第221話 休めと言うなら

 昼休みが終わる少し前、直人は工場の手洗い場で川村と鉢合わせた。


 川村は手を洗い終えたあと、壁に貼られた紙を見ていた。


 1月に作った感染症対策の注意書きだった。


 発熱や強い咳がある場合は、出勤前に会社へ連絡すること。


 無理に出勤しないこと。


 文字にすれば、それだけの内容だ。


「どうした?」


「社長、ちょっと聞いていいですか」


「うん」


「これ、休んだ日はどうなるんです?」


 直人も紙を見る。


「給料の話?」


「はい。有休が残ってる人はそれ使えばいいんでしょうけど、残ってない人もいるじゃないですか」


 川村は言いにくそうにしているわけではなかった。


 ただ、自分のことだけを聞いている顔でもない。


「昼飯の時にそんな話になった?」


「なりました。会社から来るなって言われても、給料減るんやったら、ちょっとぐらいの熱なら出る人もおるんちゃうかって」


「誰が言うてた?」


「それ、名前要ります?」


「いや、要らんな」


 直人は苦笑した。


 聞き方を間違えた。


「その話、森川には?」


「まだです」


「分かった。ええところに気づいてくれたわ」


 川村は壁の紙を指した。


「休めって書くなら、休めるようにしとかんとあかんのちゃうかなって」


「その通りやと思う」


 答えながら、直人は自分で書かせた注意書きをもう1度読んだ。


 無理に出勤しないこと。


 簡単に書いてある。


 だが、1日休めばその分の給料が減る人間にとって、それは簡単な話ではなかった。


          ◇


「そこまで会社持ちにするん?」


 事務所へ戻って話すと、美智子は最初から財布の側を見た。


「まだそこまで言うてへん」


「直人の顔が言うてる」


「そんな顔してる?」


「してる」


 佐野が笑いをこらえながら、給与関係のファイルを机へ出した。


「まず今の扱いを整理しましょうか」


「お願い」


 通常の有給休暇。


 欠勤。


 会社都合の休業。


 病気による休み。


 似ているようで、給与計算では同じではない。


 直人は制度名を増やしたいわけではなかった。


 知りたいのは1つだけだった。


「会社が『今日は来んといてくれ』って言うた時に、本人の給料がそのまま減る仕組みやったら、どうなる?」


「無理して来る人は出るやろな」


 美智子が即答した。


「特に家の支払い多い人はな。有休残ってへんかったら、熱ぐらいなら黙る人おると思うで」


「そこやな」


 直人は椅子の背にもたれた。


 今後どうなるかは知っている。


 だが、2020年2月17日の黒瀬精機で、数か月先の制度まで完成させる必要はなかった。


 今ある問題だけ決めればいい。


「会社が感染症対策で出勤を控えてもらった場合だけ、通常の有休と別に休めるようにするのはどう?」


「何日?」


「そこを計算したい」


 美智子が電卓を引き寄せた。


「最初から5日とか10日とか決めるんやなくて?」


「先に決めたら、払えるかどうか分からんやろ」


「珍しく順番ええやん」


「いつも悪いみたいに言うな」


「未来のことになると先走る時あるやろ」


 直人は返事をしなかった。


 否定できなかったからだ。


 佐野が従業員数と給与データを確認し、全員が同じ日数を取得した場合の概算を出していく。


 1日。


 3日。


 5日。


 会社全体で見れば、当然それなりの額になる。


 だが、払えない額ではなかった。


「5日までならどう?」


 直人が聞いた。


 美智子は電卓の数字を見直した。


「今の黒瀬なら払える。ただし、全員が5日使って、それで終わりとは限らんで」


「分かってる。せやから最初の5日だけ」


