第65話:もはや熟年夫婦の空気感。周囲のツッコミすら消失した、公認の日常

第65話:もはや熟年夫婦の空気感。周囲のツッコミすら消失した、公認の日常


「あ、湊くん。ちょっと待って、襟が少し曲がってますよ」


大学の正門へと続く並木道。


初秋の爽やかな風が吹き抜ける中、ひよりが当然のような足取りで俺の前に回り込み、スッと小さな手を伸ばしてきた。


彼女は俺のシャツの襟元を器用に整えると、仕上げと言わんばかりにその胸元をポンポンと優しく叩いた。


「はい、これでよしっ! 今日の湊くんも、すっごく格好いいです!」


「……お前なぁ、だから外でこういうのを自然にやるなって」


「えー? 身だしなみを整えるのは、専属のお隣さんとして当然のサポートですよ?」


ひよりはきゅるんとした瞳でえへへと笑い、何のためらいもなく俺の右腕に自分の腕を絡めてきた。


柔らかな感触が腕に伝わり、洗面台を占拠しているあのフローラル系の甘い香りが、ごく当たり前のように鼻腔を満たす。


以前なら、こんな風に大学の敷地内で堂々と密着されれば、俺は顔を真っ赤にして周囲の目を気にし、必死になって引き剥がそうとしていただろう。


だが、人間の順応性というのは本当に恐ろしいもので。


今や俺は、彼女が腕を絡めてきても歩幅一つ乱すことなく、むしろ彼女が歩きやすいように自然と右腕の角度を固定している自分に気づく。


そして何より、もっと恐ろしい変化は、俺たちではなく『周囲の反応』に起きていた。


「あ、佐倉、白雪ちゃん。おはよう」


前方から、同じ学部の女子学生が数人で歩いてきて、俺たちとすれ違いざまにごく普通に挨拶を交わした。


俺の腕に全力で抱きついているひよりの姿を見ても、彼女たちは眉一つ動かさない。


「おう、おはよう」


「おはようございますっ!」


ひよりが元気よく挨拶を返すと、女子学生たちは「じゃあねー」とだけ言って、何事もなかったかのように通り過ぎていく。


(…………いや、おかしいだろ)


数ヶ月前なら、大学のトップアイドルであるひよりが男と腕を組んで歩いていれば、それだけでキャンパス内に激震が走り、俺は男子学生たちから刺すような嫉妬の視線を浴びていたはずだ。


それが今や、誰もツッコミすら入れてこない。


驚きも、嫉妬も、冷やかしすらも通り越して、完全に『背景』の一部としてスルーされている。


二人の間に流れる「夫婦のような空気」があまりにも完成されすぎていて、周囲も「もはや放置」という扱いになっているのだ。


「よお、お熱いねぇ、熟年夫婦さんよ」


ラウンジのいつもの席に座ると、先に席を取っていた大樹が、手元のスマートフォンから目を離しすらしないで、死んだ魚のような目で呟いた。


「大樹、熟年夫婦ってなんだよ。俺たちはただ、生活利便性を追求した合理的な契約を……」


「はいはい、契約契約。お前それ、まだ言い張るつもりなんだ? ギネス記録でも狙ってんの?」


大樹は深いため息をつき、ようやく俺たちの方を見た。


「あのさぁ、佐倉。お前がいくら『ただの隣人』って言い張っても、お前らから出てるオーラが完全に結婚十何年目の安定感なんだよ。誰も今更『付き合ってんの?』とか聞くわけねーだろ。聞くだけ野暮っていうか、時間の無駄なんだわ」


「そうですよ、大樹くん! 私と湊くんは、もうそういう次元を超越した絆で結ばれてるんです!」


ひよりは俺の腕を抱きしめたまま、誇らしげに胸を張った。


「だろ? だからキャンパスの誰も、お前らに近づこうとしないんだよ。前に無謀にも挑んできた健人だって、この前『あの二人の間に入ったら、物理法則無視して消滅させられそうな気がする』って怯えてたぞ」


