迷子の迷子の仔犬さん
〇お題「犬」の短編です。
その日、三毛猫のミケ田巡査は、交番勤務以来最大の不覚に直面していた。
陽だまり。
煮干し。
昼寝。
本来ならば、午後の三時とは、その三つだけで一日が平和に完結していくはずだった。
ところが、今日に限っては交番の前で、垂れ耳の柴犬の仔犬が大泣きしていた。
「おい、おチビちゃん。
名前とお家は分かるかニャ?」
「わかんない、
わかんないワン……!」
童謡であったなら、ここで犬のおまわりさんが困るところだ。
だが本日の迷子は、犬だった。
そして当直は、猫だった。
「なんで、今日なんだニャ……」
ミケ田は尻尾をぴんと立てたまま、こめかみを押さえた。
しかもこの仔犬、ただの迷子にしては様子がおかしい。
首には頑丈な金属の首輪。
そこから伸びるリードは、仔犬用というより猛獣用のようにぶっとかった。
小さな肉球は泥と草と赤土にまみれ、まるで日本列島を縦に走破してきたかのようである。
濡れた瞳には、飼い主を探す心細さと、何かを成し遂げたものだけが持つ謎の覚悟が宿っていた。
存在がアンバランスであった。
「お前、どこから来たニャ?」
「……クンクン」
仔犬が急に泣き止んだ。
鼻が動く。
耳が立つ。
尻尾が震える。
「この匂い……ご主人様だワン!」
「待つニャ。まずは保護手続きの書類を書くニャ――」
言い終える前に、仔犬は走り出した。
リードを握っていたミケ田巡査も、走り出した。
正確には、引きずられていった。
『にゃああああああっ』という叫びがドップラー効果を伴って。
仔犬は速かった。
魚屋の前を抜けた。
ミケ田は氷の上のイワシと目が合ったが、手を伸ばす暇もなかった。
商店街を抜けた。
道行く買い物客が道を開けた。
――避けないで助けてほしいニャン。
工事現場の足場をくぐった。
作業員が叫んだ。
「猫の警官が、仔犬を追いまわしてる。
連れ去り事案だ。
警察に電話だ―!」
「今まさに、連れ去られているニャーーー!」
善良な市民の通報で幾度となくパトカーに追跡されては、そのたびに振り切っていった。
その間も、仔犬の脳内では、壮大な逃避行が続いていた。
「どこまで行くニャ!」
雨の高速道路。
黒い車。
謎の組織。
お前だけでも逃げろと
荒野。
川。
熊。
そのとき、コタロウの嗅覚に引っかかるものがあった。
――ご主人様は近い。
「こっちだワン!」
仔犬は大きな公園へ飛び込んだ。
中央広場で、青年が一枚のチラシを配っていた。
「すみません。
この犬を見かけませんでしたか。
コタロウっていうんですけど……」
仔犬の尻尾が爆発した。
「ワン!」
「コタロウ!」
青年は泥だらけの仔犬を抱きしめた。
「よかった……!
ずっと探してたんだぞ!」
「ワン! ワンワン!」
一人と一匹は固く抱き合った。
周囲から拍手が起こった。
その後ろでは、ミケ田巡査が芝生に大の字で転がっていた。
制服は原形をとどめず泥だらけ。
帽子はどこかに飛んでいってしまって、ない。
コタロウは青年の腕の中から顔を出し、晴れやかな声で言った。
「ありがとうございますワン」
その言葉には、一片の悪意もなかった。
しかし、ミケ田巡査の耳はぴくりとも動かなかった。
青年がようやくミケ田巡査の姿に気づいた。
「あの……この猫さん、どちらの方なんだい?」
コタロウは首をかしげた。
「わかんないワン」
黒い車とは何だったのか。
謎の組織はどうなったのか。
なぜコタロウは、そもそも迷子になったのか。
再会できたので、すべて些事である。
「バイバイだワン」
コタロウは、尻尾だけをぴくぴく痙攣させているミケ田巡査に、前足を振った。
誰もいなくなった真夜中。
ようやく意識を取り戻したミケ田巡査は、ゆっくりと上半身を起こした。
あたりを見回す。
知らない公園。
知らない道。
知らない匂い。
交番の方角も分からない。
コタロウのことも忘れていた。
なにせ猫なので。
そして、夜空を見上げて力なく呟いた。
「ここはどこなんだニャン」
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