第12話 傷を隠さない

 大和計測の仕事が正式に決まった翌日、黒瀬精機の工場には、いつもより静かな緊張があった。


 大きな機械が増えたわけではない。


 新しい職人が入ったわけでもない。


 けれど、作業台の上に置かれた小さな部品と図面が、黒瀬精機の空気を変えていた。


 小型検査装置の部品。


 傷をつけてはいけない面。


 測る位置。


 作業者によって変わる力加減。


 交換式の樹脂当たり。


 平面研磨された当たり面。


 測定手順書。


 これまでの黒瀬精機なら、ひとことで言えば「治具を作る仕事」だった。


 だが今は違う。


 治具を作るだけではない。


 使う人が迷わないようにする。


 測る人によって数値がばらつかないようにする。


 傷がついた時、誰のせいかではなく、なぜ傷がついたかを考えられるようにする。


 黒瀬直人は、学校へ行く前に作業台の上を見つめていた。


 置かれているのは、まだ材料と図面だけだ。


 だが、直人にはその先にある未来が見えていた。


 この仕事がうまくいけば、黒瀬精機はただの加工屋ではなくなる。


 現場の困りごとを、測定と手順まで含めて解決する工場になる。


 逆に失敗すれば、大和計測との縁はそこで終わる。


「直人」


 母の美智子が台所から声をかけた。


「学校、遅れるで」


「うん」


 直人はランドセルを背負った。


 行きたくない。


 今日こそ工場に残りたい。


 父の隆夫がどう段取りを組むのか。


 森川修一がどう加工を覚えるのか。


 樹脂当たりをどう作るのか。


 全部見たい。


 だが、直人は10歳の小学4年生だ。


 学校へ行かなければならない。


 ここを誤魔化すと、周りに怪しまれる。


 未来を変えるために、子供でいるべき場面では子供でいなければならない。


「お父ちゃん」


 直人は工場へ声をかけた。


「行ってきます」


 父は作業台から顔を上げた。


「おう。ちゃんと勉強してこい」


「お父ちゃんも、ちゃんと記録してな」


「どっちが親やねん」


 森川が笑った。


「直坊、帰ってきたら先生みたいに確認するんやろ」


「する」


「するんかい」


 工場に小さな笑いが起きた。


 直人はその笑いを背に、家を出た。


 通学路を歩いていても、頭の中は工場のことでいっぱいだった。


 今日は、たぶん最初の加工に入る。


 父なら、まず材料を確認する。


 西野研磨へ出す面と、自分たちで加工する部分を分ける。


 樹脂当たりは大西樹脂からもらった材料で試す。


 森川には、いきなり本番を触らせず、端材で練習させるはずだ。


 そう思いながら歩いていると、友達の健一が後ろから走ってきた。


「直人、おはよう」


「おはよう」


「今日も工場のこと考えてる顔やな」


「そんな顔あるん?」


「ある。難しい顔」


 直人は苦笑した。


 10歳の顔で、51歳の悩みをしているのだから、そう見えても仕方がない。


「なあ、放課後、野球せえへん?」


「今日は無理やわ」


「また工場?」


「うん」


「お前んち、そんなおもろいん?」


「おもろいで」


 直人は即答した。


 健一は少し驚いたように目を丸くした。


「ふうん。俺、工場ってうるさいだけやと思ってた」


「うるさいけど、ちゃんと聞いたら違う音するねん」


「なんやそれ」


「説明難しい」


「やっぱおっさんみたいやな」


 健一は笑いながら走っていった。


 直人も少し笑った。


 おっさん。


 間違ってはいない。


 放課後、直人はいつもより早足で家に戻った。


 工場のシャッターは開いている。


 機械音はしていなかった。


 代わりに、父の低い声と森川の少し震えた声が聞こえた。


 直人は足を止めた。


 何かあった。


 工場に入ると、作業台の前で父と森川が立っていた。


 母も帳面を抱えて奥にいる。


 作業台の上には、小さな樹脂片と、対象部品が置かれていた。


 森川の顔が青い。


「ただいま」


 直人が声をかけると、森川がぎこちなく振り返った。


「お、おかえり」


「どうしたん?」


 父は黙って、小さな部品を指さした。


 直人は作業台に近づく。


 部品の端に、ごく細い線が入っていた。


 傷だ。


 深くはない。


 10歳の目だけなら見落としそうな、小さな傷。


 だが、大和計測が「傷をつけてはいけない」と言った面の近くだった。


 直人の胸が冷えた。


「やってもうたん?」


 森川は小さく頷いた。


「俺が、試しに置いた時に……」


 声が震えていた。


「押さえの位置を見ようとして、ちょっとずれたんや。そんな強くしたつもりはなかったんやけど、角が当たって……」


 父は森川を怒鳴っていなかった。


 それどころか、父の顔は厳しいが、静かだった。


 直人はそこに少しだけ救われた。


 前の人生の父なら、どうだっただろう。


 怒鳴ったかもしれない。


 いや、怒鳴らないにしても、「気をつけろ」で終わっていたかもしれない。


