第14話 リオの過去と左眼の誓い


 ギルマス執務室の分厚いオーク材の扉が、カタン、と重い音を立てて閉まった。

 さっきまでソファの端で、借りてきた猫みたいにガチガチに緊張して座り込んでいた少年の気配が、完全に廊下の奥へと消えていく。


「……ふぅ」


 私は、誰にも聞こえないような小さなため息をこぼし、マホガニーのデスクに乱雑に積み上げられた書類の山へと身体を投げ出した。

 冷え切った紅茶の残りを一息に飲み干す。上等な茶葉のはずなのに、今の私にはただの苦い泥水みたいに感じられた。


 ヒムロ・スイ。

 異世界からやってきたという、あの得体の知れない少年。

 複数の系統を無視した、まるでキメラのような歪なスキルの羅列。どう考えても普通の「見習い剣士」の枠に収まるような存在じゃない。

 もし私がギルドマスターとしての冷徹な判断を下すなら、あんな危険分子、今すぐ捕縛して王都の査問委員会にでも引き渡すべきなんだろう。エルモアの街の安全を考えるなら、それが一番手っ取り早くて確実な「処理」の仕方だ。


「……だけど、な」


 私は、自らの右目を斜めに覆う黒い革の眼帯を、指先でそっと撫でた。

 眼帯の下にあるのは、ぽっかりと空いた空洞と、醜く引きつったケロイド状の傷痕だけだ。


 『星見のリオ』。

 それが、冒険者としての私の二つ名だ。

 私には昔から、他人の『本質』を視覚的に見抜く、一種の直感のような特異な才能があった。

 目の前の人間が、本音では何を恐れ、どこに己の魂の核を置いているのか。どれだけ言葉で嘘をついて取り繕おうとも、私にはその人間の核となる「星」の形が、手に取るように分かってしまう。

 だからこそ、私はあの少年の言葉が「嘘」であると即座に見抜けた。


『……俺、そんな立派な人間じゃないです。たまたま、運が良かっただけで……』


 あいつはそう言って俯いた。

 だが、私の左目は捉えていた。あいつの魂が、死の恐怖で今にも千切れそうなくらい激しく震えていたことを。そしてその震えを、無理やり「誰かを守るため」という一点の光で繋ぎ止めている、その危うい本質を。


(……まったく。あいつに、そっくりなんだよ)


 自嘲気味な笑みが漏れる。

 私はゆっくりと椅子から立ち上がり、執務室の奥にある鍵のかかった大きな引き出しの前に立った。

 分厚いファイルの裏に隠すようにして押し込んである、古びた木箱。

 蓋を開けると、カビ臭いような、それでいてどこか懐かしい古い紙の匂いが漂ってくる。

 私はその中から、一枚の色褪せた写真を取り出した。

 魔法の光画機で撮影された、もう十年も前の古い写真。


 そこに写っているのは、十人の若者たち。

 最強のパーティー、『銀翼の盟約』。

 写真の中央で、身の丈ほどもある大剣を肩に担ぎ、静かな、けれど熱を帯びた瞳で前を見据えているのはカグラ・ケイ。

 その隣で、不遜な笑みを浮かべているのが二十五歳の私だ。

 そして、写真の端で、サイズが合っていない重そうな鎧を着て、所在なげに立っているひとりの少年。


 ティオ。

 当時十六歳だった、見習い剣士。

 あいつはいつも、私の『星見』の眼が嫌いになるくらい、分かりやすく怯えていた。


 写真の端が、私の握る力でクシャリと音を立てる。

 目を閉じれば、今でも鮮明に蘇ってくる。

 十年前。あの凍てつくような北方大陸の古代遺跡で、作戦決行の前夜に私たちが交わした会話が。



     ◆ ◆ ◆



 ――作戦の前夜。

 北方大陸の冷たい風を遮るテントの中で、私たちは焚き火を囲んでいた。


『おいおいティオ、さっきからお前の歯の根が合わない音がうるさくて、全然休まらねえぞ。少しは落ち着けって』


 大盾使いのガレスが、豪快に笑いながらティオの背中をバンバンと叩いた。

 ティオは研ぎかけの剣を握ったまま、焚き火の光に照らされた真っ青な顔を上げて、引きつった笑いを浮かべた。


『す、すみませんガレスさん。これ、武者震いですよ! 相手はレベル250の化け物竜なんだから、気合入れないと……! 大丈夫です、僕だって立派な銀翼の盟約の一員ですから!』


