第二十話 この国の名前
夜明け前から、すべてを総毛立たせるような静かな準備が始まった。
神宮を満たす空気が、一瞬にして変わる。
昨日までとは違う、肌を刺すように張り詰めた静けさだった。
神官たちが誰一人として言葉を交わさず、影のように動く。
厳かに灯火が並べられ、今年収穫されたばかりの初穂が神前へと運ばれていく。
桜桃は神祇官の列の端に加わりながら、その光景を静かに見つめていた。
神前に供えられる秋の初穂。
それは書面の上で都合よく並べられた数字ではない。
今年、この国で確かに育ち、実を結んだ命そのものだった。
やがて祭主・初音が一歩前へ進み、静かに告げる。
「これより、神託の儀を執り行います。」
神官たちが一斉に頭を垂れた。
白い装束をまとった茉莉が、神前へ向かって静かに歩き出す。
昨日、首飾りに愛おしそうに糸を通していた、あの温かな手と同じ手が、今は袖の奥へ深く収められていた。
一点の乱れもない歩み。
一切の迷いを映さない瞳。
昨日まで部屋で穏やかに笑っていた少女は、もうそこにはいない。
神殿に沈黙が満ちた。
茉莉は祭壇の前へ膝をつき、静かに目を閉じる。
灯火が揺れる音だけが、広い神殿を満たしていた。
どれほどの時が流れただろうか。
ふいに、茉莉の肩がわずかに震えた。
閉じられていた唇が、静かに開く。
その声はあまりにも小さく、桜桃には一言も聞き取れない。
だが初音だけは、その言葉を逃すまいと耳を傾けていた。
やがて茉莉がゆっくりと目を開く。
初音は深く頭を垂れる。
神官たちもそれに倣った。
桜桃は、胸の中で何かが音を立てて繋がるのを感じた。
あそこに立っているのは、茉莉ではない。
神の言葉を受ける者。
この国の斎宮。
そこには、一人の少女としての茉莉はいなかった。
個人の名も、故郷の名も、この神前では何一つ意味を持たない。
ただ『斎宮』という役割だけが存在している。
厳かに儀が進む中、桜桃の胸の中で、これまで出会ってきた人々の輪郭が、「名前」という鎖によって静かに結びついていく。
――郁李。
瑞々しい花の名を与えられた、青陽の正統なる後継者。
清明が愛した花であり、青陽の血脈、そのすべてを背負わされた名前。
あの名には、絶対的な意味がある。
周囲からの期待も、課せられた役割も、血統の正統性も。
だからこそ人々は皆、どれほど本人が飄々と振る舞おうとも、郁李を次期当主として扱うのだ。
――雪代柳。
柳には、青陽を象徴する花の名も、青陽の姓もない。
雪代という家に置かれ、決して中心へ立つことを許されない名前。
能力ではない。
最初から与えられた「名前」が、その立つ場所を決めている。
――茉莉。
故郷から授かった確かな名を持ちながら、神前ではその名を捨てる。
茉莉ではなく、斎宮として立つ。
名前があるのに、その名前で生きることを許されない。
役割が、名前を上書きしてしまう。
そして――狄。
朝廷が名前すら与えなかった者たち。
帳簿にも、歴史にも、人口にも記されない。
だから、死んでも数は減らない。
最初から「存在していない」ことになっているからだ。
名前。
それは互いを呼ぶためのものではない。
桜桃の視線は、神前に立つ斎宮へ戻った。
昨日、笑っていた一人の少女が。
今は自らの名前を綺麗に消し去り、ただ神の言葉を受ける存在としてそこにいる。
「……この国は」
掠れた声が漏れる。
この国は、名前でできている。
都合の良い名前を与えて存在させ。
名前を与えず存在を消し。
そして名前を役割で塗り替え、人を別のものへ変えてしまう。
桜桃は、自らの袖口へ目を落とした。
「……ならば、私は」
先を紡ごうとした言葉は、どうしても声にならなかった。
ただ、神嘗祭を静かに照らす無数の灯火だけが、朝霧のなかで、頼りなく、けれど厳かに揺れていた。
神官たちが静かに退がっていく中、桜桃は神前を振り返った。
「初音様」
祭具を片付けていた初音が、その手を止める。
「何でしょう」
「神託とは……どのようなものなのでしょうか」
初音は少しだけ目を細め、静かに答える。
「急な問いですね」