「健人のやつ、何言ってんだ……」


俺が呆れて缶コーヒーを口にすると、大樹はニヤニヤしながらカバンからノートを取り出した。


「ま、周囲が完全に放置モードのおかげで、佐倉に無駄な虫がつかないから白雪ちゃん的には大勝利だろ? はい、これ今日の講義の資料な」


「あ、ありがと、大樹くん! 湊くん、これ一緒に見ましょう?」


ひよりはノートを広げ、俺の肩に頭をこつんと預けながら画面を覗き込んできた。


薄暗いラウンジの片隅で、当たり前のように重なる二人の体温。


大樹はそれを見ても、もう「ごちそうさま」すら言わずに、淡々と自分の課題を進めている。


冷やかしすらされないというこの状況は、ある意味で、俺たちが完全に『不可侵の二人』として世界に認められてしまったという証明でもあった。


その日の夜。


202号室のリビングには、いつも通りの穏やかな時間が流れていた。


キッチンに並んだふたつのマグカップ、洗面所のスキンケアボトル、リビング中央の二人掛けソファ。


ひよりはそのソファに深く腰を沈め、俺のパジャマをめくろうとするヨモと戯れながら、小さくあくびをした。


「……なぁ、ひより」


俺は夕飯の片付けを終え、食後の玄米茶を淹れたマグカップをローテーブルに置きながら、ふと思ったことを口にした。


「はい? なんですか、湊くん」


「今日、大学で大樹が言ってただろ。俺たちの空気が、熟年夫婦みたいだって」


「あ、言ってましたね。えへへ、すっごく嬉しい褒め言葉です」


ひよりはクッションを抱きしめながら、蕩けるような笑顔を向けた。


「俺は、ちょっと危機感を覚えてるんだけどな。お前が『私の湊くん』なんて口を滑らせてから、本当に誰も俺たちの関係を疑わなくなった。ただの隣人っていう建前が、周囲の放置によって、完全に事実上の『既成事実』にされてる気がするんだよ」


俺が少し真面目なトーンで告げると、ひよりはソファの上でずるずると動いて、俺の膝の上にコロンと頭を乗せてきた。


いつもの、映画を見る時の鉄板の『膝枕』の体勢だ。


「いいじゃないですか、既成事実。周囲の人が全員、私と湊くんが夫婦だと思ってくれてるなら、私は大歓迎です」


ひよりは俺の膝に頬をすりすりと押し付けながら、上目遣いで俺の瞳をじっと見つめてきた。


「建前なんて、最初から私には必要ありませんでした。私はただ、湊くんの隣にいたくて、私の大好きな湊くんを、誰にも渡したくないだけです。周りが諦めて放置してくれたなら、それこそ私の作戦通りですよ?」


小悪魔のように、だけど酷く一途に俺を支配しようとするお隣さん。


彼女の髪をそっと撫でてやると、ひよりは猫のように気持ちよさそうに目を細めた。


ご近所付き合い。恋人未満。


そんな言葉の殻は、もう周囲の誰も信じていないし、当事者である俺たち自身、とうの昔にその殻の内側で、誰よりも甘い熱を育んでいた。


「……お前の作戦勝ち、か」


俺が深い敗北感と共に、けれどそれ以上の愛おしさを込めて小さく呟くと。


ひよりは俺の手をぎゅっと両手で握りしめ、胸元に引き寄せた。


「はい。これからはもっともっと、堂々と『夫婦以上』の空気を出していきますからね、私の湊くん?」


繋いだ手のひらから、お互いの早鐘を打つ心臓の鼓動が、熱い体温と共に心地よく伝わってくる。


世界から公認され、ツッコミすら消失したこの居心地の良すぎる二人の城で。


俺たちの曖昧な関係は、もう言い訳の余地を一切残さないまま、本物の『運命』へと変わろうとしていた。


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