第12話 アリシアの祖母と薬師の夢


 ――コトコト、コトコト。


 古びた鉄鍋の中で、薬湯が静かに煮立つ音がする。

 エルモアの北側。活気あふれる中央の市場や、冒険者たちが集うギルドのある大通りからは遠く離れた、貧民街と呼ばれる一角。

 そのさらに外れにある、屋根の半分が崩れ落ちた小さな石造りの家が、私とおばあちゃんの家だ。


 隙間だらけの壁からは、容赦なく朝の冷たい風が吹き込んでくる。

 私は、かじかむ手に息を吹きかけながら、かまどの火の加減を慎重に調整した。

 鍋の中で煮立っているのは、昨日、スイさんやアヤネさんと一緒に囁きの森で採ってきた『月光花』を主成分とした特効薬だ。

 淡い青白い光を放っていた花弁は、熱を加えることで徐々にその魔力を湯の中へと溶かし出し、今は透き通るような銀色の液体へと変わっている。


「……ケホッ、ゴホッ……」


 背後から、ひどく苦しそうな咳き込む音が聞こえた。


「おばあちゃん!」


 私は慌てて鍋から火を下ろし、木製の椀に熱い薬湯を注ぐと、部屋の隅にある粗末なベッドへと駆け寄った。

 薄い毛布に包まっているのは、すっかり痩せ細ってしまった私のたった一人の家族。

 六十代という年齢以上に老け込んで見える真っ白な髪と、深く皺の刻まれた顔。

 おばあちゃんは、もう一年以上もこのベッドから起き上がれずにいる。


 『リュース熱』。

 それが、おばあちゃんを蝕んでいる慢性疾患の名前だ。

 高熱が続くわけではないけれど、身体の中の魔力と生命力を少しずつ、真綿で首を絞めるように奪っていく恐ろしい不治の病。

 完全に治す方法は今のエルモアにはなく、進行を遅らせ、呼吸を楽にするためには、魔力を豊富に含んだ『月光花』の成分がどうしても必要なのだ。


「おばあちゃん、起きて。薬、できたよ。昨日採ってきたばかりの、新鮮な月光花だから」


 私が背中を支えてゆっくりと身を起こさせると、おばあちゃんは薄く目を開け、焦点の定まらない目で私を見た。


「……おお、アリシア。……すまないねぇ、こんな朝早くから」

「ううん、謝らないで。ほら、ゆっくり飲んで」


 私はフーフーと息を吹きかけて薬湯を冷まし、おばあちゃんのひび割れた唇に椀を運んだ。

 コクン、コクンと、痛む喉を鳴らしながら、おばあちゃんはゆっくりと薬を飲み下していく。

 やがて椀が空になると、荒かった呼吸が少しずつ落ち着きを取り戻し、青白かった顔色にほんの少しだけ赤みが戻った。


「……ああ、随分と楽になったよ。胸のつかえが取れたみたいだ」

「よかった……。月光花、手に入って本当によかったよ」


 私は空になった椀を握りしめ、安堵のあまりポロリと涙をこぼしてしまった。

 昨日、もしスイさんが一緒に採取に行ってくれなかったら月光ウルフの群れに襲われて、私は間違いなく死んでいた。

 私が死ねば、薬を作れる人間がいなくなり、おばあちゃんも遠からず息を引き取っていただろう。

 そう考えると、足の震えが止まらなくなる。


 おばあちゃんの皺だらけの温かい手が、私の頬を伝う涙をそっと拭ってくれた。

 すっかり骨ばってしまった手だけれど、その瞳の奥には、昔と変わらない強い意志の光が宿っていた。


「……ありがとう、アリシア。お前は本当に優しい子だ。……お前はきっと、お母さんのような、立派な薬師になれるよ」


 その言葉に、胸の奥がギュッと締め付けられる。


「うん……私、絶対に大薬師になる。お母さんがそうだったように、エルモアのたくさんの人を助けられる、すごい薬師になるんだから」


 私は、自分に言い聞かせるように、強く頷いた。


 五年も前のことだ。

 まだ私が九つだった頃、エルモアの街を恐ろしい流行病が襲った。