 だが今、父は作業台に白い紙を置いていた。


 そこには、こう書かれている。


 不具合記録

 対象 大和計測部品

 内容 当たり確認中に傷

 作業者 森川

 状況 仮押さえ時、部品がわずかにずれた


 直人はその紙を見た。


 不具合記録。


 また1つ、黒瀬精機に新しい紙が増えている。


「お父ちゃん」


「なんや」


「怒ってへんの?」


 父は森川を見た。


 森川がさらに縮こまる。


「怒ってへんわけやない」


 父は言った。


「けど、怒鳴って傷が消えるわけやない」


 森川が唇を噛んだ。


 父は続ける。


「大事なんは、なんで傷がついたかや。森川が雑やっただけで終わらせたら、次もまた起きる」


 直人は、父の横顔を見た。


 父が変わっている。


 いや、本当は父にもこの考えはあったのかもしれない。


 ただ、前の人生では余裕がなかった。


 納期に追われ、金に追われ、失敗を原因まで分解する時間がなかった。


 その時間を、今は作ろうとしている。


「森川」


 父が言った。


「もう1回、どう置いたかやってみろ。傷ついた部品はもう検査用には使えん。原因確認に使う」


「はい」


 森川は震える手で部品を持った。


 治具の仮台に置く。


 樹脂当たりを添える。


 押さえを動かす。


 その瞬間、部品がほんの少し傾いた。


 金属の角が、当たり面の端に触れる。


 父が言った。


「そこや」


 森川の手が止まった。


「押さえる前に、部品が逃げてる」


「はい」


「樹脂の当たりが柔らかいから、力を逃がす。けど、逃げた先に角がある」


「俺がちゃんと押さえてたら」


「違う」


 父は低く言った。


「ちゃんと押さえなあかん治具は、現場では危ない。忙しい時に、ちゃんとできんことがある。だから治具で止める」


 森川は目を見開いた。


 直人も胸の中で頷いた。


 その通りだ。


 人に注意を求めるだけでは不良は減らない。


 間違えにくい形にする。


 間違えた時に傷が入る前に止まる形にする。


 それが治具の仕事だ。


 父は紙に書き足した。


 原因候補

 仮押さえ時に部品が逃げる

 逃げた先に金属角がある

 作業者の注意だけでは防止不可


 母が帳面を抱えたまま、ぽつりと言った。


「その部品、弁償になるん?」


 工場の空気が少し重くなった。


 森川の顔がさらに青くなる。


 父は部品を見た。


「先方から預かった部品や。連絡せなあかん」


「正直に?」


 森川が小さく聞いた。


 父は森川を見た。


「当たり前や」


「でも……」


「隠したら終わりや」


 父の声は強かった。


「傷を隠して納める工場になったら、もう信用は戻らん」


 直人はその言葉に、息を止めた。


 傷を隠して納める工場になったら、信用は戻らない。


 前の人生で、黒瀬精機はそこまで落ちたことはなかった。


 父も直人も、そこだけは守っていた。


 だが、世の中には隠す工場もあった。


 納期に追われ、金に追われ、バレなければいいと考える。


 1度それをやれば、工場の芯が腐る。


 父はそれを本能で知っている。


「美智子」


 父が母を呼んだ。


「佐伯さんに電話する。辰巳さんにも連絡してもらえるか」


「わかった」


 母はすぐに黒電話へ向かった。


 森川が声を絞り出した。


「社長、俺……」


「謝るのはあとや」


 父は言った。


「今は原因を全部出す。謝る時に、ただすみませんだけではあかん。何が起きて、どう直すかまで言う」


 森川は目を赤くしながら頷いた。


 直人は、父のそばに立った。


「お父ちゃん」


「なんや」


「傷ついた部品、写真は無理でも、絵に残した方がええんちゃう?」


 父がこちらを見る。


「絵?」


「どこに傷がついたか。あとで見た時にわかるように」


 森川がすぐに鉛筆を取った。


「俺、描きます」


 父は少し迷ったが、頷いた。


「描け。下手でもええ。場所がわかるように描け」


 森川は紙の端に部品の簡単な絵を描き、傷の位置に印をつけた。


 字は荒い。


 線も歪んでいる。


 だが、必死だった。


 母が電話を終えて戻ってきた。


「佐伯さん、今なら会社にいてはるって。隆夫さんに代わってほしいって」


 父は受話器を取った。


「黒瀬です。お世話になっております。……はい。実は、預かった部品の確認中に、傷をつけてしまいました」


 工場の中が静かになった。


 森川は俯いている。


 直人も息を止めた。


 父は続けた。


「隠さず先にご報告します。傷の位置と状況、原因の仮説は記録しています。部品はそのまま保管しています。……はい。はい。申し訳ありません」


 父の声は落ち着いていた。


 だが、作業着の袖から見える手に力が入っているのが、直人にはわかった。


 怖いのだ。


 仕事がなくなるかもしれない。


 信用を失うかもしれない。


 それでも、父は言う。


 隠さない。


