第209話 そのマイクロは正しいか
「20.01です」
2016年6月。
森川の声を聞いて、直人は作業台の上に置かれたゲージブロックを見た。
刻印は《20.00》。
「もう一回」
「やってます」
「ゼロは?」
「合ってます」
森川はマイクロメータの測定面を拭き、ゼロを確認した。それからもう一度、20ミリのゲージブロックを挟む。
ラチェットをゆっくり回す。
「……20.01です」
工場の機械音が、急に遠くなった気がした。
横で見ていた宮田が、別のマイクロメータをケースから出す。
「貸してください」
同じゲージブロックを測った。
「こっちは20.00」
「もう一回」
「20.00です」
直人は古い方のマイクロメータを手に取った。
外見に異常はない。
落とした痕も見当たらない。
ゼロ位置も合っている。
それでも、20ミリのところでは0.01ミリ大きく出ていた。
「森川。これ、普段どこで使ってる?」
「第二工場です。加工途中の確認が多いです」
「完成品の最終判定は?」
森川は少し考えた。
「高田包装の品物には使ってません。本工場へ戻して、こっちのマイクロで見てます」
「それ、確実?」
「高田さんのガイドは俺が最終で見てますから」
「ほな、まずそこは大丈夫か」
直人は息を吐いた。
「このマイクロは使用停止。勝手に調整せんと、点検に出そ」
「分かりました」
森川がケースを閉じる。
川村亮太が、不思議そうに聞いた。
「ゼロ合ってるのに駄目なんですか?」
山岸が先に答えた。
「見たやろ」
「はい。でも、ゼロが合ってたら途中も合ってると思ってました」
「俺も若い頃はそう思ってたわ」
山岸はゲージブロックを指した。
「0んとこ合うてても、10、20で同じとは限らん」
川村は古いマイクロメータを見る。
「じゃあ、毎日ゼロだけ見ても分からないズレがある?」
「あるから、今日はこれやってんねん」
直人が言った。
「ただし、このゲージブロックで俺らがやるのは校正そのものやない。黒瀬の中で、決めた基準から外れてへんか確認するための検証や」
「校正は?」
「基準にするゲージブロックの方を、外でちゃんと校正してもらう」
作業台の端には、届いたばかりの書類が置いてあった。
ゲージブロックに付属する、JCSS標章の付いた校正証明書。
黒瀬精機で測定器を確認するための基準が、その先で国家計量標準へつながっていることを示す資料だった。
直人にとって、測定器を確認するという考え方自体は新しくない。
黒瀬では昔から、使う前のゼロ確認や測定面の状態を見てきた。
測定方法を揃えたこともある。
協力先へ測定器を用意してもらい、基準片を測った記録を出してもらったこともあった。
問題は、その先だった。
自分たちが基準にしているものは、何を根拠に正しいと言えるのか。
その説明を、黒瀬自身が求められた。
◇
発端は3日前だった。
高田包装から届いた取引先調査の追加項目に、こんな記載があった。
《製品判定に使用する測定機器について、校正または検証の方法、および国家標準へのトレーサビリティを確認できる資料》
直人は読んだ瞬間、意味は分かった。
分かったからこそ、適当な回答はできなかった。
「高田さん向けのマイクロ、ゼロ見て使ってます――だけでは足らんな」
佐野が頷いた。
「そのゼロが何を基準に正しいのか、と聞かれたら説明できません」
「昔、山根さんとこには基準片で確認してもらったけど、黒瀬自身の基準器がどこにつながってるかまでは整理してへん」
「資料もないですね」
「ほな、そこやな」
高田包装へ電話して要求範囲だけ確認した。
工場にある測定器を一律に全部外部校正へ出せ、という内容ではなかった。
高田包装向け製品の合否に使う測定器について、何を基準に管理しているか説明できればいい。
加工途中で使う測定器についても、製品品質へ影響するものは適切に管理する。
ただ、すべてを同じ頻度、同じ方法で扱う必要はない。
直人はその日のうちに野口工具店へ相談した。
「測定器全部、外へ校正出すんは現実的ちゃうやろ?」
『台数にもよりますけど、普通は基準器を持って社内確認する方法もありますよ』
「その基準器が正しいって、どう示す?」
『校正証明書付きにします。客先から国家標準まで求められてるなら、JCSS対応の校正を付けられるものにした方が説明しやすいですね』