「使える条件を決めんとあかん」


 佐野が言った。


「本人が『体調悪いです』と言っただけで自動的に特別扱いにするのか、会社が出勤を控えるよう指示した場合だけにするのか」


「後者やな」


 直人は答えた。


「会社が来んといてくれって言うたのに、その分の給料は出ません、では休めん」


「発熱何度以上、と決めます?」


「決めすぎん方がええと思う。熱がなくても咳がひどい場合あるし、逆もある」


「じゃあ、判断する人が必要ですね」


「俺と森川でええかな」


 美智子が首を振った。


「それやったら、同じ症状でも直人と森川さんで判断変わるで」


「……それもそうやな」


「最低限の目安だけ決めとき。診断するんやなくて、電話してもらう目安」


 佐野が紙へ書いていく。


 発熱。


 強い咳。


 強い倦怠感。


 同居家族を含め、感染症が疑われる事情がある場合。


 それを見た直人は、最後の1行を加えた。


 《判断に迷う場合も、出勤する前に連絡すること》


「これぐらいやな」


「病名は?」


「会社では決めへん。俺ら医者ちゃうから」


 美智子が頷いた。


「それは絶対そうしとき。変に『コロナやと思う』とか言うたら話ややこしなる」


「うん」


 佐野が別の紙へ制度の骨格をまとめた。


 感染症対策として会社が出勤を控えるよう求めた場合、通常の有給休暇とは別に最大5日間の特別休暇とする。


 その間の給与は通常勤務時と同額。


 期間は当面。


 必要があれば見直す。


「これなら分かりやすいですね」


「『当面』が一番曖昧やけどな」


 美智子が言う。


「今、終わる日決められへんから仕方ない」


 直人は紙を見た。


 未来を知っている自分だけなら、もっと先まで決められる。


 だが、会社の制度は予言で作るものではない。


 今いる人間が納得できて、会社が実際に守れる約束にしなければ意味がなかった。


          ◇


 翌18日。


 朝礼は、いつもより5分だけ長くなった。


 直人はA4の紙を手にしていた。


「この前から、熱とか咳があったら工場へ来る前に電話してくれってお願いしてるけど、1個抜けてたことがありました」


 何人かが直人を見る。


「休んだ日の給料です」


 空気が少し変わった。


 やはり気になっていたのだろう。


「会社から『今日は出勤せんといてください』とお願いした場合、普通の有休とは別に、最大5日まで特別休暇にします。その5日は給料を減らしません」


 村井が手を挙げた。


「自分で風邪やと思って休んだ場合は?」


「そこは今まで通り。ただし、感染症の可能性がある症状なら、自己判断で工場へ来る前に電話してください。会社側で出勤を控えてもらうことになったら、この扱いにします」


「家族が熱出した場合は?」


「それも電話で相談。家族が熱出したら全員自動的に休み、までは今の段階では決めません」


 森川が横から補足する。


「大事なんは、隠して出てこんことです。朝になって身体おかしいと思ったら、機械動かす前に電話してください」


 山岸が紙を見る。


「5日使い切ったら?」


「その時の状況で改めて決めます。今ここで10日、20日まで約束して、あとから会社が守れませんでした、にはしたくないんで」


 川村が聞いた。


「使わんかったら消えるんですよね」


「消える。買い取りもない」


「ですよね」


「そこで残念そうな顔すんな」


 工場に軽く笑いが起きた。


 直人は笑いが収まるのを待ってから続けた。


「使わんで済むのが一番です。それと、会社は病院ちゃうから、誰が何の病気かをこっちで決めることはしません。病名を当てるための制度やなくて、具合悪い人が給料を心配して無理に機械の前へ立たんで済むようにするためのもんです」


