第215話 夏だけ順番を変える

「山岸さん、それ続きは明日の朝にしましょう」


 2018年7月24日。


 午後1時50分。


 森川の声で、汎用旋盤の回転が止まった。


 黒瀬精機の工場では朝から換気扇と扇風機が回り続けている。それでも、壁に掛けた温度計は39度の少し手前まで上がっていた。


 シャッターの外から入ってくる空気も熱い。


 機械を動かせば、さらに熱が増える。


 山岸はチャックから手を離し、首へ掛けていたタオルで額を拭った。


「あと二本やで」


「納期は明日の午後です」


「朝やったら三十分もあれば終わる」


「なら、なおさら朝でええでしょう」


 山岸は加工票を見る。


 少し考えたあと、素直に頷いた。


「ほな、今日はここまでにするわ」


 直人は事務所から出てきたところだった。


「何かあった?」


「さっき同じところを測り直したんです」


 森川が答えた。


 山岸が横から口を挟む。


「数字間違えたんちゃうぞ。一回読んで、工具置いたあと、念のためもう一回測っただけや」


「同じ数字やったん?」


「同じや」


「それでも気になった?」


「普段なら一回で頭に入る。今日は一瞬、自分で読んだ数字が合ってたか分からんようになった」


 直人は山岸の顔を見る。


 頬が赤い。


 汗も多い。


 受け答えは普段通りだが、いつもの山岸なら自分で気にしないところを気にしている。


「森川、今日はこのあと急ぎある?」


「人がずっと付く仕事はありません」


「なら、午後の手作業は切ろう」


「そうします」


 森川は予定表を見る。


「宮田さん、この一個が終わったら今日は難しい加工入れません。川村も新しい段取りは明日の朝に回す」


「分かりました」


 宮田が返事をする。


 川村も、


「明日の朝一で準備しておきます」


 と加工票を取り直した。


 一方で、村井のNC旋盤はそのまま動いている。


 長いサイクルの途中で、次の測定までまだ時間がある。


「NCも止めます?」


 川村が聞いた。


 森川は機械を見た。


「止める理由がないやつは回す。ただし、測定や補正で人が付く時間になったら一回切る」


「分かりました」


 全部止めるわけではない。


 人が長く集中する仕事だけ、暑い時間帯から外す。


 この日の黒瀬精機は、それで午後を回すことになった。


          ◇


 午後3時。


 工場の中はまだ暑かった。


「これ、明日も同じやろ」


 美智子が冷蔵庫から麦茶を出しながら言った。


「予報見る限りはな」


「明後日もやで」


「分かってる」


「今日だけ仕事ずらして終わり、やったら意味ないで」


 直人は森川を見る。


 森川も同じことを考えていたらしい。


「今週だけでも、加工順変えましょうか」


「どう変える?」


「朝に人が付く仕事を寄せます」


 森川は予定表を指した。


「山岸さんの汎用。宮田さんの一品物。村井が川村へ新しい段取り教える仕事。測定回数が多い品物もできれば午前」


「午後は?」


「長く自動で回せるNC品。材料準備。出荷準備。翌日の段取りで、機械を回さなくてもできるところ」


「今週の納期で組める?」


「組めます」


 森川は少し考えてから付け加えた。


「ただ、午後に絶対やらなあかん急ぎが来たら、その時は別です」


「そこは客とも相談やな」


「はい」


 直人は予定表を見る。


 始業時刻も終業時刻も変えない。


 残業を増やすわけでもない。


 同じ一日の中で、仕事を置く場所だけ変える。


「明日からやろう」


「分かりました」


「それと、暑さを温度計だけで見てええんかな」


 森川が壁を見る。


「俺もそれ気になってました」


「野口さんに聞くか」


「道具屋に?」


「現場向けの暑さ見るやつ、扱ってるかもしれん」


「ついでに冷やせるもんも聞いてください」


「スポットクーラー?」


