第64話:溢れ出た本音。過保護すぎるお隣さんが、ついにその口を滑らせる夜

第64話:溢れ出た本音。過保護すぎるお隣さんが、ついにその口を滑らせる夜


大学でのゼミ生・美咲からの相談を鉄壁のガードで弾き返した、あの昼下がりの一件。


アパートへ帰り着き、夜の帳がすっかり下りた202号室のリビングでも、その余韻はかすかに尾を引いていた。


新調したばかりの淡いグレーの二人掛けソファ。


そのふかふかな座面に並んで腰掛け、俺たちは食後の温かいアールグレイをそれぞれのマグカップで啜っていた。


俺の手には無骨なネイビー、ひよりの手には鮮やかな赤。


食器棚から取り出され、今やごく自然にテーブルの上で寄り添うように並ぶふたつのカップが、部屋の薄暗い間接照明に照らされている。


「にゃあ」


ソファの足元では、ヨモが満足げに喉を鳴らしながら、ひよりが脱ぎ捨てたウサギのルームシューズの横で丸くなっていた。


「……なぁ、ひより」


俺は温かい紅茶の湯気の向こう側で、液晶画面をぼんやりと眺めているひよりに声をかけた。


「はい? なんですか、湊くん」


ひよりはマグカップを両手で大切そうに持ったまま、いつも通りのぽわぽわとしたゆるふわな笑顔をこちらに向けてくる。


昼間に見せた、あの他の女子を一切寄せ付けない絶対零度の鉄壁オーラが嘘のような、いつもの無防備な彼女だ。


「昼間のことなんだけどさ。やっぱり、ちょっと過保護すぎないか?」


「過保護……ですか?」


ひよりは不思議そうに小さく首を傾げた。


「そうだよ。美咲はただ、ゼミのレジュメについてアドバイスが欲しかっただけだぞ。それなのにあんな、男の人が入ったら嫌だとか、一分一秒も余裕がないなんて……」


俺が少し困ったように苦笑を交えながら言うと、ひよりはみるみるうちに唇を尖らせて、不満げに頬を膨らませた。


「過保護なんかじゃありません。正当な防衛行動です」


「防衛って、誰から何をだよ」


「湊くんの優しさから、湊くん自身を守るためです! 湊くんは本当に無自覚なんです。あんな風に困っている女の子がいたら、どうせ自分の作業を後回しにしてでも、最後まで丁寧に付き合ってあげちゃうじゃないですか」


ひよりは手に持っていたマグカップをローテーブルにコトリと置くと、ソファの上でずりずりと距離を詰めてきた。


二人掛けのコンパクトなソファだ。


彼女が少し動くだけで、もこもことしたミントグリーンのルームウェアが俺のシャツと擦れ合い、あの甘いフローラル系の香りが一気に間近へと迫ってくる。


「私は、それが心配なんです。湊くんが他の女の子に優しくするたびに、私の知らないところで、湊くんの素敵なところがどんどん誰かに見つかっちゃうみたいで……」


ひよりの大きな瞳が、薄暗い部屋の光を反射して、どこか切なげに潤んで見えた。


「大学の健人くんたちの時だってそうです。男の人たちが湊くんの部屋に上がったら、絶対に私のパジャマや化粧水が見つかって、色々詮索されるに決まってます。そんなの、私たちが築いてきた大切な場所を荒らされるみたいで、絶対に許せません」


彼女の言葉は、熱を帯びていた。


ただのご近所付き合い。食費を浮かせるための合理的な契約関係。


俺がこれまで必死にしがみついてきた建前など、彼女の放つ強烈な独占欲の前では、ただの薄っぺらい紙切れ同然だった。


「……分かってるよ。お前がこの部屋での時間を大事にしてくれてるのも、俺を心配してくれてるのも。だけどな、周囲から見たら本当にバグった距離感だぞ。現に大樹なんて、完全に俺たちを新婚夫婦扱いしていただろ」


俺が照れ隠しにそっぽを向いて、少しぶっきらぼうにそう告げた、その時だった。


「――だって、私の湊くんだもん」


ぽつり、と。


ひよりの口から、驚くほど自然に、そしてあまりにもストレートな言葉が零れ落ちた。


「…………え?」


俺は一瞬、自分の耳を疑った。


心臓がドクンと大きな音を立て、体中の血が一気に駆け巡るような衝撃が走る。


今、こいつはなんて言った?


