は何も言わない。


 母も黙っている。


 森川は少しだけ拳を握った。


「一瞬、思いました」


 直人の胸が痛んだ。


 正直に言った。


 森川は続けた。


「でも、社長が、隠したら終わりやと言いました。俺も、そうやと思いました」


 佐伯は静かに頷いた。


「その方がいい。失敗そのものより、隠される方が困ります」


 辰巳が横から大きく息を吐いた。


「ほんま、それですわ」


 佐伯は不具合記録を指さした。


「対策案を見せてもらえますか」


「はい」


 父が紙を出す。


 そこには、昨日考えた内容が整理されていた。


 部品が逃げる方向の金属角をなくす。


 逃げる先を樹脂にする。


 基準を受ける部分と、傷を防ぐ部分を分ける。


 押さえる順番を手順書に明記する。


 手順を1、2、3で大きく表示する。


 初回は傷ついた部品で動作確認を行い、問題がなければ予備部品で確認する。


 佐伯は紙を読みながら、何度か頷いた。


「この考え方なら進められると思います」


 森川の肩から力が抜けた。


 だが佐伯は、すぐに甘い顔をしなかった。


「ただし、追加で1つお願いします」


「何でしょう」


 父が聞く。


「この不具合記録と対策案を、今回の納品書類に付けてください。こちらの現場にも共有します」


 父は少し驚いた。


「失敗の記録を、ですか」


「はい」


 佐伯は静かに言った。


「これは責めるための紙ではなく、使う側も気をつけるための紙です。どこで傷が出やすいか、現場が知っている方がいい」


 直人は、胸の奥で何かが震えるのを感じた。


 失敗の記録を、納品書類に付ける。


 隠すどころか、客と共有する。


 それは、黒瀬精機にとって大きな1歩だった。


「わかりました」


 父が言った。


「付けます」


 佐伯は続ける。


「部品代についてですが、今回は予備があります。ただ、今後同じことがあれば費用の扱いを決めておいた方がいい」


 母の目が動いた。


 父も頷く。


「今回の分は、うちの確認ミスです。部品代相当を見積もりから引く形でどうでしょうか」


 森川がびくりとする。


 佐伯は少し考えた。


「今回は、金額を引く必要はありません」


「しかし」


「その代わり、不具合記録と対策を残してください。それがこちらにとっても価値があります」


 父は黙った。


 辰巳が言った。


「黒瀬さん、今回は佐伯さんの言う通りにしときましょ。隠さんかったことに価値があるんやと思います」


 父はゆっくり頭を下げた。


「ありがとうございます」


 森川も慌てて頭を下げた。


「ありがとうございます」


 佐伯は森川を見た。


「森川さん」


「はい」


「次に同じ傷を出さないようにすること。それが一番の謝罪です」


「はい」


 森川の返事は、さっきより少しだけ強かった。


 その後、工場では傷ついた部品を使って、対策案の確認が行われた。


 直人は工場の端で見ていた。


 今日は前に出ない。


 これは森川の仕事だ。


 父が仮の樹脂当たりを置く。


 森川が部品を手に取る。


 手順書を見ながら、声に出す。


「1、奥の当たりに軽く当てる。2、右の当たりに寄せる。3、部品が浮いていないか確認。4、押さえを下ろす」


 森川の手はまだ少し硬い。


 だが、昨日より明らかに慎重だった。


 部品は逃げない。


 押さえも強すぎない。


 佐伯が近づいて確認する。


「いいですね。手順を声に出すのは、最初は面倒ですが効果があります」


 父が頷いた。


「慣れるまでは、声出しでやります」


 森川は少し恥ずかしそうだった。


「毎回ですか」


「慣れるまでや」


「はい」


 辰巳が笑った。


「うちの若いのにもやらせますわ。声出し」


 佐伯も少し笑った。


 工場の空気が、ようやく緩んだ。


 直人はそこで初めて息を吐いた。


 傷は消えない。


 失敗も消えない。


 でも、工場の中でその失敗が別のものに変わった。


 責める材料ではなく、手順を強くする材料に。


 森川を潰す重石ではなく、森川を育てる経験に。


 佐伯たちが帰ったあと、森川は作業台の前にしばらく立っていた。


 父が声をかける。


「森川」


「はい」


「よう言うた」


 森川は顔を上げた。


「怒られると思ってました」


「怒ってるで」


「え」


「でも、それとこれは別や。お前は失敗した。けど、隠さんかった。説明した。次の形を考えた。そこは認める」


 森川の目が赤くなった。


「……はい」


 母が横から言った。


「今日はちゃんとご飯食べて帰り。胃が痛かった分、食べなあかん」


 森川は笑いながら、少し鼻をすすった。


「奥さん、それ関係あります?」


「ある」


「あるんですね」


 工場に小さな笑いが起きた。


 直人はその笑いを聞きながら、胸の奥で静かに思った。


 この工場は、前より強くなっている。


 機械が増えたわけではない。


 金が急に増えたわけでもない。


 でも、失敗した時に人を潰さない。


 隠さない。


 紙に残す。


 客と共有する。


 それだけで、工場は強くなる。


 夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 朝、森川さんもご飯を食べた

 佐伯さん、辰巳さん来社

 森川さん、自分の口で傷の説明

 隠そうと一瞬思ったと正直に言った

 佐伯さん、報告の早さを評価

 不具合記録を納品書類に付けることに

 部品代は引かず、記録と対策に価値を認められた

 声出し手順を採用


 そして、少し大きく書いた。


 説明できる失敗は、工場を強くする。

 説明できない失敗は、人を潰す。


 直人は鉛筆を置いた。


 階下から、森川の笑い声が聞こえた。


 どうやら本当に夕飯を食べているらしい。


 父の低い声。


 母の明るい声。


 森川の少し照れた声。


 工場ではなく、食卓から聞こえる音。


 それは、直人にとって機械音と同じくらい大事な音になり始めていた。


 1985年の東大阪の夜は、今日も静かに更けていく。


 黒瀬精機は、傷を1つ出した。


 だが、その傷を隠さなかったことで、未来へ続く新しい線を1本引いた。

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