第3話 強豪への第一歩は、トンボから
練習後。
瀬川のスコアブックには、部員たちの要望がびっしりと並んでいた。
練習球。
バット。
ヘルメット。
キャッチャー防具。
防球ネット。
トンボ。
ラインカー。
石灰。
救急箱。
氷嚢。
テーピング。
プロテイン。
打撃マシン。
ウエイト器具。
そして、遠征用のバス。
「最後のやつは、欲望が少し大きいな」
私が言うと、部員の何人かが気まずそうに目を逸らした。
金があると分かった瞬間、人間は急に夢を語り始める。
悪いことではない。
夢を語れるだけ、このチームはまだ死んでいない。
「監督、本当にこれ全部買うんですか?」
瀬川が不安そうに聞いてきた。
「必要なら買う」
「必要じゃなかったら?」
「買わない」
「意外と現実的ですね」
「金はあるが、無駄遣いする気はない」
私は黒い通帳を軽く叩いた。
野球部にしか使えない謎の大金。
使い道はある。
いくらでもある。
だが、ここで派手な物から買えば、このチームはたぶん勘違いする。
自分たちは強くなった、と。
設備が整っただけで。
新しいバットを持っただけで。
高いマシンを使っただけで。
それは違う。
道具は強くしてくれる。
だが、勝たせてくれるわけではない。
私は瀬川のスコアブックを覗き込み、優先順位を指でなぞった。
「まず注文するのは、トンボ、ラインカー、石灰、ブラシ、レーキ、練習球、救急用品。防球ネットも状態を見て買い替える」
「打撃マシンじゃないんですか?」
部員の一人が言った。
二年生の遊撃手だった。
宮野陸。
二年生。
右投右打。
遊撃手。
ミート:E
パワー:F
走力:D
肩力:E
守備:F
捕球:D
特殊能力:
送球E
さっき目に入った赤い文字の持ち主だ。
遊撃手で送球E。
かなり怖い。
いや、かなりどころではない。
内野の中心に不安が置かれているようなものだ。
ただ、足と肩は悪くない。
素材としては使える。
問題は、送球と、感情が先に出るところだろう。
宮野は腕を組み、少し不満そうな顔をしていた。
「打てなきゃ勝てないと思うんですけど」
「それは正しい」
私が答えると、宮野は少しだけ意外そうな顔をした。
「でも、今のお前たちは、打てないから負けているだけじゃない」
私は荒れた内野を指さした。
「この土で守っている時点で、毎回余計なリスクを背負っている。イレギュラーを運のせいにする前に、運が暴れない場所を作れ」
宮野は黙った。
納得はしていない。
だが、反論もできない。
そういう顔だった。
「グラウンド整備は地味だ。派手さもない。だが、守備のミスを一つ減らす。怪我を一つ減らす。練習の質を少し上げる」
部員たちは静かに聞いている。
「少しでいい。その少しを毎日積む。高校野球で一番怖いのは、才能の差だけじゃない。毎日の差だ」
そこで、芳田が口を開いた。
三年生の四番。
このチームで唯一、現時点ではっきりと戦力と呼べる選手。
「監督」
「なんだ」
「じゃあ、今日は整備からですか」
「そうだ」
「分かりました」
芳田はすぐに帽子を被り直した。
「全員、トンボ持て。足りない分は交代でやるぞ」
その声で、空気が動いた。
さすが主将格だ。
いや、実際に主将なのだろうか。
「瀬川、芳田は主将か?」
「はい。三年生で主将です」
「だろうな」
数字だけでは分からないものがある。
芳田の能力表示は確かに高い。
ミートC、パワーB、広角打法、チャンスB。
だが、今の一声は能力欄には表示されていなかった。
それでも、チームは動いた。
これが主将か。
私は少しだけ、芳田を見る目を改めた。
部員たちは倉庫から古いトンボを引っ張り出す。
持ち手はささくれ、板は歪み、金具は錆びていた。
何本かは、使う前から引退寸前である。
「これはひどいな」
「去年からずっとこれです」
瀬川が苦笑する。
「買い替えようって話は出たんですけど、優先順位が低くて」
「今日から最優先だ」
私はスマホを取り出した。
本当に使えるのかは分からない。
だが、野球部関連なら決済が通ることは確認済みだ。
トンボ、十本。
ラインカー、二台。
石灰。
ブラシ。
レーキ。
防球ネット。
練習球。
救急用品。
注文リストを作りながら、私はグラウンドを見た。
蒼栄学院は私立だ。
校舎は綺麗で、設備も悪くない。
だが、野球部のグラウンドだけは置き去りにされている。
期待されていない部活の空気が、土に染みていた。
まず、それを変える。
「監督」
声をかけてきたのは、藤原だった。
一年生の左腕。
成長タイプ、天才。
そして特殊能力、四球。
「なんだ」
「グラウンド整備って、投手にも関係ありますか」
「ある」
私は即答した。
「マウンドが悪ければ、踏み込みが狂う。踏み込みが狂えば、腕が遅れる。腕が遅れれば、球が抜ける」
藤原の表情が少し変わった。
「お前のチェンジアップが抜けたのは、お前のせいだけじゃないかもしれない」
「……本当ですか」
「全部グラウンドのせいにするなよ」
「はい」
藤原は少しだけ口を尖らせた。
素直なのか、ひねくれているのか、まだ分からない。
今藤が横から言った。
「藤原の場合、マウンドが完璧でも抜けると思いますけど」
「お前、黙ってろ」
「事実だろ」
「うるさい」
この二人は、放っておいても勝手に会話が発生する。
便利ではあるが、騒がしい。
私は今藤にも目を向けた。
捕手。
一年生。
表示だけ見れば、明らかに普通ではない。
選球眼。
粘り打ち。
