「もう選んでいる」
後悔で目が覚めたことはありますか。
目の前に見覚えのある初老の男が立ち塞がった。
だが、誰だかわからない。
しかし、妙に親近感が沸いている。
昔に会った親族だろうか。
「やあ、こんにちは」
親しげに挨拶してきた。
こちらも挨拶を返す。
昨日からずっと気持ちがグシャグシャにされているから、大事な記憶も飛んでしまったのだろうか。
「話をしたい。時間は……あるよね?」
今日の予定を誰かに話したっけ?
前から決まっていたのは観劇の予約をしたくらい。
観に行く人数は減ったけど。
劇場の近くで前から気になっていた喫茶店で朝食を摘まむところは、さっき起きた時に決めたことだ。
その人が提案してきたのは、行くつもりだった喫茶店だ。
怪しいが、怪しく感じられなかった。
その人はついて来いといった具合に背を向け、さっさと歩き始めた。
モーニングぎりぎりの時間。
店内はマスターと店員のほか、客は僕たちくらい。
店員に案内されたのは窓際のボックス席だった。
「私は、
その人の苗字は僕と同じだった。
やっぱり、思い出せないだけで親戚だったのか。
「
一気に胡散臭くなった。
僕の名前じゃないか。
席を立ちかけた僕を(仮)永瀬川渡が、手で落ち着け、を制した。
珍しい名前で同姓同名だからって理由で跳ねつけてもいいが
……一応、話は聞いてみるか。
「今は、信じなくていい」
「私は、大体50年先の君だ」
信じなくていいんだよね?
どうぞ、続けて。
「今日が、何の日か、覚えてる」
リバイバルで話題になっている演劇を観に行くんだよ。
今回のは50年先でも憶えてるくらいに、良かった?
それとも、駄目だった?
「演目の内容は、もう憶えてない」
じゃあ、何なのさ。
「辛くて、想い出してしまいそうで、あれから何度もリバイバルはあったけど、ずっと観返せなかったからね」
そんな酷いの?
「演目の内容じゃない」
50年後の僕は、僕と目線を外した。
言葉を選ぼうとしてるように見える
「観劇に行かずに、素直になれば良かったと……」
僕の脳裏に昨日の、不愉快な記憶が蘇った。
と同時に、目の前の男を50年後の自分だと、受け入れてしまった。
「50年も経って、別れた彼女とよりを戻したくなったっての?」
店員が驚いてこちらを振り返った。
一度相手を将来の自分だと……
ややこしい。
『僕´』だと思ってしまったら、感情の抑えが聞かなかった。
マスターが店員に、まだ関わるな、という仕草をした。
深呼吸して息を整える。
「家の都合で、いや、相手との結婚が融資の条件だって、だから、今日帰省するって……」
そう、突然過ぎた。
引き止めたかったが、僕に彼女を引き止める材料がないと……
それでも、未練がましく彼女に怒鳴りつけてしまって……
『僕´』は緩やかに首を横に振った。
「彼女は戻らない。いや、戻れない」
意味が分からない。
『僕´』は腕時計を見た。
「今から、40分後。君が演目を観ている最中の時間だ。」
『僕´』は天井を見上げた。
「このころはまだ、特急でも窓を開けられた。暑いときは乗客が窓を開けたりもした」
『僕´』は懐から小さい電卓くらいの大きさのものを取り出した。
発売されたばかりの携帯用のカセットプレイヤーだ。
ずいぶん年季が入っているのが妙だ。
「彼女はホームで電車を待っていた。
特急がホームを通過した。
暑い日で特急の窓が少し開いてた。
窓から携帯用のカセットプレイヤーが……」
『僕´』は一気にまくしたてた。
「……つまり?」
「彼女は戻れない。40分後に事故で亡くなる。その頃、君は観劇を楽しんでる。私は、50年間ずっとじゃないが……」
「時々、間に合ったんじゃないかと……」
「だから、素直になれと?」
そう言われても流石に話が突飛過ぎる。
大体、なぜそれを僕に伝えるんだ。
今、『僕´』はここにいるじゃないか。
なぜ、僕に打ち明けるこの時間で、事故が起こる前に止めに行かないんだ。
「私では、会ったことこともないおじさんを信じて着いていく娘かね?」
「やってみなきゃ……」
「100回」
「?」
「もう試した。何度やっても、結果は同じ」
『僕´』は深くため息をついた。
「それなら、せめてあの頃の私ならば、最後の望みだ」
「……」
彼女が……いなくなる?
本当にもう会えなくなる?
しかし、体は動かない。
つまらない意地が、見栄が、椅子から僕を立たせない。
だが、彼女が亡くなるのを放っても置けない。
「もっと前の時間に戻れば、もっと早く知らせれば。そうだ、昨夜喧嘩別れする前なら、こんな意地になる前に……」
「この時間帯だけなんだよ。私がいられるのは」
「……」
『僕´』はまた腕時計の時間を確かめた。
「私にはもう時間がない。まもなく、君の時間との接点が消える」
「……」
「……君と会話するのも、8回目だ。いつも、同じ反応。一言一句、同じだったよ。」
「また、会おう……」
『僕´』の姿が霧のように消えていった。
さっきまで誰か、いたのだろうか。
僕の前には、食べ終えたモーニングセットと氷入りの水。
向かいには氷入りの水がもう一つ。
誰かいましたっけ、と店員に聞くと、おひとりでしたよ、と教えてくれた。
店員も首をかしげながら食器を下げていった。
向こうでは、店員がマスターに叱られている。
前のお客様のものを片付けておかなかったことについて。
何か、忘れている気がする。
壁時計を見ると、まもなく開場の時間だった。
この演目は、今まで何度も観ている。
気に入ったものは、何度目でも良い。
何度遡っても、人の行動原理はそのままなので、同じ結果しか生みません。
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