 虚勢を張るティオの言葉を遮るように、布を擦るくぐもった音が響いた。

 黙々と自分の大剣を手入れしていたカグラが、静かに顔を上げたのだ。


『……無理はするな。怖い時は前に出なくていい』

『え……カグラ、さん?』

『俺の背中に隠れていればいい。お前の分は……俺が斬る』


 口数は少ない。表情も冷静そのものだった。だが、その低く静かな声の奥底には、仲間を絶対に死なせないという、確かな熱情が込められていた。

 その隣で、魔法使いのセリアもクスクスと笑いながらティオに温かいスープの入った木杯を渡す。


『そうよティオ。一番後ろには私の結界もあるんだから。無理して怪我しないでね』

『……カグラさん、セリアさん。ありがとうございます。でも、僕もちゃんと戦えますから! いざって時は、皆さんをしっかり守ってみせますよ!』


 ガクガクと震えながらも、ティオは必死に胸を張ってみせた。

 仲間たちはそんなティオを見て、「頼もしいじゃねえか」「無理すんなよ」と温かく笑い合っていた。


 だが、その輪から少し離れた場所で腕を組んでいた私は、鼻で笑ってその会話を切り捨てた。


『バカバカしい。臆病者の虚勢ね』

『え……リオ、さん』

『いい、ティオ? 戦場に恐怖なんて無用なの。私を見てなさい。私の『星見』の眼と完璧な指揮があれば、誰一人傷つくことなくあの化け物を解体できる。あんたは私の言う通りに安全な場所に突っ立っていればいいのよ。変な自己犠牲なんて、ただの作戦の邪魔だわ』


 当時の私は、本気でそう思っていた。

 SSS級候補。無敵の指揮官。恐怖など、低レベルな冒険者の抱く雑音に過ぎない。

 私の『星見』の眼は、ティオの核にある本質をはっきりと捉えていた。本当は痛いのも死ぬのも嫌でたまらないくせに、孤児だった自分を拾ってくれた仲間たちを失うことだけは、自分の死以上に恐れている。

 私は、その不器用で歪な本質を「弱い」と切り捨て、見下していたのだ。


 ――そして、翌日の戦闘。

 北方大陸の永久凍土の奥深く。何百年も前に滅びた古代遺跡の最下層。

 そこに巣食っていた未知の特殊個体、『闇影龍ナーグランド』。


 漆黒の鱗に覆われ、巨大な蝙蝠のような翼を広げたその姿は、ただ呼吸をするだけで周囲の空間を凍りつかせるような圧倒的なプレッシャーを放っていた。

 だが、戦闘の序盤から中盤にかけては、完全にこちらのペースだった。


『カグラ、右翼に回り込め! ガレスは中央でヘイトを稼げ! セリア、氷結魔法で奴の足元を縫いつけろ!』


 私の指示が飛ぶたびに、パーティーの十人が一つの生き物のように連動して動く。

 カグラの巨大な剣がナーグランドの硬い鱗を削り飛ばし、セリアの魔法が敵の機動力を殺す。敵の反撃の予備動作は、すべて私の『星見』の眼が事前に捉え、完璧な回避と防御の指示を出していた。