「……はい。ありがとうございます。では、明日の午後、辰巳さんと一緒に来ていただけると。はい。それまでに原因と対策案をまとめておきます」


 父は受話器を置いた。


 長い息を吐く。


 森川が恐る恐る顔を上げた。


「なんて……」


「明日、佐伯さんが来る。怒られるかどうかは知らん」


 森川の顔が固まる。


 父は続けた。


「でも、報告が早いのは助かると言うてくれた。部品は予備があるらしい。弁償の話も、まず状況を見てからやそうや」


 森川はその場で膝から崩れそうになった。


 父が肩を掴む。


「気を抜くな。まだ終わってへん」


「はい」


「今日中に対策を考える」


「はい」


 そこからの工場は、いつもと違う熱を帯びた。


 機械は回らない。


 削らない。


 作る前に、考える。


 森川は何度も部品を置き直した。


 父は樹脂当たりの形を変える案を描いた。


 直人は横から見ていた。


 出しゃばりすぎない。


 でも、必要な時だけ言う。


「ここ」


 直人は仮台の角を指さした。


「部品が逃げても、金属に当たらんようにできへん?」


 父はすぐにその場所を見た。


「逃げを作るか」


「金属じゃなくて、こっちも樹脂にするとか」


 森川が言った。


「でも、全部樹脂やと位置が甘くなりません?」


「位置を決めるところと、傷を防ぐところを分ける」


 父が呟いた。


 そして紙に線を引いた。


「基準は硬く。逃げる先は柔らかく。押さえる順番も決める」


 森川が頷く。


「最初に奥へ当てて、次に横、それから押さえる」


「それを手順書に書く」


 母が横から言った。


「紙に順番を大きく書いた方がええんちゃう?」


「順番?」


「1、2、3って。使う人が迷わんように」


 父は少し驚いた顔をした。


 直人も母を見た。


 母は現場の人間ではない。


 だが、だからこそわかることがある。


 初めて見る人が、どこで迷うか。


 説明されないとわからない人が、何を見落とすか。


「それ、ええな」


 父が言った。


 森川も頷いた。


「俺も、その方がわかりやすいです」


 作業台の上に、新しい手順が書かれた。


 1 奥の当たりに軽く当てる

 2 右の当たりに寄せる

 3 部品が浮いていないか確認

 4 押さえを下ろす

 5 無理に入らない時は止める


 直人はその紙を見ながら思った。


 小さな工場が、品質を学んでいる。


 失敗をなかったことにするのではなく、次の形に変えている。


 それは、未来の黒瀬精機に一番足りなかったものかもしれない。


 いや、黒瀬精機だけではない。


 日本のものづくりが強かった時代にも、弱くなっていった時代にも、この差はあった。


 失敗を責めて隠させる組織。


 失敗を記録して強くなる組織。


 どちらへ進むかで、未来は大きく変わる。


 夜、森川は帰る前に深く頭を下げた。


「社長、すみませんでした」


 父は工具を片付けながら言った。


「明日、佐伯さんにも謝れ」


「はい」


「ただし、下向いて謝るだけやなく、原因と対策を自分の口で言え」


 森川の喉が動いた。


「俺が、ですか」


「お前がやったんやろ。お前が一番わかってる」


「……はい」


 森川は震えた声で返事をした。


 直人はその姿を見ていた。


 17歳の森川にとっては、苦しい経験だ。


 だが、これはきっと大きい。


 失敗を隠さず、自分の言葉で説明する。


 それができる職人は、強い。


 未来の森川がそうだった理由を、直人は今、目の前で見ている気がした。


 その夜、直人は未来ノートを開いた。


 今日の出来事を書く。


 大和計測部品に傷

 森川さんが仮押さえ中に発生

 父、怒鳴らず不具合記録を作った

 佐伯さんへ即報告

 傷の位置を絵に残した

 母、手順を1、2、3で書く案

 森川さん、明日自分で説明する


 そして、少し考えてから、大きく書いた。


 傷を隠すと信用が消える。

 傷を記録すると、次の形が見える。


 直人は鉛筆を置いた。


 階下の工場は静かだった。


 だが、作業台の上には、不具合記録と対策案が残っている。


 それは、失敗の紙ではない。


 未来を変えるための紙だ。


 父は、まだ生きている。


 森川は、まだ若い。


 母は、工場の外側から大事な順番を見つけてくれる。


 そして自分は、まだ10歳で、学校へ行かなければならない。


 できることは限られている。


 けれど今日、黒瀬精機は大事なことを覚えた。


 失敗した時に、誰かを潰して終わらせないこと。


 隠さないこと。


 紙に残すこと。


 次に傷をつけない形へ変えること。


 直人はノートを閉じた。


 1985年の東大阪の夜は、今日も静かに油の匂いを含んでいる。


 その匂いの中で、小さな町工場は、失敗を1つ抱えたまま、それでも前へ進もうとしていた。


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