第4話 七回コールドの理由
練習後の部室には、湿った土と汗の匂いが残っていた。
蒼栄学院の野球部員たちは、いつもより長くグラウンドに残っていた。
そのせいか、部室に戻ってきた後も、空気の中に土の匂いが混じっている。
理由は、トンボである。
新監督の初仕事が「グラウンド整備の徹底」だったせいで、部員たちは練習後もしばらく土をならし続けた。
派手さはない。
達成感も薄い。
だが、帰り際のグラウンドは、来た時より少しだけ野球場らしくなっていた。
ほんの少しだけ。
その少しを、私は悪くないと思った。
「監督、これです」
瀬川が部室の机に、一冊のスコアブックを置いた。
表紙には、去年の日付が書かれている。
夏の県大会。
二回戦。
蒼栄学院対北辰実業。
七回コールド。
二対九。
「去年の試合か」
「はい」
瀬川の声は、少し硬かった。
彼女にとっても、忘れたい試合なのだろう。
だが、忘れてはいけない試合でもある。
私はスコアブックを開いた。
一回表。
蒼栄の攻撃。
三者凡退。
一回裏。
北辰実業の攻撃。
ヒット。
犠打。
四球。
タイムリー。
エラー。
犠牲フライ。
二失点。
「初回から崩れているな」
「はい。先発が立ち上がりで捕まりました」
「投手は?」
「三年の三橋先輩です。今年も投手陣の中心です」
瀬川が部室の外に目を向ける。
グラウンドの隅では、三年生の投手らしき選手が後片付けをしていた。
三橋和也。
球速:124km/h
コントロール:C
スタミナ:D
変化球:
カーブ:2
特殊能力:
なし
数字だけなら、極端に悪い投手ではない。
球は速くない。
だが、コントロールはある。
スタミナも一年の藤原より上だ。
それでも、北辰実業には捕まった。
「三橋は、打たれたのか」
「打たれたというより、守備が崩れました」
瀬川はそう言って、スコアブックの一行を指した。
一死一、二塁。
遊ゴロ失策。
私は顔を上げた。
「宮野か」
「はい。去年は一年生でショートでした」
宮野陸。
二年生。
右投右打。
遊撃手。
ミート:E
パワー:F
走力:D
肩力:E
守備:F
捕球:D
特殊能力:
送球E
遊撃手としては、足と肩はある。
守備範囲も悪くない。
だが、捕ってから先が怖い。
「打球は捕ったのか?」
「捕りました。正面寄りのゴロです。ただ、一塁へ悪送球して、その間に二塁走者が帰りました」
送球E。
能力表示の赤い文字が、急に去年の記録と繋がった。
ただの弱点ではない。
実際に点になった弱点だ。
「その後、宮野は?」
「次の回にヒットを打ちました」
「へえ」
私はスコアを追った。
二回表。
宮野、左前安打。
だが、後続が続かず無得点。
二回裏。
北辰、無得点。
三回表。
芳田、二塁打。
その後、凡退。
無得点。
「芳田は打っているな」
「はい。記録を見ると、やっぱり芳田先輩だけは北辰相手にも打てていました」
瀬川の言葉に、私はページをめくる手を止めた。
芳田。
三年生。
主将。
四番。
ミート:C
パワー:B
走力:C
肩力:C
守備:D
捕球:D
特殊能力:
アベレージヒッター
広角打法
チャンスB
数字だけ見れば、弱小校にいる選手ではない。
去年も打っていた。
それでも負けた。
「芳田の前に走者が出ていない」
私は言った。
瀬川は小さく頷く。
「はい。芳田先輩が打つ時、だいたいランナーがいませんでした」
スコアブックは残酷だ。
感情は書かれていない。
悔しさも、焦りも、諦めも、声援もない。
ただ、結果だけが並んでいる。
三者凡退。
二塁打。
凡退。
エラー。
四球。
失点。
その無機質さが、かえって試合の輪郭をはっきりさせていた。
「つまり去年の蒼栄は、芳田に回すまでに攻撃が死んでいた」
「……はい」
「守備では宮野の送球が失点になった」
「はい」
「投手は極端に悪くないが、味方のミスを背負い切れるほどの力はない」
「はい」
瀬川は少しだけ悔しそうな顔をした。
自分が責められているわけではない。
それでも、去年のチームを見ていた人間として、平気ではいられないのだろう。
私はページをめくった。
五回表。