「買うかどうかは別です。置けるか知りたいです」


 直人は美智子を見る。


「値段も先に聞くから」


「まだ何も言うてへん」


「顔に書いてあった」


「便利な顔やな」


          ◇


 翌朝。


 黒瀬精機の予定表は、いつもと少し違う並びになっていた。


 山岸の補修品。


 宮田の一品物。


 川村が村井と組む新規段取り。


 それらが午前へ集められている。


 山岸は8時台で前日の残り二本を仕上げた。


「昨日の続き、問題なかった?」


 直人が聞く。


「ない。朝やったら楽やな」


「寸法も?」


「森川に渡した」


 森川は測定記録を確認済みだった。


「問題なしです」


 昨日、無理に二本を終わらせても同じ納期だった。


 朝へ回したことで遅れた仕事はない。


 午前10時を過ぎた頃、野口工具店の野口がやってきた。


「電話で暑い暑い言うから、倒れたんか思ったわ」


「倒れる前に呼んだんや」


「それが普通や」


 野口は箱を一つ持っていた。


「これ、暑さ指数計」


 川村が近くから覗く。


「普通の温度計と何が違うんですか」


「気温だけちゃう。湿度とか、周りから受ける熱も含めて見る目安や」


「この数字が何度になったら仕事止めるんです?」


「数字だけで一律に決めん方がええ」


 野口は即答した。


「軽い仕事と、動き回る仕事で身体への負担ちゃうやろ。服装も違う。朝からその暑さの中におるか、急に入ったかでも違う」


「じゃあ何に使うんです?」


「昨日より危ないとか、朝と午後でどれだけ変わるとか、休憩増やす判断材料には使える」


 森川が受け取った。


「本工場と第二で一台ずつ欲しいですね」


「最初から二台買うん?」


 直人が聞く。


「第二工場の方が狭い分、熱こもります。山岸さんが向こう入る日もある」


「確かに」


 野口がもう一冊、カタログを開いた。


「あと頼まれてたスポットクーラー」


「工場全体は無理やろ?」


「一台や二台で全部冷やそう思うなら無理。冷たい風出す反対側から熱い空気も出る」


 森川がカタログを見る。


「機械の横へ一台ずつ置くより、休憩場所に一台置いた方がええですかね」


「俺ならそっちから試すな」


「排熱は?」


「外へ出せる位置に置く。中へ吐いたら、冷やしながら同じ工場暖めることになる」


「それは嫌やな」


「嫌どころか意味分からんで」


 直人は工場の一角を見る。


 シャッター横なら排熱用のダクトを外へ出せる。


 加工機からも離れている。


「森川、あそこどう?」


「椅子二つ置いても通路塞ぎません」


「まず一台入れてみるか」


 美智子が事務所から顔を出した。


「値段聞いた?」


「これから」


「順番だけは覚えたな」


 野口が笑う。


「社長、信用ないな」


「長年の実績です」


「オカンまで乗らんでええから」


          ◇


 暑さ指数計は、その日のうちに本工場へ一台入れた。


 第二工場用も手配する。


 スポットクーラーは翌日に届いた。


 排熱ダクトを外へ逃がし、機械を冷やすのではなく、休憩へ入った人間が身体を冷やす場所にした。


 椅子は二脚。


 水分を置く小さな台。


 それだけだった。


 森川は新しい大きな管理表を作らなかった。


 朝、暑さ指数を確認する。


 昼にも見る。


 午後に上がれば、予定表を見ながら休憩を回す。


 人が付く加工はできるだけ午前へ寄せる。


 納期や急ぎで午後に必要なら、短く区切る。


 ルールはそれだけにした。


          ◇


 一週間後。


 7月31日。


 午後1時半。


 村井のNC旋盤が二台動いている。


 一台は長い加工サイクルの量産品。


 もう一台は午前中に段取りを終えた品物だった。


 山岸の汎用旋盤は止まっている。


 宮田は加工ではなく、翌日の一品物に使う工具を確認していた。


 川村は材料置場で、翌朝使う丸棒のタグと加工票を照合している。