『ギャアアアアアアッ!』


 黒き竜が苦悶の咆哮を上げる。

 いける。勝てる。

 私の指揮は完璧だ。どんな未知の化け物だろうと、ただの巨大なトカゲにすぎない。

 この首を王都に持ち帰れば、私たちは名実ともに大陸最強のパーティーになれる。

 その盲目的な野心と慢心が、私の目を完全に曇らせたのだ。


 戦闘開始から三十分が経過した頃。

 ナーグランドが大きく後方に跳躍し、その巨大な胸郭を、肺が張り裂けんばかりに異様なほど膨らませた。

 私は、それまで集めていたドラゴンの行動パターンと魔力の流れから、それを『前方への直線的な闇属性ブレス』の予備動作だと完全に決めつけていた。


『大技が来るわ! カグラ、両翼の前衛はそのまま散開! 後衛と中衛の六人は前進して中央に集まれ! ガレスとセリアで多重防御障壁を展開! ブレスを防いだ直後に、カウンターで総攻撃をかける!』


 私の声が、凍りついた空洞に響き渡る。

 仲間たちは、私を完全に信頼していた。一糸乱れぬ動きで、私の指示通りに中衛と後衛――ティオ、ガレス、セリアを含む六人が、私の指示した中央のポイントへと密集するように前進してきた。


 だが。

 ナーグランドの大きく見開かれた黄金の瞳とバチリと視線が交差した瞬間、私の背筋に、氷柱を脳天から突き刺されたような絶対的な死の悪寒が走った。


 違う。

 直線のブレスじゃない。

 奴の胸の奥で膨れ上がっていたのは、ただの魔力じゃない。空間そのものを極限まで圧縮して弾けさせる、回避不能の『全方位広域殲滅魔法』だった。

 私が「前進して集まれ」と命じてしまったがために、回避力の低い後衛組を含む六人の仲間が、完全にその魔法の『即死圏内』に密集する形になっていた。

 そして、前線で指揮をとっていた私自身も、その爆心地のど真ん中に立っていたのだ。


「――待っ! 違う、戻れ!! 散開しろ!!」


 私が血を吐くような声で叫んだ時には、もう全てが遅かった。

 ナーグランドが、カッと顎を開く。

 音が、消えた。

 光すらも吸い込むような漆黒の圧縮空間が、竜の口から放たれ、私たちの頭上で爆発的に膨れ上がった。


『――だめだ!! リオさんっ!!』


 信じられない声がした。

 誰よりも後ろで震えていたはずのティオが、裂けるような悲鳴を上げて、私の前に飛び出してきたのだ。

 涙と鼻水でぐちゃぐちゃの顔。

 死にたくないと、痛いのは嫌だと、あれほど震えていた臆病な少年が。

 自分の小さな鉄の盾を、私を飲み込もうとする漆黒の奔流へと真っ向から叩きつけた。


『ティオ!? バカ、どけ!!』


 ドゴォォォォォォォォォォッッ!!!


