繭水晶2
噴き出た血液が壁まで飛び、床の血溜まりが広がる。白夜は肉の裂けた腕を反対の腕で庇い、奥歯を噛んだ。
結晶に、さきほどまでなかった亀裂が入っていた。その裂け目から、悪魔のそれのような禍々しい腕が伸びていた。鋭利な爪の先から、白夜から削り取った血液が滴る。
裂け目はみるみるうちに拡大し、こじ開けるようにして身体を押し出してくる不気味な姿が、少しずつ顔を覗かせていた。
「相良、外まで走れ」
「はい」
潮がうなずくと同時に、イヴィルの身体が一気に外へと溢れ出てくる。
潮と白夜は外を目指しながら、濁流のごとく押し寄せてくるイヴィルの巨体から距離をとり走った。
背後から伸びてくる、焦げた枝のような長い脚。それはスーパーの備品を薙ぎ倒しながら、二人を引き裂かんと迫ってくる。
外に出ると、真昼の陽光が目を刺した。怯む余裕もなく、イヴィルは店のガラスを突き破って転がり出てきた。
「携帯持ってるな? モニターやれ!」
「モ、モニター? うわあっ」
潮が悲鳴を上げる。首根っこを掴まれたかと思えば、人間とは思えない膂力で空中に放り投げられた。
部下の扱いがあまりにも雑である。
地上から十メートル以上浮き上がった身体をひねって白夜を見やると、彼女の手元から黒い何かが飛び出した。
それは粒子の嵐を纏って一瞬にして姿を変え、人が乗れるほど大きな鳥の姿になって、一直線に潮に向かってくる。
潮が目を丸くしてその鳥の名前を口にした。
「ウインディ!」
ウインディは研究室によって人工的に生み出された特殊なイヴィルだ。自在に姿を変えることのできる、戦闘班の頼もしい相棒として、常に任務に同行している。
落下する潮の身体を受け止めたウインディはその場で滞空し、潮は体勢を整えるとポケットからスマホを取り出した。
モニターをやれ、とは、おそらく動画で記録を残せという意味だ。新種のイヴィルが出たときには、研究室にまわすデータを残さなくてはならない。
スマホを横向きに持ち、録画の赤いボタンを押す。少し遠かったので、ズームの倍率を合わせた。
イヴィルの脚は六本。その中心に、鬼灯のように垂れ下がった頭部がある。見た目は巨大な蜘蛛に近い印象だった。
白い結晶もさることながら、このイヴィルも目にしたことがない。結晶から生まれるという生態も聞き憶えがなかった。
イヴィルから突き出される鋭利な脚をスピアで弾きながら、白夜は眉を寄せた。
グレード4相当の硬度。硬いな。
心の中で呟く。
しかしその攻撃は単調だ。長い脚を振り回し、手数で相手を追い詰める。毒はない。もしあれば、傷口からとうに全身にまわっている。
核はおおかた頭部だろうが、しかし──。
白夜は目を細めると、アンカーを頭部めがけて放った。菱形の先端部は的を目前にして、突然がぱりと口を開けた頭部の牙に食い止められ停止する。
イヴィルが力を込めるとアンカーが軋み、その結晶は砕け散った。
「なるほど」
堅牢な身体に、ブラッドセルの結晶をも噛み砕く咬合力。簡易的に生み出したアンカーではあったが、それなりの耐久力はあったはずだ。さきのカリキリの刃尾に当てられた程度では、傷もつかない。
接近戦は不利。
無闇に懐に飛び込むべきじゃないな。
イヴィルはブレーキの壊れた列車のように白夜を追い詰め、気がつけば商店街から少し離れた、二車線幅の通りに出ていた。
イヴィルは勢いを落とし、その場で数秒立ち止まると、威嚇するように脚を強く踏み鳴らす。潮はウインディの上からそれを眺め、違和感に眉を寄せた。
──なぜ止まる?