「川村、その材料いつ使う?」


 森川が聞く。


「明日の朝一です」


「切るところまで今日やっとく?」


 川村は少し考えた。


「長さだけ確認して、切断は明日の方がいいですか。今やらないと間に合わない仕事じゃないです」


「それで」


「はい」


 午後2時前。


 暑さ指数計の表示を森川が確認する。


「山岸さん、先に休憩入ってください」


「今日はもう機械回してへんで」


「機械回してなくても暑いもんは暑いでしょう」


「そらそうや」


 山岸が冷風の出る場所へ向かう。


 入れ替わるように、先に休憩していた宮田が戻ってきた。


「次、俺行ってきます」


 川村が森川へ声を掛ける。


「十五分で戻って」


「はい」


 工場内で全員が同時に休むわけではない。


 仕事の切れ目を見て順番に入る。


          ◇


 8月3日。


 美智子が一週間分の勤怠を見ていた。


「残業、増えてへんな」


「ほんま?」


 直人が横から覗く。


「先週とほぼ一緒。暑さ対策で仕事後ろへ溜めた感じもないわ」


 森川も予定表を持ってくる。


「納期遅れもなしです」


「加工量落ちてない?」


「多少、午後にやらなくなった仕事はあります。ただ、朝へ回した分で吸収できてます」


「なら、このまま夏の間は続けよう」


「そうします」


「第二は?」


「指数計は置きました。あと、スポットクーラーもう一台欲しいです」


「一台目、使えてる?」


「使えてます。第二は本工場より狭いんで、午後の休憩場所にあった方がいいです」


「置き場所は見た?」


「排熱を外へ出せる位置まで確認してます」


「なら野口さんに見積もらおう」


 美智子がすぐ言った。


「見積見てから注文やで」


「そこはもう覚えた」


「やっとやな」


「何年社長やってると思ってんねん」


「六年」


「即答せんでええ」


 森川が予定表を持ったまま笑った。


          ◇


 8月中旬。


 暑い日はまだ続いていた。


 黒瀬精機では、朝の工場音が以前より少し増えた。


 山岸は早い時間から汎用旋盤を回す。


 宮田も難しい加工を午前へ寄せる。


 村井は長時間動かすNC品を午後へ回せるよう、朝のうちに段取りを終わらせていた。


 川村も、午後になってから新しい仕事へ手を出すことが減った。


 午後2時過ぎ。


 直人が工場へ入る。


「社長、森川さんから休憩入れって言われました」


 冷風の前にいた川村が言った。


「次の測定まで?」


「あと十分ぐらいです。村井さんが機械見てくれてます」


「なら、そのまま休んどき」


 川村の隣の椅子は空いている。


「社長も座ったらどうです?」


「俺は事務所戻るだけや」


「さっきもそれ言って、また工場来てましたよ」


 少し離れたところから宮田が笑った。


「今日は何往復目です?」


「数えてへん」


「作業着、背中まで濡れてますよ」


 直人は自分の肩を見る。


 確かに汗が染みている。


「五分だけ借りるわ」


「どうぞ」


 直人が空いた椅子へ座ると、冷風が作業着の胸元へ入った。


 工場の奥では、村井のNC旋盤が一定の音で回り続けている。


 山岸の汎用旋盤は、この日の仕事を午前中に終えて止まっていた。


 宮田は翌朝使う工具をケースへ戻し、川村は冷えた水を飲んでいる。


 壁の暑さ指数計は、朝より高い数字を表示していた。


 五分後。


 直人が立ち上がる。


「川村、もうちょい休んどけよ」


「俺は十五分って言われてます」


「ほな守っとき」


「社長は五分でいいんですか」


「事務所はここより涼しい」


「それならいいです」


 直人は工場を出た。


 背後では、午後に回した二台のNCだけが変わらない音を立てていた。




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