 私の叫びは、天地をひっくり返すような轟音に掻き消された。

 ティオの構えた小さな盾が、漆黒の衝撃に触れた瞬間に粉々に砕け散る。

 その細い身体から血しぶきが吹き出し、光の中に溶けていくのが、スローモーションのように視えた。


 刹那。

 あいつと、目が合った気がした。

 恐怖で極限まで見開かれたその瞳は、最後まで「死にたくない」と叫んでいるようだった。

 けれど、その奥で――。

 突き飛ばされた私が致命傷を逃れたのを確認して、あいつは、ふにゃりと、情けなく笑ったんだ。


 だが、ティオ一人の犠牲で止められるような魔法ではなかった。

 ティオを消し飛ばした漆黒の衝撃波は、そのまま後方に密集していた仲間たちに襲いかかった。


『ぐあああああああっ!!』


 ガレスが前衛を守るために構えたオリハルコンの大盾が、まるで紙屑のようにひしゃげてへし折られ、巨体が吹き飛ばされる。

 魔法使いのセリアが必死に張った何重もの結界が、ガラスが割れるように一瞬で砕け散り、彼女の悲鳴が光の中に掻き消える。

 もう一人の斥候が、衝撃波で壁に叩きつけられ、トマトのように弾け飛んだ。


 黒い波動が通り過ぎた後。

 そこには、原型を留めないほどに焼け焦げ、ただの肉片と化して地面に散らばった四人の仲間の姿があった。

 残った二人の後衛も、両腕や片足を吹き飛ばされ、血の海の中でピクピクと痙攣している。


「あ……ああ……」


 私の喉から、声にならない乾いた音が漏れた。

 さっきまで、完璧な連携で竜を追い詰めていた仲間たちが。

 ガレスが。セリアが。

 そして、私を守ってくれたティオが。

 全員、私のたった一つの指示ミスのせいで、ただの赤黒い肉の塊に変わってしまった。


『リオオオオオオオオオオッ!!』


 カグラの絶叫が聞こえた。

 私は呆然としたまま、次の瞬間、私に迫り来るナーグランドの巨大な爪に反応することすらできなかった。


 ――ザシュッ。


 鈍い音と共に、私の右目から顔の半分にかけて、焼けるような激痛が走った。

 視界の右半分が真っ赤な血の色に染まり、そのままプツリと暗転する。

 肉を抉られる生々しい感触。自分の眼球が潰れる音。

 私は悲鳴を上げることもできず、血だまりの中に無様にも転がり落ちた。


 そこから先の記憶は、曖昧だ。

 怒り狂ったカグラがどうにかして竜の片翼を切り落とし、死に物狂いで生き残った私と重傷の二人を担いで、文字通り這いつくばるようにして遺跡から逃げ出した。

 ナーグランドはその後、ギルドの最高戦力によって遺跡ごと封印され、事件は世間には表沙汰にならなかった。

 『未知の特殊個体との不運な遭遇による名誉ある戦死』。

 ギルドの上層部は、そんな綺麗な言葉で彼らの死を片付けた。


 だが、私は知っている。

 彼らを殺したのは、闇影龍じゃない。

 恐怖を知らない私の慢心だ。私が、ティオたちを殺したのだ。


『私のせいだ……私のせいで、みんなが……っ!』


 王都の病院のベッドの上で、包帯に巻かれた右目の激痛にのたうち回りながら、私は何度も何度も嘔吐し、泣き叫んだ。

 カグラは静かに首を振り、「……お前のせいじゃない。俺が、前に出過ぎたからだ」とだけ言って、不器用に私を慰めようとしてくれた。

 でも、そんな言葉は何の救いにもならなかった。


 私は、二度と前線に立てない身体になった。いや、肉体的な傷以上に、私の心が完全に折れてしまったのだ。

 剣を握ろうとすると、私を守って消えたティオの泣き顔や、セリアたちの千切れた身体がフラッシュバックする。

 私は逃げた。

 王都の栄光も、最強の称号も、残されたカグラのことも全て放り出して、この辺境のエルモアの街に逃げ込んできたのだ。


 表向きは「右目の傷のせいで前線復帰は無理だから、後進の育成に回る」なんて、立派なギルドマスターの顔をして。