「マイクロ見るならゲージブロック?」
『用途としては合ってます。ただ、何点で確認するか、どこまでの精度が必要かは御社で決めてください。高いやつ買えば全部解決、ではないです』
「オカンが横で聞いてたら喜びそうな言葉やな」
『また設備買うんですか?』
「買わへんわ」
そうして選んだ基準器が、今日届いた。
◇
「次、こっち見ましょう」
森川が本工場で使っている0〜25ミリのマイクロメータを持ってきた。
高田包装向けの部品で、最終判定にも使っているものだ。
「いきなり測らんといて」
佐野が止める。
「まだ?」
「証明書とゲージブロックの番号を合わせます」
「はい」
森川が素直に引いた。
「さっきより扱い慎重になったな」
直人が言う。
「20.01見たあとですからね」
「分かる」
佐野が証明書と番号を照合し、記録する。
届いてすぐの基準器は測定場所へ置いてあり、工場内の温度になじませていた。
測定面を拭く。
手で長く握り込まない。
確認するマイクロメータ側も汚れや傷がないかを見る。
「ゼロ、問題なし」
森川が言った。
「じゃあ5からいきます」
5ミリ。
問題なし。
10ミリ。
問題なし。
20ミリ。
表示は20.00。
「もう一回」
「20.00」
位置を変えて確認しても、大きなずれは出なかった。
「こっちは大丈夫そうやな」
「決めた確認点では問題なしです」
佐野が結果を書き込む。
直人はその言い方に頷いた。
「『絶対正しい』ちゃうもんな」
「はい。確認した範囲で基準内、です」
「佐野、そういう言い方どこで覚えたん?」
「直人さんたちが何年も図面で揉めるの見てたら覚えます」
「教育環境悪いなあ」
「おかげさまで」
森川が笑った。
宮田が棚からもう1本持ってくる。
「これは?」
「同じ範囲です」
「用途は?」
「本工場で加工途中に使ってます」
「ほな、同じように見とこ」
確認すると、こちらも大きな問題はなかった。
山岸が古いマイクロメータのケースを指した。
「結局あれだけ外れたん?」
「今見た範囲ではな」
「第二工場のほかのも見た方がええな」
「うん。ただ、全部同じ管理にするとは限らんで」
「何で?」
「使い方違うから」
直人は測定器棚を見る。
ノギス。
マイクロメータ。
ダイヤルゲージ。
深さを測るもの。
用途も要求精度も違う。
それらを全部「年1回」でまとめれば管理表は作りやすい。
だが、道具の使われ方まで同じになるわけではない。
「高田さんの最終判定に使うマイクロは、客へ説明できる形にする。ほかも製品の良否判断に使うなら必要な管理はする。ただ、加工途中の目安で使うやつまで全部同じ頻度で外へ出す、とかはせん」
「使う頻度も違いますしね」
森川が言った。
「第二工場のやつなんか、毎日使う時もあれば何日もケースの中です」
「落とした時は?」
川村が聞く。
「その時点で止める」
森川の返事は早かった。
「見た目が大丈夫でも?」
「基準器で確認してから使う。怪しかったら外へ出す」
「分かりました」
「あと、自分で落として黙っとくなよ」
「そんなことしませんよ」
「ならええ」
山岸が横から口を挟んだ。
「落としたら、まず顔に出るから分かるけどな」
「山岸さんも落としたことあるんですか?」
「あるで」
「あるんですか?」
「長いこと仕事してたらあるわ。せやから落としたあと黙って使う方があかんねん」
川村は妙に納得した顔で頷いた。
◇
問題は、最初に外れた1本だった。
森川が第二工場の記録を確認する。
「このマイクロ、仕上げ前の確認には使ってますけど、客先提出用の検査記録を取る時には使ってないです」
「どの仕事?」
「山岸さんと村井が第二工場で回してる小口が中心です」
「高田包装は?」
「なし」
「一式で受けてる包装機の部品は?」
「最終は本工場で測ってます」
宮田が聞いた。
「加工途中で0.01ずれてたら、仕上げ寸法に影響してへん?」
「途中でこれが大きく表示してたなら、実物は表示より小さい可能性ありますよね」
森川が答える。
「ただ、仕上げ後は別の測定器で見てます。そこで寸法外れてたら止まってるはずです」
「その記録、見れる?」
直人が聞いた。
「あります」
直近でそのマイクロを使った可能性のある仕事を数件に絞った。
完成検査の記録を確認する。
