アストラ・レコーダ ──VRゲームだと思っていた世界に放り込まれた俺は、奪うことで生きていく──
ころん
第1話 VRなんて興味なかった
放課後の教室は、いつもどおりざわついていた。
十月の終わり、窓の外は夕日で橙色に染まり、机の端に置いた鞄の影が黒板のほうまで長く伸びていた。壁の時計が刻む秒針の音が、妙に大きく耳に響く。
理由は特にない。天気が良くて気温もちょうどよく、遠くから運動部の掛け声が聞こえてくる。そんな何気ない平穏が、かえって教室の静けさを際立たせているように感じた。
俺は教科書を鞄に押し込みながら、なんとなく時間を潰していた。帰宅部だから急いで帰る理由もないが、かといって寄り道をする相手もいない。クラスの連中は、駅前に新しくできたカプセルカフェの話題で盛り上がっていた。
「駅前のカプセルカフェ、もう行った?」
「あそこ、VRの最新機種が入ったんだろ?」
「そうそう。それでAROやると没入感が段違いらしいぜ。風とか匂いまでリアルに再現してるとか」
「マジかよ、今日の帰り寄ってみるか?」
そういう会話を、俺は机に肘をついたまま半分聞き流していた。盛り上がっている空気は嫌いじゃないし、邪魔をするつもりもない。ただ、自分がその輪に入ることは一生ないだろうな、とぼんやり思っていた。
俺は、AROに興味がない。
正確にはゲーム自体にあまり関心がなく、その延長線上でVRにも惹かれなかった。やるとしても数週間に一度、古い携帯ゲーム機を少し触るくらいだ。そんな人間だから、クラスでAROの話が始まっても、相槌を打つ以外にできることがない。
世界で八億人がプレイしているというそのゲームにおいて、俺のような存在はむしろ珍しい部類に入るらしい。
「彗はAROやってないんだっけ?」と聞かれるたび、「あー、うん」と返すのだが、相手は決まって驚いたような顔をする。それが良いとも悪いとも思わないが、俺はただ、そういう自分でいるだけだ。
社会全体を覆う巨大な文化に足を踏み入れないままでいるには、それなりに意識的な選択が必要だったのかもしれない。流されて何となく始めてしまえば、それはそれで楽しめたのだろうが、俺はそうしなかった。自分だけのペースを守りたかった、というのが本音に近い気がする。
「ねえ、彗」
声がして振り向くと、紬が椅子を引きずって俺の机の前に座った。勢いが良すぎて「ガタッ」と椅子が鳴る。本人は気にする様子もなく、そのまま身を乗り出してきた。
「土曜、暇?」
「暇だけど」
「ドームでアストラ・フェスあるの。一緒に行こうよ」
アストラ・フェス。名前は聞いたことがある。というか、聞かないほうが難しい。ここ一週間、テレビでもSNSでもその話題ばかりだった。
AROの公式イベントであり、世界最大規模のゲームショウ。プロプレイヤーたちがワールドボスの討伐に挑む生中継は、ニュースで「国民的イベント」と称されるほどの熱狂を生んでいた。
「VRに入るのか?」
「入んない入んない。観戦だけ」
紬は手をひらひらと振った。その手首に見慣れない細い銀のブレスレットが光っている。
「大モニターでプロの戦闘を観るの。迫力あるよ。はい、これ」
「は? チケット、もう手に入れてたのかよ」
「姉ちゃんから二枚もらったの。彗に聞いたら絶対迷うでしょ? だから有無を言わさず連れて行こうと思って」
そりゃ迷うに決まっているが、口には出さなかった。紬は期待を込めた目でこちらを見ている。こういう時の彼女を断るのは、何年も前に諦めた。抵抗したところで、俺の方には断りきるほどの理由がいつもないのだった。
「……まあ、いいよ。行くよ」
「やった。ありがと」
「それで、チケット代いくらだったんだ」
「気にしないで。お姉ちゃんが会社でもらってきたやつのお裾分けだから、タダ」
「タダはタダで怖いな。後で何か請求されるんじゃないか?」
「そんな世知辛い話、どこで仕入れてくるのよ」
紬が呆れたように笑い、俺もつられて口角を上げた。
「紬の姉さん、確か関連会社で働いてるんだっけ」
「そう。だからこういうイベントのチケットがたまに余るの。彗も昔はあんなに姉ちゃん姉ちゃんって懐いてたのに、最近は全然来ないんだから」
「そりゃ、小学生の頃とは違うだろ」
「姉ちゃんも寂しがってたよ。彗くん大きくなったねえ、って」
紬の姉は俺にとっても親戚のような存在だ。たまに道で会うと「大きくなったね」と言われるが、彼女の中の俺はいつまでも小学生のまま止まっているらしい。
「で、何時集合だ」
「土曜の朝十時、駅のみずほ銀行前ね」
「早いな」
「会場混むんだもん」
紬が机に置いたチケットには、ホログラムの箔が貼られ、傾けると銀色に光った。
「綺麗なチケットだな」
「でしょ? 彗の分、なくさないでよ。明日には引き出しから行方不明になりそう」
「さすがにそれはない。ちゃんとしまうよ」
「賭けてもいいけど?」
「賭けない」
紬がニヤッと笑った。確かに俺の部屋は散らかっているし、物の管理も苦手だ。だが、今回ばかりは失敗できない気がした。
夕日が紬の横顔を赤く染めている。光の加減で、黒髪の先が茶色っぽく透けて見えた。
「なあ、紬。お前、AROのどこがそんなに好きなんだ?」