 だけどその内実は、ただの罪滅ぼしだ。

 右目の奥で今もズキズキと痛む亡霊への、惨めな自己満足。

 若い冒険者たちが一人でも多く生き残れるように、安全な場所から偉そうに説教を垂れているだけの、臆病な負け犬の末路。それが私、星見のリオの本当の姿だった。



     ◆ ◆ ◆



「……感傷に浸ってる場合じゃないだろ、リオ」


 私は写真を裏返しにして机に叩きつけると、自らの両頬を力いっぱいバチンと平手打ちした。

 痛みが、淀んでいた意識を現在へと引き戻してくれる。

 私は木箱のさらに奥底に手を伸ばし、分厚い麻布の紐で縛られた古い任務記録の束を引っぱり出した。

 ギルドマスターとしての日常業務の裏で、私が銀翼の盟約の時代から、いや、それよりもずっと前から個人的に追い続けている、一つの未解決事件のファイルだ。


『黒い羽根の殺人鬼』。


 そのふざけた二つ名が表紙に記されたファイルをパラパラと捲る。

 五十年前から、この大陸の各地で断続的に発生している要人の変死事件。

 最初は、王国の軍事を担っていた改革派の貴族。次は、東方連邦の融和派の宰相。ある時は、単独でドラゴンを討伐するほどの実力を持った高ランクの冒険者。

 被害者の身分も、年齢も、所属する国家もバラバラだ。ただ一つの共通点は、彼らが皆、この大陸の歴史や勢力図に何らかの「変革」をもたらそうとしていた重要人物だったということ。

 そして、暗殺された彼らの死体の傍らには、必ず『漆黒の羽根』が一枚だけ、嘲笑うかのように残されていた。


「誰が、何のために、こんなことを続けてるんだか……」


 私は忌々しげに舌打ちをした。

 動機が全く読めない。特定の国家に有利になるような暗殺じゃない。まるで、歴史のうねりそのものを微調整するかのような、神気取りの気味の悪い犯行。

 十年前、銀翼の盟約として全盛期だった頃、私たちもこの殺人鬼の足跡を追ったことがあった。だが、影はおろか、靴の裏の泥一つ見つけることはできなかった。

 エルモアでギルドマスターになってからも、私の管轄に近い場所で二件の事件が発生した。どちらも密室での不審死。そして現場には、見せつけるように黒い羽根が落ちていた。

 ギルドの諜報部を総動員しても、証拠はゼロ。魔法による痕跡すら残されていない。

 まるで幽霊だ。


「……あの噂、まだ続いてるって聞いた」


 私は、ファイルの一番新しいページ、手書きのメモが挟まれた部分を睨みつけた。


「三年前。東方連邦の山奥で、影響力を持っていた長老の一人が、やっぱり似たような死に方をしたって。……五十年間も、同じ手口で要人を殺し続ける人間なんているわけがない。何かの組織か、それとも、人間じゃない化け物の仕業か」


 背筋に、冷たいものが走る。

 この世界には、まだまだ人間の理解の及ばない暗闇が広がっている。

 私がギルドマスターとしてエルモアの街を守っているつもりになっていても、その足元には、真っ黒で底なしの沼が口を開けているのだ。

 ヒムロ・スイが抱えている異常な能力も、あるいはこの暗闇のどこかに繋がっているんじゃないかと、そんな不吉な予感が脳裏を掠めた。


 私はファイルをバタンと閉じ、それを木箱の中に戻した。

 そして代わりに、箱の一番底に敷いてあった、もう一枚の古い写真を取り出した。

 端がボロボロに擦り切れた、二十年前のセピア色の写真。

 そこに写っているのは、まだ十五歳くらいだった頃の、髪を短く刈り込んだ少年のような私。

 そしてその隣で、木刀を片手に持ち、呆れたような、でもどこか優しい微笑みを浮かべている女性。


 さくら茶屋の女将、サクラだ。

 今よりもずっと若く、肌には張りがある。だけど、写真の中の彼女の瞳の奥には、二十年前の時点ですでに、到底人間には背負いきれないような、途方もなく深く暗い『何か』が宿っていた。