 街角には遺体を焼く煙が絶えず上がり、死の匂いがどこに行っても付きまとっていた暗黒の時代。

 私の母は、街でも評判の腕のいい薬師だった。

 彼女は、自分が感染するリスクを顧みず、貧民街から貴族の屋敷まで、昼夜を問わず急患の治療に奔走していた。

 しかし、限界を超えて働き続けた母の身体は、ついに病魔に侵された。

 母が倒れた後、父は必死に看病を続けたけれど、やがて父も同じ病に倒れ……二人は、たった数日の間に、あっけなくこの世を去ってしまった。


 突然、両親を失い、冷たい石の床の上で泣き叫ぶしかなかった私。

 孤児院に送られそうになっていた私を、無理やり引き取ってくれたのが、おばあちゃんだった。


『私がこの子の面倒を見る。娘が命を懸けて守り抜いた命を、他人に預けるわけにはいかない』


 そう言って、おばあちゃんは身を粉にして働き、私を育ててくれた。

 朝から晩まで、街の洗濯場や厨房で働き詰めだった。

 その無理が祟って、おばあちゃんはリュース熱に倒れてしまったのだ。


 私がもっと早く、立派な薬師になっていれば。

 私がもっと力を持っていれば、おばあちゃんにこんな苦労をさせることはなかったのに。


 おばあちゃんが病に倒れてからの数年間、私は母が遺した古い薬草学の魔導書をボロボロになるまで読み込み、見よう見まねで薬の調合を覚えた。

 ギルドに出入りして、冒険者たちが捨て値で売るような質の悪い薬草を買い集め、ポーションを作っては小銭を稼ぐ日々。


 私にとって、薬師になることは、ただの夢じゃない。

 命を懸けて人々を救おうとした、大好きな母への憧憬。

 そして、自分を育てるために倒れてしまったおばあちゃんへの、強烈な贖罪なのだ。


「……少し、眠るよ。アリシアも、無理はしないでおくれ」

「うん、おやすみ、おばあちゃん」


 寝息を立て始めたおばあちゃんに毛布をかけ直し、私は冷たい水で顔を洗うと、古びたローブを羽織って家を出た。



     ◆ ◆ ◆



 午後。

 私は、小銭を稼ぐための手頃な素材採取の依頼を探すため、冒険者ギルドへと足を運んだ。

 昼下がりのギルドは、朝ほどの混雑はないものの、酒気を帯びた冒険者たちが大声で笑い合う、相変わらず騒々しい場所だった。


 私はなるべく目立たないように壁際を歩き、受付カウンターへと向かった。


「こんにちは、ミレイユさん」

「あら、アリシアちゃん。こんにちは。おばあさんの具合はどう?」


 受付のミレイユさんは、いつも私みたいな子供にも優しく接してくれる、数少ない大人だ。


「はい、昨日採ってきた月光花のおかげで、ずいぶん楽になったみたいです」

「そう、よかったわね。……あ、そうだ。アリシアちゃんに渡すものがあったのよ」


 ミレイユさんはそう言うと、カウンターの下から、丁寧に布で包まれた小さな包みを取り出した。

 布の隙間から、見覚えのある銀色の淡い光が漏れている。


「これ……月光花?」

「ええ。今日の午前中、ヒムロさんが一人でギルドに来てね。これをアリシアさんに渡してくれって置いていったのよ」

「スイさんが……?」


 私は目を丸くした。


「彼ね、今日の未明に、もう一度『囁きの森』の奥まで行ってきたみたいなのよ。……一人でね」

「そんな! あそこは、月光ウルフの群れが出るのに……!」


 ミレイユさんは少しだけ困ったように微笑んだ。


「私も止めたんだけどね。あの新人さん、本当に無茶ばかりするから。でも、無傷で帰ってきたし、何より『彼女のおばあさんには、もっと薬が必要だから』って。……はい、これ。ギルドを通した依頼じゃないから、手数料も何もいらないわ。ヒムロさんからの、個人的な贈り物よ」