アベレージヒッター。
捕手なのに、打撃系の特殊能力が並んでいる。
しかも捕球C。
一年生の春にしては、明らかに落ち着いている。
藤原の相棒として使うには、かなり面白い。
ただし、一年生バッテリーをすぐに公式戦で使うのは危うい。
上級生の感情もある。
三年生の夏もある。
チームの空気もある。
能力だけで決めれば簡単だ。
だが、チームは数字の上だけで動いていない。
私はグラウンド整備を始めた部員たちを見ながら、瀬川に聞いた。
「今、部員は何人いる」
「三年生が四人、二年生が五人、一年生が六人です。選手は十五人。マネージャーは私だけです」
「少ないな」
「はい。でも、去年はもっと少なかったです」
「公式戦は?」
「去年の夏は二回戦負けです」
「スコアは?」
瀬川は少しだけ言いにくそうにした。
「二対九。七回コールドでした」
「相手は?」
「北辰実業です」
初めて聞く名前だった。
だが、瀬川の声色で分かる。
蒼栄にとっては、軽い名前ではない。
「強いのか」
「県内では毎年上位に来る学校です。甲子園には届かないけど、ベスト四やベスト八にはよく残ります」
「なるほど」
今度は言ってしまった。
瀬川がこちらを見る。
「また言いましたね」
「今のは必要ななるほどだ」
「必要ななるほど」
瀬川は少し笑ったあと、スコアブックをめくった。
「実は、今年も練習試合が入っています」
「相手は?」
聞く前から、少し嫌な予感はしていた。
瀬川は言った。
「北辰実業です。二週間後に」
部員たちの動きが、一瞬だけ鈍った。
グラウンド整備をしていた宮野の手が止まる。
三年生たちも顔を上げる。
藤原と今藤も、何かを察したように黙った。
去年、七回コールドで負けた相手。
このチームにとって、最初の試金石としては重い。
いや、重すぎる。
だが、悪くない。
弱いチームが自分たちの現在地を知るには、強い相手が必要だ。
「瀬川」
「はい」
「去年のスコアブックは残っているか」
「あります」
「あとで見せてくれ」
「分かりました」
私はグラウンドを見る。
固い土。
古いトンボ。
錆びたベンチ。
時間のない三年生。
勝負を避ける天才左腕。
送球に不安のある二年生遊撃手。
妙に落ち着いた一年生捕手。
そして、二週間後には去年コールド負けした相手。
十分だ。
最初の相手としては、少し厄介なくらいがちょうどいい。
「全員、聞け」
私が声を張ると、部員たちがこちらを見た。
「二週間後、北辰実業と練習試合をする」
誰も騒がなかった。
それだけで分かる。
この名前は、彼らの中にまだ残っている。
「去年の借りを返す、と言いたいところだが」
私は少し間を置いた。
「まずは、自分たちがどれだけ弱いかを確認しに行く」
宮野が顔をしかめた。
「負けに行くってことですか」
「違う」
私は宮野を見た。
「勝ちに行く。ただし、勝てると思い込んでは行かない」
宮野は黙った。
「勘違いするな。弱さを知ることは、負けを認めることじゃない。勝つために必要な現在地を測ることだ」
芳田が静かに頷いた。
その頷きだけで、何人かの部員の表情が変わる。
やはり、このチームは芳田が支えている。
問題は、芳田が引退したあとだ。
その時、蒼栄には何が残るのか。
私はそれを、今から考えなければならない。
「今日は整備を徹底する。明日から基礎練習を組み直す。二週間後の北辰戦で、まず一つだけ目標を立てる」
「目標?」
瀬川が聞いた。
私は言った。
「七回まで試合をする」
部員たちが静まり返った。
去年は七回コールド。
つまり、七回まで試合をしたとは言っても、最後まで戦ったわけではない。
今年は違う。
まず、コールドにされない。
勝つより前に、終わらされない。
それが、今の蒼栄に必要な最初の目標だった。
「甲子園を目指すんじゃないんですか」
宮野が言った。
声には少しだけ棘があった。
私は答えた。
「目指す」
「じゃあ、なんで七回までとか」
「甲子園は、今日のグラウンド整備から繋がっている」
宮野は黙った。
「七回まで試合をすることも、甲子園に繋がっている。内野の送球を一つ安定させることも、藤原が真ん中に一球投げることも、芳田の前に走者を出すことも、全部繋がっている」
私は内野の土を見た。
「大きい目標だけ見ていると、足元の穴で転ぶ」
誰も何も言わなかった。
瀬川が、スコアブックに何かを書き込む。
おそらく、今日の言葉だろう。
私は少し照れくさくなり、咳払いをした。
「というわけで、まずはトンボだ」
そこで空気が少し緩んだ。
芳田が笑い、今藤が肩をすくめ、藤原がしぶしぶトンボを持つ。
宮野は最後まで不満そうだった。
それでも、誰よりも強く土をならし始めた。
その送球Eの遊撃手は、たぶん負けず嫌いなのだろう。
悪くない。
赤い文字は弱点だ。
だが、弱点が見えているなら、手は打てる。
夕方。
蒼栄学院のグラウンドには、いつもより長く土をならす音が響いていた。
カァン、という打球音は少ない。
代わりに、ザッ、ザッ、というトンボの音が続く。
強豪への第一歩としては、あまりに地味だった。
けれど私は、その音を悪くないと思った。
二週間後。
北辰実業。
去年、蒼栄の夏を終わらせた相手。
このチームがどれだけ弱いのか。
そして、どこから変えればいいのか。
それを知るには、ちょうどいい相手だった。
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