「いえ、茉莉様が……あまりにも別人のように見えたものですから」
初音は神前へ視線を向ける。その表情には、淀みがない。
「神託とは、人の言葉ではありません」
「神の言葉、ですか」
「はい。斎宮は、その御言葉を世に下ろすための器に過ぎないのです」
器。その響きに、桜桃は息を呑む。
「器……」
「そうです。だから神託に、斎宮自身の意思は介在しません。神が告げられたことを、ただそのままにお伝えするだけのこと」
桜桃は躊躇うように言葉を紡ぐ。
「では、その神託が、間違っていることは……」
初音は即座に首を横へ振った。
「ありません」
「一度も、ですか」
「ええ」
その声音には、一片の迷いもなかった。
「神託とは、正しいから従うのではありません。神が授けられたものだから、従うのです」
桜桃は黙って神前を見つめた。
人ではなく、役割としてそこに立つ斎宮。その一言で、この国の運命さえも決まる。
「……重いのですね」
初音は穏やかな微笑みを浮かべた。
「ええ。だからこそ斎宮には、心ではなく、器であることが求められるのです」
その時、瑛が小さく会釈をして近寄ってきた。
「祭主様、直会の準備が整いました」
「参りましょう」
初音は一礼して立ち上がる。桜桃も静かに、その後を追った。
神前へ供えられていた神酒が、新たな盃へと注がれていく。その清らかな音だけが、広間に響いていた。
「
祭主である初音が、厳かに神酒の入った盃を受け取った。
「神前へ供えたものをいただき、今年の実りに感謝を」
初音が作法通りに、ほんの少しだけ口をつける。
続いて、斎宮である茉莉の番だ。神前での凛とした姿とは裏腹に、彼女は肩の力を抜いた穏やかな笑みを浮かべて盃を口にした。
そして、最後に桜桃の前へ、小さな盃が差し出される。
「六花。一口だけですよ」
初音が優しく微笑む。桜桃は少しだけ緊張した面持ちで、その盃を両手で受け取った。透明な神酒が、陽光を透かしてきらりと光る。
「初めてですか?」
隣にいた瑛が、くすりと笑った。
「はい……」
「神事ですから。肩肘張らずに」
そう言われてはと、桜桃は意を決して小さく口をつけた。
ほんの一口。
それは、ほんの味見程度のはずだった。
「……っ」
だが。次の瞬間には、彼女の頬がみるみる朱色に染まっていく。
「六花さん?」
茉莉が不思議そうに首を傾げた、その時だった。
「……ぅ」
ふらりと身体が大きく揺れる。
「六花!」
朝凪が慌てて駆け寄り、その細い身体を抱き留めた。額に触れると、心なしか熱を帯びている。
だが、桜桃はそんな事態などどこ吹く風とばかりに、とろりと幸福そうな笑みを浮かべた。
「……朝凪」
「はい、大丈夫ですか? 六花」
「うん……あのね」
「……なんでしょう」
「栗ご飯……が、食べたい」
「……はい?」
「あと、お魚の塩焼き。それから……」
「六花、今はそれどころ――」
「しいたけは、きらい」
桜桃は、どこまでも真面目な顔で滔々と語り始める。
「苦いから」
「……あの、急に好き嫌いを宣言されても困ります」
「でも、栗は好き。あと甘いものも」
幸せそうに夢見心地で呟く桜桃を、瑛が目を丸くして見つめた。
「え……この方、酔うとこうなるんですか?」
「私も初めて見ました。ここまでとは……」
朝凪は呆然と答え、それから深いため息をついた。
初音が苦笑しながら盃を片付ける。
「一口でここまでとは、予想外でしたね」
「可愛いですねぇ」
茉莉がくすくすと笑う中、朝凪はこめかみに手を当てた。
「笑い事ではありません。今日はもう、お休みいただきましょう」
朝凪の言葉に、桜桃はこくりと満足げに頷く。
「……朝凪、栗ご飯……」
「あとで作らせますから」
「はい……」
もう限界だったのか。
とろんとした瞳で微笑んだまま、桜桃はそのまま朝凪の胸元へこてりと頭を預けた。
朝凪は、腕の中ですやすやと寝息を立て始めた桜桃を抱え、遠い目で直会の間を見渡すことしかできなかった。
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