第5話
第五話 学校の時間
そのまま、何日かが過ぎた。
学校へ行き、帰ってきて、机を見る。
紙は減らず、猫も動かない。
時間だけが、紙の上を通り過ぎていった。
学校でのことを、僕は数えなかった。
数えようとすると、順番だけが残った。
教室に入る。
席に座る。
ノートを開く。
閉じる。
声があった気もするし、なかった気もする。
確かなのは、僕の話が、そこには置けなかったことだけだった。
家へ戻ると、猫はまだそこにいた。
母は、そのことを確かめなかった。
その夜、話は出てこなかった。
代わりに、口の奥から、腐った水のようなものが上がってきた。
酸っぱくて、汚れていた。
僕の中で、話はもう腐っていた。
それから、僕は話さなくなった。
母は、描き続けた。
僕は、その音を聞き続けた。
キーボードの音。
ペン先が紙を擦る音。
椅子がわずかに軋む音。
僕は、その音を頼りに眠った。
話の代わりに。
キーボードの音は、まだ止まらなかった。
速くもならず、遅くもならない。
ただ、続いていた。
部屋の中では、時間だけが進んでいた。
カーソルの点滅は消えなかった。
消そうと思えば、いつでも消せるはずなのに、母は触れなかった。
指は浮いたまま、わずかに震えていた。
寒いわけではない。
怖いのだと思った。
僕の名前を書いた瞬間に、それが誰かに見つかる気がした。
見つけられて、遅れてやってきた説明を求められる。
なぜ、最初から書かなかったのか。
なぜ、今まで黙っていたのか。
なぜ、あの子が嘘つきと呼ばれたとき、何もしなかったのか。
まだ書かれていない行の向こう側で、言葉たちが順番を待っている気がした。
書かなければ、それらは来ない。
書かなければ、僕はいなかったことになる。
それでも、母は書かなかった。
画面を閉じる音がした。
部屋の明かりが、少しだけ暗くなる。
その暗さは、眠るためのものではなかった。
母は、そのことを確かめなかった。
それからも、母は描き続けた。
僕は、その音を聞き続けた。
小学校を卒業するまで。
夜ごとに、キーボードの音は少し違っていた。
強く打つ日もあった。
触れたかどうか分からないほど浅い日もあった。
僕は、その違いを説明できなかった。
ただ布団の中で、今日は長くなるか、短く終わるかを音で測っていた。
途中で止まる夜があった。
一度止まると、それきり何も鳴らない。
椅子がわずかに軋む。
母が姿勢を変える音がする。
それでも、キーは打たれない。
その沈黙は、考えている時間ではなかった。
何かを避けている時間だった。
時計の秒針だけが、部屋の外で進んでいた。
やがて、小さな溜息のような音がする。
キーボードが閉じられる。
そのあと、ペンが紙に触れる。
描く音は、書く音よりも一定だった。
迷いがないわけではない。
ただ、引き返せない音だった。
線が重なり、削られ、また重ねられる。
僕は、そのリズムを覚えた。
話をしない夜が、増えていった。
それでも、母は描いていた。
僕は、話さないことと、聞かれることが、同じ重さになっていくのを、音で知った。
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