不良として処理したもの。
作り直したもの。
客へ出したもの。
第二工場の途中測定値まで全品分が残っているわけではない。しかし最終判定は別の測定器で行われており、完成検査で寸法外れが見逃された形跡はなかった。
「少なくとも、これだけ見て『過去の品物全部怪しい』にはならんな」
直人が言う。
「はい。ただ、いつから20ミリ側でずれてたかは分かりません」
「そこは分からんまま?」
「分解して原因分かっても、いつからまでは出ないと思います」
「なら『分からん』で残そ」
森川が直人を見る。
「記録に?」
「うん。今日の確認で20ミリ側に0.01の差が出た。使用停止。最終判定には使ってないことを確認。そこまで」
「原因推定は?」
「点検先から返ってきてからでええ。今ここで『たぶん摩耗』って書いたら、それが事実みたいになる」
「分かりました」
佐野が紙へ書き込んだ。
余計な結論は付けなかった。
◇
高田包装へ提出した資料は、厚い冊子にはならなかった。
JCSS標章付きの校正証明書。
その基準器を使って実施した社内検証の記録。
高田包装向け最終判定に使うマイクロメータの識別番号。
異常や落下があった場合の使用停止と再確認。
基準から外れた時には、その測定器で判定した製品への影響を確認すること。
校正・検証の周期は固定の数字を先に置かず、使用頻度、メーカーの推奨、確認結果の履歴を見ながら決める。
「これで出します」
佐野が言った。
「お願いします」
「高田さんの返事待ちます?」
「資料は出す。でも返事来るまで工場止める必要はない。判定に使うマイクロはもう確認できてるから、その運用で続けよ」
「はい」
そこで仕事へ戻った。
顧客から「合格です」と言われるのを待って、全員で喜ぶようなことはしなかった。
森川は測定器をケースへ戻し、宮田は加工へ戻る。
川村は第二工場へ持っていく測定器を山岸と確認した。
直人も溜まっている見積へ戻った。
夕方。
第二工場へ行くと、問題のマイクロメータがあった場所だけ空いていた。
ケースごと点検へ出している。
その隣には、別のマイクロメータが置かれていた。
山岸が旋盤から顔を上げる。
「探し物?」
「いや。空いたなと思って」
「あれ無いと不便やで」
「戻ってくるまでそれで頼む」
「確認済み?」
「森川が見た」
「ならええ」
山岸はそれ以上何も言わず、加工へ戻った。
直人は作業台に置かれたマイクロメータを見た。
昨日までなら、ゼロが合い、測るたびに同じ数字が出れば、それで仕事はできた。
今も、その基本は変わらない。
ただ、その数字を客へ「正しい」と説明するとき、黒瀬はもう一段先まで答えられる。
何を基準に確認したのか。
その基準は、どこにつながっているのか。
そして外れていたら、どうするのか。
「直人さん」
山岸が旋盤の向こうから言った。
「見てるだけやったら邪魔やで」
「今どくわ」
「社長になってもそこ変わらんな」
「余計なお世話や」
本工場へ戻ろうとしたところで、川村が追いかけてきた。
「社長」
「どうした?」
「さっきの20.01のマイクロ、もしゲージブロック買ってなかったら、ずっと分からなかったんですかね」
直人は少し考えた。
「別の品物測って気づいたかもしれんし、誰かが違和感持ったかもしれん。分からん」
「そうですよね」
「でも、分からんかった可能性もある」
川村が空いた場所を見る。
「ちょっと怖いですね」
「測る仕事って、そういうもんやろ」
「数字出るから、正しいと思ってました」
「数字が出る機械ほど怖い時あるで」
直人は笑った。
「せやから疑うための基準を置くんや」
川村は頷き、第二工場へ戻った。
作業台では別のマイクロメータが使われている。
見た目だけなら、昨日までと何も変わらない。
だが、その数字の後ろには、昨日までなかった根拠が一つ増えていた。
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YouTubeショート動画作ってみました。
https://youtube.com/shorts/PuXoPWXXbH0?si=prvIVaJtMMBjvuGi
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