芳田、本塁打。
蒼栄、ようやく一点。
「これは?」
「芳田先輩のソロホームランです」
「やっぱりランナーはいないのか」
「……はい」
私は苦笑した。
芳田が悪いわけではない。
むしろ、芳田は十分すぎるほど仕事をしている。
問題は、その前と後ろだ。
一人の強打者だけでは、野球は勝てない。
六回表。
蒼栄、内野ゴロの間に一点。
二点目。
六回裏。
北辰実業、三得点。
七回裏。
二失点。
コールド成立。
試合終了。
私はスコアブックを閉じなかった。
もう一度、一回から読み返す。
ただ結果を見るのではない。
負け方を見る。
なぜ終わらされたのか。
どこで流れを失ったのか。
誰が悪いのかではなく、何が弱かったのか。
しばらく黙っていると、瀬川が不安そうに聞いた。
「監督」
「なんだ」
「勝てそうですか」
私は答えなかった。
勝てるかどうか。
その問いに、今すぐ軽く頷くほど私は楽観的ではない。
二週間後の相手は、去年七回で蒼栄を終わらせた学校だ。
こちらは監督が変わっただけ。
一億円の通帳があるだけ。
能力が見えるだけ。
まだ、何も積み上げていない。
「瀬川」
「はい」
「勝てるかは分からない」
瀬川は黙った。
「だが、去年と同じ負け方はさせない」
その言葉に、瀬川の目が少しだけ動いた。
私はスコアブックを机に置き、ペンを取った。
白紙のページに、三つ書く。
一、芳田の前に走者を出す。
二、内野の送球ミスを減らす。
三、三橋を一人で崩させない。
「北辰戦までの二週間は、この三つに絞る」
「藤原くんは?」
「使う」
瀬川が少し驚いた顔をした。
「一年生を、ですか?」
「ただし、先発ではない」
藤原は天才だ。
左腕で130km/hを投げる。
スライダーもある。
だが、まだ勝負を知らない。
今の藤原をいきなり北辰実業の先発にするのは、期待ではなく乱暴だ。
「藤原には、短いイニングを投げさせる」
「リリーフですか?」
「ああ。打者一巡は危ない。まずは一回。多くても二回」
「なるほど」
瀬川が言った。
私は思わず彼女を見た。
「今、なるほどって言ったな」
「監督がうつりました」
「早めに直した方がいい」
「監督に言われたくないです」
少しだけ空気が緩んだ。
私は続ける。
「今藤は捕手として使う可能性がある。ただ、先発捕手にするかはまだ決めない」
「一年生バッテリーは危ないですか?」
「危ない」
能力表示だけなら面白い。
藤原と今藤の相性も悪くなさそうだ。
だが、公式戦でもない練習試合とはいえ、相手は北辰実業だ。
しかも、上級生には上級生の積み重ねがある。
一年生を使うことは、誰かを下げることでもある。
そこを雑にやると、チームは簡単に割れる。
「監督って、意外とそういうところ考えるんですね」
「意外と、は余計だ」
「すみません。でも、能力が見えているみたいな顔をしていたので、数字だけで決めるのかと」
私は黙った。
瀬川は冗談のつもりで言ったのだろう。
だが、かなり鋭い。
本当に私は見えている。
能力も。
特殊能力も。
赤い弱点も。
だからこそ、数字だけで決めるのは危ない。
数字が見える人間ほど、数字に騙される。
「瀬川」
「はい」
「選手のことを教えてくれ」
「選手のこと、ですか?」
「能力じゃなくて、人間の方だ」
瀬川は少しだけ目を見開いた。
それから、小さく頷いた。
「分かりました」
彼女はスコアブックを閉じ、別のノートを取り出した。
表紙には、部員名簿、と書かれている。
几帳面な字だった。
「芳田先輩は、口数は多くないです。でも、みんな芳田先輩の言うことは聞きます」
「主将としては?」
「向いていると思います。ただ、自分で背負いすぎます」
「背負いすぎる?」
「自分が打てばいいって、思いすぎています」
私は芳田の表示を思い出した。
チャンスB。
勝負強い選手。
だが、それは責任を背負うことに慣れているという意味でもある。
慣れすぎている可能性もある。
「宮野は?」
「負けず嫌いです。口は少し悪いです。でも、練習はします」
「送球は?」
「本人も気にしています」
それはそうだろう。
去年の北辰戦。
一回裏の悪送球。