 私は、手渡された布包みを、震える両手で受け取った。

 ずっしりとした重み。

 これだけの量があれば、おばあちゃんの薬は当分保つ。私が危険な夜の森へ行かなくても済むように、スイさんはわざわざ、あんな恐ろしい魔物がいる場所へ、私のためだけに行ってくれたのだ。


「……っ」


 視界が、急に滲んだ。

 私はミレイユさんに深々と頭を下げると、布包みを抱きしめたまま、ギルドを飛び出した。



     ◆ ◆ ◆



 息を切らして走った。

 大通りを抜け、市場の喧騒を通り過ぎて、緩やかな坂道を駆け上がる。

 目指すのは、『さくら茶屋』。


 カランカラン、とドアベルを鳴らして店に飛び込むと、厨房からアヤネさんが顔を出した。


「いらっしゃい! ……って、アリシアちゃん!? どうしたの、そんなに息切らして」

「アヤネさん……! スイさんは、スイさんはいますか!?」

「スイさん? うん、今は屋根裏部屋で剣の手入れしてると思うけど……」


 私はアヤネさんに「ありがとうございます!」と短くお礼を言い、店の奥にあるきしむ階段を、転がるように駆け上がった。

 屋根裏部屋の薄い扉の前で立ち止まり、乱れた呼吸を整える。

 コンコン、とノックをする。


「……はい、開いてるよ」


 少しして、扉の向こうから、聞き慣れた少し低くて穏やかな声がした。

 ギィ、と薄い木の扉が開く。

 そこには、普段着のシャツ姿のスイさんが立っていた。目の下には少し隈があり、髪も寝癖がついていて、本当にさっきまで眠っていたんだとわかる。


「あれ、アリシアさん? どうしたの、こんな時間に」

「ス、スイさん……これ……っ」


 私は、胸に抱きしめていた月光花の包みを、震える両手で彼に突き出した。


「これ……ギルドで、ミレイユさんから受け取りました。スイさんが、私のために……わざわざ、朝早くに森へ行って……」


 言葉にしようとすればするほど、鼻の奥がツンと痛くなって、声が上ずってしまう。

 スイさんは、少しだけ照れくさそうに頭を掻いた。


「あー……うん。昨日、あいつらが出たせいで途中で帰ることになっちゃったから。あの量じゃ、おばあさんの薬には全然足りないんじゃないかと思ってさ。俺、朝早く目が覚めちゃって暇だったから、ちょっと行って余分に採ってきたんだ。押し付けがましかったらごめん」


 暇だったから。余分に採ってきた。

 そんなの、嘘に決まってる。

 夜明け前の森がどれだけ危険か、彼だって身をもって知っているはずだ。

 昨日、あんなに恐ろしい思いをしたのに。私の命を救うために、彼自身も傷つきながら戦ってくれたのに。


「……なんで……」


 私の目から、ポロリと大粒の涙がこぼれ落ちた。


「なんで、私なんかに、そこまでしてくれるんですか……っ」

「えっ!? あ、ご、ごめん! いらなかった!?」

「違います……違うんです……っ」


 私は、月光花の包みを抱えたまま、その場にへたり込むようにして泣き崩れてしまった。

 両親が死んでから五年間。

 貧しい孤児の私を、無理をして育ててくれたおばあちゃんには、いくら感謝しても足りない。でも、そのおばあちゃんが病気になってからは、ずっと一人で気を張って生きてきた。

 誰かに頼っちゃいけない。貧民街の子供を、見返りもなしに助けてくれる人なんていない。自分の力で薬師になって、自分の力でおばあちゃんを助けるしかないんだって、そう思っていた。