我ながら間抜けな質問だと思った。紬がAROにのめり込んでいるのは、小学五年の頃からずっと見てきた。学校帰りに俺の家に来ては、その日あった冒険の話を母さんに嬉しそうに語っていた姿が思い出される。
紬は少し黙ってから、微笑んだ。
「好きだよ、普通に。……彗は、まだゲームに興味持てない?」
「嫌いじゃないけど、わざわざ自分からやるほどじゃないっていうか」
「小三の時に一緒にやった時は、あんなに楽しそうだったのに」
「小三の頃の話をされてもな」
「でも、あの時楽しかったんでしょ?」
「……VRは体ごと中に入るんだろ。テレビ画面でキャラを動かすのとは、意味が違う気がしてな」
「体ごと入るから楽しいんじゃん」
「そこが合わないんだよ、俺は」
紬はしばらく俺を見つめてから、少しだけ肩を落とした。怒っているのではなく、どこか寂しそうな仕草だった。
「あのさ」
紬が声を落とす。机の上のチケットを、人差し指で少しずつずらしていた。
「私、別に彗にAROをやってほしいって無理強いしてるわけじゃないの」
「分かってる」
「ただ……私の好きなものが彗に届かないんだな、って感じると、ちょっと寂しいだけ。でも、彗の性格だから、それでいいんだよ。分かってる」
「……」
「だから、年に一回くらい、こういうのに付き合ってくれると嬉しい」
普段は言わないような紬の本音に、俺は言葉に詰まった。
「……これからも、付き合うよ」
「ほんと?」
「嘘はつかない」
「よろしい」
紬が笑った。感情の切り替えが早いのは彼女の長所だ。
「じゃ、土曜。遅刻しないでね」
「お前こそな」
「今回は死ぬ気で起きるから。……あ、ごめん。今日はちょっと用事があるから、私、先帰るね」
「そっか。じゃあな」
「うん、また土曜日に!」
紬は鞄を肩にかけると、足早に教室を出ていった。
俺はチケットを内ポケットに入れ、鞄のチャックを閉めた。窓の外の夕日が一段と赤くなっている。
◆ ◆ ◆
校門を出て通学路を歩き始めると、この国がいかに一つのゲームに熱狂しているかがよく分かる。
駅前にあるビル壁面の巨大モニターからは、ゲーム内の派手な戦闘映像が絶え間なく流されている。すれ違う学生たちの鞄にも、サラリーマンが手にするスマホの裏側にも、青い鷲のエンブレムと共に『ASTRA-RECORDA』という英字のロゴが踊っていた。普段はAROという略称ばかり耳にするが、正式名称のロゴを目にしない場所はない。
コンビニの窓ガラスはコラボキャンペーンのポスターで埋め尽くされ、通りの角にある書店の店頭には特設コーナーが組まれていた。平積みされた総合雑誌の表紙を飾っているのは、アイドルや俳優ではなく、AROのトッププレイヤーたちだ。涼しげな目元のその男は芸能人以上の人気を誇り、ニュース番組すら彼らの動向を連日トップで報じている。
たかが一つのゲームソフトが、インフラのように社会全体を覆い尽くしている。俺はその流れに乗れていないが、別に無理に合わせようとも思わなかった。
ただ、歩きながらポケットの中のチケットに触れる。
お姉さんからもらったと言っていたが、紬のことだから、俺を誘うために前から準備してくれていたのだろう。そう思うと、少しだけ申し訳ないような気持ちになった。俺は、紬みたいに彼女のことを考えて行動していない。
住宅街の街灯が、目の前でポン、ポンと光り始める。
◆ ◆ ◆
家に帰ると、台所からカレーの匂いが漂っていた。
「ただいま」
「おかえり。今日早いのね」
「普通の時間だよ」
「あら、そうかしら。紬ちゃんと一緒じゃなかったの?」
「今日は向こうが用事あったから」
母は野菜を刻みながら、からかうように笑った。
「土曜、紬と出かけるから」
「へえ、デート?」
「違うって」
「どこに行くの?」
「ドームで、アストラ・フェスとかいうイベント」
「あら、人多いんじゃない? 気をつけて行ってね。お昼とかちゃんと食べて、倒れないようにね」
「倒れないって」
「母さんは心配性なの」
母のいつもの台詞を聞き流し、自分の部屋に戻る。ベッドに仰向けになると、天井の蛍光灯が小さく明滅していた。そろそろ寿命かもしれない。
引き出しの、一番目立つ場所にチケットをしまう。
「なくすなよ、俺」
独り言をこぼし、スマホを開くとタイムラインはフェスの話題で持ち切りだった。ワールドボス討伐への「十度目の挑戦」。歴史的瞬間を期待するファンの熱気が画面越しに伝わってくる。
物理の公式をノートに写しながら、ふと考えた。
紬が椅子を引きずってきた時の音。夕日に染まった横顔。そして、「寂しいだけ」と溢したあの表情。
幼稚園から十二年以上、人生の半分以上を一緒に過ごしてきた。紬がいない日常なんて思い出せないほど、彼女の存在は当たり前になっていた。
明日、会場で会うんだよな。
少し、楽しみな気がした。ほんの少しだけ。
窓の外で、隣の家の柴犬が小さく吠えた。
飼い主の「おやすみ、コロ」という声が聞こえ、夜の静寂が街を包み込んでいく。
俺も電気を消してベッドに潜り、やがて深い眠りに落ちた。
夢を見た気がした。
真っ暗な空間で、何か巨大なものが、こちらを覗き込んでいるような──そんな気がしただけ。
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