あれを忘れられる性格なら、逆に困る。
「三橋は?」
「優しいです」
「投手として、その評価は少し怖いな」
瀬川は苦笑した。
「でも本当に優しいんです。後輩の面倒も見ます。ただ、試合で味方がミスすると、逆に気にしすぎるところがあります」
「自分のせいじゃない失点まで背負うタイプか」
「はい」
これも厄介だ。
優しさは長所だ。
だが、マウンドでは時々、余計な荷物になる。
「藤原は?」
「今日初めてちゃんと見ましたけど、たぶん不器用です」
「だろうな」
「今藤くんは、逆に器用すぎる感じがします」
「分かる」
あの捕手は、目がいい。
言葉も遠慮がない。
藤原の逃げを見抜くのも早かった。
ただ、器用な一年生は嫌われやすい。
自分が正しいことを知っている選手は、間違い方を知らないことがある。
「面白いな」
私が呟くと、瀬川が首をかしげた。
「この状況がですか?」
「ああ」
「去年コールド負けした相手と二週間後に試合で、部員は少なくて、グラウンドも荒れていて、一年生投手は四球持ちなのに?」
「そうだ」
「監督、やっぱり少し変です」
「否定はしない」
私は部員名簿を見た。
三年生四人。
二年生五人。
一年生六人。
十五人。
多くはない。
層も薄い。
弱点も見えている。
だが、全員に役割を与えるには、ちょうどいい人数でもある。
大所帯の強豪なら、埋もれる選手が出る。
だが、蒼栄では一人の弱点がそのままチームの弱点になる。
逆に言えば、一人が変わればチームも変わる。
「明日から、練習を三つに分ける」
私はノートに書いた。
守備班。
出塁班。
投手班。
「守備班は宮野中心。送球を徹底的に見る」
「はい」
「出塁班は芳田の前にランナーを置くための練習。バント、四球、進塁打。派手な打撃は後回し」
「はい」
「投手班は三橋と藤原。三橋は味方のミスの後。藤原は打者を立たせた時のストライク」
瀬川が書き取る手を止めた。
「かなり地味ですね」
「強くなる時は、だいたい地味だ」
私は窓の外を見た。
夕暮れのグラウンドで、宮野が一人、ボールを拾っていた。
さっきまで整備していたはずなのに、今は一塁へ向かって送球練習をしている。
誰に言われたわけでもない。
捕って、投げる。
捕って、投げる。
少し外れる。
顔をしかめる。
また捕って、投げる。
赤い文字。
送球E。
だが、その赤い文字の下で、宮野はまだボールを投げている。
「瀬川」
「はい」
「宮野は、たぶん伸びる」
「送球、悪いんですよ?」
「ああ」
私は言った。
「でも、自分の弱さから目を逸らしていない」
瀬川は何も言わなかった。
ただ、窓の外の宮野を見ていた。
七回コールドの理由は、一つではない。
芳田の前に走者がいなかったこと。
宮野の送球が崩れたこと。
三橋が味方のミスを背負いすぎたこと。
チーム全体が、試合を終わらせない力を持っていなかったこと。
二週間で全部は変わらない。
だが、一つずつなら変えられる。
その夜。
私はスコアブックをもう一度開いた。
二対九。
七回コールド。
蒼栄学院の去年の敗北。
その数字の横に、私は小さく書き足した。
今年は、終わらされない。
そう書いた直後だった。
机の上に置いた明日の練習予定表の一行が、淡く青く光った。
宮野陸。
送球練習。
個別指導。
私は、しばらくその文字から目を離せなかった。
能力が見えることにも、謎の資金にも、少しずつ慣れ始めている。
だが、これはまた別だ。
予定が光っている。
しかも、よりによって宮野。
赤い文字を持つ遊撃手。
「……なるほど」
誰もいない部室で、私はひとり呟いた。
今度は、ただの相槌では済まなさそうだった。
明日の練習予定表は、まだ淡く光っている。
私はしばらく、その青い文字を見つめていた。
【用語メモ】
個別指導:
特定の選手に焦点を当てて行う練習。
弱点の改善や、成長のきっかけになることがある。
送球E:
送球に不安がある状態。
暴投しやすい、送球が浮きやすいなどの弱点として扱う。
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