「私……おばあちゃん以外の他人に、こんなに無条件で優しくしてもらったの……両親が死んでから、初めて、です……っ」


 しゃくりあげながら、思いの丈が口をついて出た。


「みんな、お金がないと助けてくれないのに……スイさんは、命がけで私を守ってくれて……おばあちゃんのお薬まで……っ。私、スイさんに何もお返しできないのに……っ!」

「アリシアさん……」


 スイさんは、困ったような、でもひどく優しい顔で私を見下ろし、ゆっくりとしゃがみ込んだ。

 そして、彼の大きな手が、私の頭にポンと置かれた。


「俺は、何もできてないよ」

「え……」

「俺はただ、ちょっと力が強くて、運が良かっただけだ。すごいのは、アリシアさんの方だよ」


 スイさんは、私の頭を優しく撫でながら、真っ直ぐな目で私を見た。


「おばあさんのために、毎日必死に薬草の勉強をして、一人で危険な依頼にも立ち向かってる。俺から見たら、アリシアさんの方がよっぽど強くて、立派だよ。だから……これは、俺からアリシアさんの頑張りへの、ほんの小さな応援。見返りなんて気にしなくていいから、これでおばあさんを元気にしてあげて」


 その言葉は、冷え切っていた私の心の奥底に、温かいお湯のようにじんわりと染み込んでいった。

 誰も、私の頑張りなんて見てくれていないと思っていた。

 でも、この人は、ちゃんと見ていてくれたんだ。

 少し寝癖のついた髪をした、不思議な力を持つ少年。出会ったばかりのこの人が、私の五年間の孤独と重圧を、たった一言で救い上げてくれた。


「……はいっ……! はいっ……!!」


 私は何度も何度も深く頷き、スイさんの前で、子供みたいに声を上げて泣き続けた。

 悲しい涙じゃない。心の底からの、温かくて、救われた涙だった。



     ◆ ◆ ◆



 夜。

 隙間風の吹き込む石造りの家。

 おばあちゃんは、スイさんが採ってきてくれた月光花で作った新しい薬を飲み、今は穏やかな寝息を立てて眠っている。

 呼吸の音は静かで、まるで病魔が嘘のように遠のいたみたいだった。


 私は、小さな魔石ランプの灯りを頼りに、机に向かっていた。

 母の形見である、古びた革張りのノート。

 半分は薬のレシピが書かれており、残りの空白のページを、私は日記として使っている。

 ペンをインク壺に浸し、カリカリと文字を書き進める。


『今日、スイさんが一人で森へ行き、おばあちゃんのために月光花を採ってきてくれた。

 あの人は、とても不思議な人だ。

 森やギルドで助けてくれた時は恐ろしい力を持っていたけれど、私にかけてくれる言葉は、今まで出会った誰よりも温かくて優しい。』


 思い出すのは、私の頭を撫でてくれた、あの温かく硬い手の感触。

 そして、「君は立派だ」と言ってくれた、あの飾らない声。


『大薬師になる。

 それは、お母さんに憧れて抱いた、私のずっと変わらない夢だ。

 でも、今日、彼の不器用で優しい嘘を聞いて、その夢は、絶対に叶えなければならない「誓い」に変わった。』


 私は、ペンを強く握りしめた。


『私には、まだ何の力もない。今はただ、守ってもらうことしかできない。

 だからこそ、私は、いつかきっとエルモアで一番の薬師になる。

 おばあちゃんを治して、そして……。

 いつか、スイさんが傷ついて帰ってきた時、彼を治せる一番の薬を作れるように。

 エルモアの薬師たちを集めて、誰も一人で苦しまなくていい場所を作りたい。それが、私の決意。』


 パタン、とノートを閉じる。

 窓の隙間から夜空を見上げると、青白い満月が、貧民街の崩れかけた屋根を平等に照らしていた。


 明日もまた、ギルドに行こう。

 新しい薬草学の本を読んで、もっともっと、たくさんの知識を身につけよう。

 私の中に、今まで感じたことのない、熱くて確かな力が湧き上がってくるのを感じていた。

 私はもう、泣き虫の孤独な子供じゃない。

 大切なものを守るために、歩き出すんだ。


 ランプの火を吹き消し、私はおばあちゃんの眠るベッドのそばで、静かに目を閉じた。

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