 それで説明は終わった。


 森川がいつもの朝礼へ戻し、各自が持ち場へ散っていく。


 旋盤の主軸が回り、コンプレッサーが低く唸り始めた。


 壁には新しい紙が1枚増えた。


 それだけだった。


          ◇


 2月19日。


 昼前。


 森川が事務所へ入ってきた。


「社長、ちょっとええですか」


「何?」


「昨日の休みの件ですけど、欠員出た時の組み替えも一緒に見直した方がええと思います」


 直人は椅子を回した。


「なんで?」


「5日休めるようにしたら、ほんまに5日おらん可能性があるからです」


 その通りだった。


 制度を作れば、それで人が守れるわけではない。


 休ませるなら、休んでも回る側を作らなければならない。


「今の表、持ってる?」


「あります」


 森川が折った紙を出した。


 1月に作った、欠員が出た時の作業振り分けだった。


 誰がどの機械を扱えるか。


 誰なら検査を代われるか。


 誰が休むと、その日のうちに止まる仕事は何か。


 空欄もまだ残っている。


「宮田が休んだら?」


 直人が聞いた。


「定番品なら村井へ振れます。村井の仕事の一部は川村へ。ただ、補修品が重なった日は山岸さんにも頼むことになります」


「村井が休んだら?」


「そこがちょっときついです。川村ができる品物は増えてますけど、全部ではないです」


「無理に全部覚えさせんでええよ」


「分かってます」


 森川は表の空欄を指した。


「ここだけです。止まったら納期に直結する仕事だけ、もう1人できるようにしたい」


「それなら賛成」


「第2工場も使います?」


 直人はすぐに答えなかった。


「今から人を分ける?」


「いや、まだそこまでは。ただ、もし分けるなら誰をどっちへ置くかだけ決めとかんと、その日に考えることになります」


「それは決めとこう」


 直人は別の紙を引き寄せた。


「ただし、第1工場の半分を第2へ持っていくみたいな綺麗な分け方は無理やで。機械も仕事も違う」


「分かってます。人だけ半分にしても意味ないです」


「誰と誰を離したら、片方で何が残るか。それで見よう」


「はい」


 2人で名前と機械を書き始めた。


 誰を第2工場へ移せば、第1工場で何ができなくなるのか。


 第2工場でできる仕事は何か。


 検査はどうするか。


 材料をどちらへ置くか。


 工具を共用している仕事は何か。


 書き始めると、簡単には半分にできないことがよく分かった。


「これ、今日決め切る必要ないな」


 直人が言う。


「ですね。むしろ今適当に決めたら危ないです」


「今週中に森川と村井で叩き台作って。実際に移すんやなくて、移す必要が出た時の案だけ」


「分かりました」


 森川は紙を持って工場へ戻った。


 直人はその背中を見送った。


 何も起きていないうちに決める。


 だが、決めすぎない。


 最近、その加減ばかり考えている気がした。


          ◇


 2月21日。


 夕方。


 田端が集荷に来た。


 荷物を積みながら、壁の新しい紙に気づく。


「何これ。特別休暇?」


「感染症対策。会社から休んでくれって言うた場合だけ、5日までは給料減らさんことにした」


「よう出すなあ」


「出したい金ちゃうで」


「そらそうやろけど」


 田端は荷札を確認しながら、少し考えた。


「うちやったら難しいな。運転手1人休んだら、その便そのものが消える日あるから」


「会社によって違うわな」


「黒瀬みたいに横へ振られへん」


「せやけど、熱ある運転手に無理して乗ってもらうんも怖いやろ」


「それはもっと怖い」


 田端は即答した。


「事故したら荷物どころちゃうし、途中で動けんようなっても終わる」


「何日分も給料出すのが無理なら、それ以外のやり方考えたらええんちゃう」


「例えば?」


「そこは田端さんとこの仕事と金見な分からん。俺が決めたらあかんやつや」


「珍しく逃げたな」


「人んとこの会社の金まで勝手に使えるか」


 田端が笑った。


「そらそうや」


 荷台の扉が閉まった。


「でも、何も決めてへんのは確かやな。帰ったら嫁と話すわ」


「それがええと思う」


 田端のトラックが出ていく。


 直人は工場へ戻った。


          ◇


 壁には、A4の紙が2枚並んでいた。


 1枚は、体調がおかしければ出勤前に連絡すること。


 もう1枚は、会社が出勤を控えるよう求めた場合の休暇について。


 まだ誰も使っていない。


 使われないまま終わるなら、それでいい。


 直人はそう思った。


 制度を作った翌日に誰かが熱を出すわけでも、用意したものが都合よくすぐ役立つわけでもない。


 工場では森川と村井が、機械の横で欠員時の表を見ていた。


 川村も呼ばれ、自分が代われる仕事と、まだ1人では任せられない仕事を確認している。


 その向こうでは、いつもの品物が削られていた。


 会社は止まっていない。


 だからこそ、止まった時の話ができる。


 直人は壁の紙から目を離し、自分の机へ戻った。


 今やるべきことは、未来を当てることではなかった。


 休めと言った時に、本当に休める会社にしておくことだった。


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