まるでスタミナ切れでも起こしたみたいだ。手負いといえるほどのダメージは与えられていないのに。
白夜はイヴィルから距離をとると、頭上でスマホを構えている潮を見上げた。不安そうにこちらを見つめる瞳と目が合う。声が届かないこの距離で、唇を動かした。
──"見ていろ"
潮に読唇術の心得はなかったが、その唇の動きを追う。
──"ブラッドセルは、やろうと思えばなんだってできる"
潮が息を呑んだ。
大きく跳躍したイヴィルが、頭部の牙を剥き出しにして白夜に飛びかかったのだ。
あの巨体であんなに高く跳べるのか。
隕石のように迫り来るイヴィルの黒い影。
白夜はグローブの指先を咥えて手を引き抜くと、腕を伸ばして親指と中指を強く擦り合わせた。ぱちん、と軽快な音が鳴ると同時に、白夜のまわりにブラッドセルの黒い粒子が立ち昇る。
潮は思わず身を乗り出した。目に見えるほど濃度の高いブラッドセルの粒子群を、彼女は今、人為的に引き起こした。
雷雲のようにほとばしるプラズマを孕む黒い霧。その中から、六本のアンカーが飛び出した。アンカーはイヴィルの頭部ではなく脚を絡めとり、道路の両側に建つマンションの壁面に突き刺さった。
跳び上がったまま空中で四肢を縛り上げられ、宙吊りになったイヴィルが身をよじる。しかし蹴るべき面に脚が届かず、その場でじたばたと滑稽に暴れ回ることしかできなかった。
──アンカーを内部破壊の導線ではなく、捕縛に使うなんて。そもそも複数のアンカーを生み出すことすら、卓越したコントロール能力が必要な絶技なのに。
潮は唾を飲み込み、顛末を見守る。
白夜はマンションの壁面を足場にし、イヴィルの真上まで跳び上がった。左手のスピアをイヴィルの頭部めがけて勢いよく投げる。
大きな口が開いて、その喉奥に煌めく心臓が垣間見えた。牙がスピアの刃を食い止めた瞬間、白夜の口角がわずかに上がった。
イヴィルの身体が、背後から巨大な杭に貫かれる。
潮は信じられない気持ちでそれを見つめた。
杭は白夜が生み出した粒子群から伸びており、二十メートル以上ある規模のニードルが、イヴィルの背面から身体の中心を穿ち、喉奥を貫いて外に向かって伸びていた。
イヴィルの長い脚が力なく垂れ下がり、一切の挙動が消えた。
戦闘の区切りを感じ取ったウインディが白夜の傍に降り立つ。潮は強張った表情でその身体を下りた。
白夜がグローブを右手にはめ直し、ウインディに手を差し出す。大きな鳥の身体はスライムのようにかたちを歪め、トカゲの姿にまで身体を縮めると、白夜の袖口からするりと中へ身を隠した。
潮が唖然とイヴィルを見上げて言う。
「えぐいですね……。それに、訊きたいことがありすぎるんですが」
「あとで聞くよ。今度こそ処理班呼ばないとな。さっきの現場にもまわしてもらおう」
スマホを取り出した白夜が連絡を取る。
潮はじっとイヴィルの残骸を見つめていた。身体の表面から黒い靄がうすらと立ち昇っているので、間違いなく絶命している。数十分もすれば、この黒い巨体は跡形もなく空気中に溶けるだろう。
そしてまた、次のイヴィルを生み出す糧となる。
「イヴィルが世界から消えることは、あるんでしょうか」
ぽつりと呟いた言葉は、誰に届くこともなく、消えた。
二人がその場を離れたあと、マンションの屋上に現れた人影。眼下で宙吊りになっているイヴィルの骸を見下ろして、至極残念そうなため息を吐いた。
「あちゃあ、磔の刑みたいになってるよ。アロウズにバレてやられちゃったんだね。可哀想だなあ」
女性は明るい巻き髪を指先でねじりながら、顎に指をあて、ううんと可愛らしく唸る。
「でも、なんでバレたんだろ。絶対見つからない場所だと思ったのに……、由紀ねえならわかるかな? 帰ったら報告しないと」
白いオーバーサイズのジャケットを肩から外して着ている女性は一人頷き、軽快な足取りでその場をあとにした。
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