『私の』、湊くん……?


俺が呆然としたままゆっくりと彼女の方を振り返ると、ひよりは自分の言葉の『ヤバさ』に今更気づいたようで、完全にフリーズしていた。


「あ……」


みるみるうちに、彼女の顔が耳の先、そして首筋まで、夕焼けの空を通り越して真っ赤に染まっていく。


潤んだ瞳が激しく泳ぎ、小さな唇が何かを弁明しようと震えていた。


「い、今のは……そのっ! 違って……! 違うんです、湊くんっ!」


ひよりは慌てて俺のシャツの袖を掴み、必死になって頭を振った。


「何が違うんだよ……」


「ただのご近所さんの意味で……! そう、私がいつもご飯を作ってもらっている、私専用のシェフとしての、その……っ!」


「お前、今完全に『私の』って言っただろ」


俺が顔の熱さを必死に堪えながらジト目で睨みつけると、ひよりはついに言い訳の言葉を失い、「うぅ〜〜〜っ!」と可愛い悲鳴を上げて、ソファに置いてあったピンクのもちもちクッションに顔を完全に埋めてしまった。


クッションに顔を押し付けたまま、足をパタパタとさせて身悶えしている。


完全に、無自覚のまま本音の爆弾を自爆させてしまった形だ。


いつもは小悪魔のように距離を詰めてきて、俺を翻弄するようなセリフを言うくせに、こうして自分の本意ではないタイミングで本音が漏れてしまうと、途端に限界までパニックになる。


そのギャップが、たまらなく愛おしくて、俺の胸の奥を激しく締め付けた。


(……私の、湊くん、か)


その響きが、頭の中で何度も何度もリフレインする。


恋人未満。夫婦以上。


どれだけ言葉の殻で誤魔化そうとしても、彼女の心の中にある答えは、もうとっくに決まっていたのだ。


そして、それを聞いた俺の胸の奥に広がったのは、困惑ではなく――爆発しそうなほどの、強烈な幸福感だった。


俺は小さく息を吐くと、クッションに顔を埋めて固まっている彼女の肩に、そっと手を置いた。


「……ひより」


「……な、なんですか。もう私、今夜はここから顔を出せません……」


クッション越しに、くぐもった声が返ってくる。


「顔出せよ。お前が口を滑らせたんだから、ちゃんと俺の顔を見て責任取れ」


「無理です、恥ずかしすぎて死んじゃいます……っ」


「ほら、出せって」


俺が少し力を込めてクッションを引くと、ひよりは抵抗しきれず、観念したようにゆっくりと顔を上げた。


髪が少し乱れ、上気した肌と、涙目で俺を見つめてくるその表情は、反則的なまでに可愛らしかった。


「……もう、湊くんのいじわる。忘れてくださいって言ったのに……」


「忘れるわけないだろ。……お前さ、そこまで俺のことを独り占めしたいなら」


俺は彼女のシャツの袖を掴んでいる小さな手を、自分の大きな手で上からそっと包み込んだ。


「ご近所付き合いなんて、安い言い訳で満足するなよ」


「――――っ!?」


ひよりの瞳が、驚きで大きく見開かれた。


いつも防戦一方で、ただの契約だと言い張ってきた俺からの、初めての踏み込んだ一言。


俺だって、この曖昧な関係のまま、彼女の温もりを失う恐怖に怯え続けるのはもう嫌なのだ。


「……あ」


ひよりの唇が微かに震え、真っ赤な顔のまま、今度はとろけるような、熱を帯びた瞳で俺をじっと見つめ返してきた。


繋いだ手のひらから、お互いの早鐘を打つ心臓の鼓動が、熱い体温と共にダイレクトに伝わってくる。


薄暗いリビングの空気は、もうただの隣人同士のものとは完全にかけ離れていた。


溢れ出た彼女の本音と、それに応えようとする俺の小さな覚悟。


俺たちの『恋人未満、夫婦以上』の奇妙な同居生活は、彼女の可愛すぎる失言をきっかけに、いよいよ決定的な破滅――いや、本当の始まりへと向かって、加速し始めていた。


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