「……サクラ」


 写真の中の彼女の顔を指でなぞる。

 私がまだ何者でもなかった頃。王都の裏路地で喧嘩に明け暮れていた私を拾い上げ、剣の握り方から戦いの基本まで、全てを叩き込んでくれた恩人であり、師匠のような存在。

 彼女は、昔から自分の過去を一切語らなかった。

 ただ、とてつもなく強かった。私がどれだけ修行を積んでSSS級候補と呼ばれるようになっても、彼女の剣の冴えには遠く及ばなかった。


「サクラ、あんたは一体……」


 私は、誰もいない執務室の空気に、独り言を呟いた。


 十年前。私がナーグランドのトラウマでエルモアに逃げ込んできたのと同じ時期に、大陸の東で起きた凄惨な事件。

 『紅蓮の七夜』。

 常盤連邦の由緒ある名家、紅葉家の一族が、七日七晩にわたって何者かに虐殺されたという血生臭い事件。

 その事件の直後だ。サクラが、どこから連れてきたのかもわからない、記憶を失った幼いアヤネを連れて、このエルモアの街にふらりと現れたのは。

 そして、それまで持っていた鋭い剣気を完全に隠し、エプロンを締めて『さくら茶屋』を開いた。

 繋がっていないと考える方が不自然だ。サクラは、あの虐殺事件に何らかの形で関与している。あるいは、彼女自身が……。


「……だけど、証拠は何一つない」


 私は写真を木箱に戻し、鍵をしっかりと掛けた。


「あんたが過去に何をしたのか、本当はどんな化け物なのか、そんなことはどうでもいい。……あんたが今、あの子たちを……アヤネや、あのスイっていう不器用なガキを、本気で守ろうとしてるのが痛いほど分かるから」


 サクラが今日、私にスイのことを頼んできた時の、あの切実な声。

 あれは本物だった。血に濡れた過去を持つ女が、それでも必死に誰かの日常を守ろうとする、不器用な愛情そのものだった。



     ◆ ◆ ◆



 私は椅子から立ち上がり、執務室の大きなガラス窓の前に立った。

 窓を開けると、夜の冷たい風が部屋に吹き込み、藍色の髪を激しく揺らした。

 空には、巨大な赤い月と、小さな青い月が、不気味なほど鮮やかに輝いている。


 眼下には、エルモアの街の灯りが星屑のように広がっていた。

 酒場で酔っ払って騒ぐ冒険者たちの声が、風に乗って微かに聞こえてくる。

 この平和な光景の裏側に、どれほどの死と、裏切りと、化け物たちの思惑が潜んでいるのか。


「……ヒムロ・スイ」


 あの少年の名前を、口の中で転がす。


「ロード戦までに、自分が何を捨てるのか、ちゃんと考えておけって言ったけどな」


 窓枠に両手をつき、私は自嘲するように笑った。

 私の『星見』の目は騙せない。

 あいつはきっと、戦場の極限状態に立たされた時、絶対に「効率」や「生存」のためだけの選択はしない。

 怯えて、震えて、死の恐怖に涙を流しながら。

 それでも最後には、自分の命を危険に晒してでも、背中にいる仲間を守るための『一番泥臭い力』を選び取るはずだ。

 だって、あいつは。


「あいつのあの不器用な魂は、私が十年前、守ってやれなかったあの少年のものと……まったく同じ形をしているからだ」


 恐怖に震えながらも、最後には私を守るために盾を構えたティオ。

 そしてティオの後ろで、理不尽に散っていったセリアやガレスたち。

 彼らを、己の驕りで死なせてしまった愚かな私。

 だからこそ、私はもう二度と、あんな目をした子どもを死なせはしない。取り返しのつかない失敗をしてあいつの心が折れてしまう前に、どうしても私が守り抜き、導いてやらなければならないのだ。


「絶対に生き残らせてやる。私の、この残された左目にかけて」


 それは、ギルドマスターとしての義務じゃない。

 かつての仲間を死なせた負け犬の、意地と贖罪の誓いだ。

 私は窓を強く閉め、二つの月の光を遮った。


 十二日後。


 エルモアの全ての冒険者を巻き込む、ゴブリン・ロードとの大規模な死闘が幕を開ける。

 私は腰の細剣の柄を強く握りしめ、来るべき戦場に向けて、静かに闘志の炎を燃やし始めた。

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アストラ・レコーダ〜VRMMO転移で最弱スタート〜異世界に放り込まれた俺は、敵のスキルを奪い尽くして最強に成り上がる ころん @koronmarble

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