観覧車という装置は、小説を書こうとする人間にとってあまりに甘美で、同時にひどく危険な記号だ。密室、円環、上昇と下降。物語を完結させるための舞台装置が揃いすぎていて、下手をすれば作者の意図が透けて見える。この作者はその罠を知っていて、知った上で観覧車を選んでいる。
冒頭の三文目に「足を踏み入れる一瞬の揺らぎ」という描写がある。観覧車の情緒を語る前に、まず足裏が感じる不確かな物理法則から書き始めた。何年経っても慣れることのないその微かな重力の狂い。ここを書き飛ばさなかったことが、この作品の基準点になっている。情緒より先に身体がある、という順番の選択だ。
コーラの染みが残ったスニーカー。「帰ったら洗う」という渉の言葉が出た瞬間に何かが起きる。感情の名前を一切使わずにその「何か」を作っている。永遠に洗われることのない茶褐色の汚れ——この一点の具体物に賭ける判断は、言葉の強度への信頼がなければできない。
「肉体に、細胞に、変化を刻んでいく。同じだけの時間も。俺だけが。」この句点の打ち方。「俺だけが。」の四文字で段落が終わる。なぜか読み返すたびに少し印象が変わる箇所で、それはたぶんこの止め方が正解だからだと思う。
渉が「整理されすぎた賢者」のように振る舞っているという違和感は確かにある。十六歳にしては物分かりが良すぎる。ただ、その違和感を抱えたまま最後まで読み切れたのは、文体がその違和感を正直に引き受けているからだ。書き手が自分の都合のいい幻を作ろうとしているのか、それとも主人公が必要としている幻を誠実に書こうとしているのか——この小説は後者の側にいる。
終盤、内面の吐露が飽和する直前で視点が外界へ逃げ、赤い風船が空へ昇っていく。このカメラの切り替えの判断は鮮やかだ。自分の言葉で「痛み」の深さを測ろうとする姿勢が、この一点の赤にも出ている。