DEATH TERRARIUM
美味いもん食いてぇ
Prologue
第1話
……湿った生肉が、顔の上で這いずり回っている。
……期待の込もった鼻息を受けながら、彼は気だるげにまぶたを開いた。
カーテンの隙間から差し込む陽の光。ベッドの上の彼に影を落とす、小麦色のまんまる毛玉。
「……おはよう、アゲパンぶっ」
「ワゥフ」
時刻は午前七時。
顔面にのしかかってきた柴犬、アゲパンを退かし、彼は体を起こして伸びをする。
背中をよじ登ってくるアゲパンを肩車したまま、スリッパを履いて洗面所へと向かう。彼は蛇口をひねって洗面台に頭を突っ込み、跳ねた髪ごと顔を洗った。
「はぁ……
水の中で愚痴る彼を、アゲパンが「バゥフ」と慰める。
髪を拭きながらリビングへ進むと、眼前に広がる東京の街並み。窓の外の遥か下に、碁盤のように敷き詰められた建築群が並んでいる。地上五十五階。ここには外の喧騒も、地上の気配すらも届かない。
朝食はトーストと、昨晩お手伝いさんが作り置きしてくれたシチュー。足元では、アゲパンがドッグフードを貪っている。
彼はトーストを齧りながら、スマホの通知を消していく。と言っても、通知は全て母からの物だが。
『
『塾内模試は五教科全て、答案用紙をスマートフォンで撮影し、私に送付してください。あらかじめ伝えている通り、高校二年生の夏からの成績は受験に直結します。現時点での課題を分析し、次の模試に活かしてください』
『明後日には帰宅できると思います。自律できる年齢だと理解していますが、基本的な生活管理は依然として重要です。今後も逐次、生活記録と学習状況の報告をお願いします。母より』
『分かってる。母さんも頑張って』そう返信し、彼、
うちは母子家庭で、その母も基本的に週三日ほどしか家にいない。開業医としてメディアや講演、指導医業務に引っ張りだこらしい。うん、当然、僕の誇りだ。
食べ終わった皿をシンクに置き、部屋に戻って制服に着替える。洗面所で歯を磨いて顔を上げた先、鏡の中の自分は、相変わらずつまらない目をしていた。
目元まで伸びた黒髪。前髪の隙間から覗く無気力な瞳。
……鏡の中で笑う自分を鼻で笑い、九十九は部屋に戻ってリュックを背負った。玄関でローファーを履き、ドアロックを外した音で、カチカチと爪を鳴らしてアゲパンが廊下に出てくる。
「じゃ、行ってきます」
「ワゥッ」
いつだって、この子の笑顔は純粋で眩しい。一頻りアゲパンを撫で回した九十九は、名残惜しげな声に見送られてドアを閉めた。
マンションを出た途端、まとわりつくような湿気と熱気に襲われる。
七月初旬。青々とした街路樹が、アスファルトに影を落とす。湿った空気は既に真夏のそれで、至る所で蝉が狂ったように鳴き続けていた。
新宿駅から電車に揺られ、
青々と茂る葉が陽射しを透かし、足元にはまだらな木漏れ日が揺れている。アーチを描く白い校門を抜けると現れる、巨大な校舎。私立白銀大学附属高等学校。文武両道を掲げる、マンモス校である。
教室のドアをスライドした九十九は、思い思いの朝を過ごすクラスメイトの間を通り、自分の席に座る。とそこへ。
「あ、九十九君来た⁉︎ 宿題見せてくれ‼︎ 頼む‼︎ この通り‼︎」
既に手元に宿題を準備していた九十九は、今朝鏡の前で練習した笑顔と一緒に、手を合わせる男子にプリントを渡した。
「はいどうぞ」
「九十九君マジ神! ありがと!」
慌ただしく席に戻っていく男子を見送り、小さな優越感と安心感を抱く。
担任が来て、朝会が始まる。日直の号令と共に、今日も学校が始まった。
「おっも〜! 暑いしっ、最悪〜。あ、九十九くーん!」
「マジありがと!」と溌剌に笑う女子から、体育の授業で使う道具を受け取る。
「九十九君九十九君! 今日も奢ってもらってもよろしいでしょうか?」
「いいよ。何食べたいの?」
ホクホク顔で手を振る彼を見送り、九十九もパンを齧りながら購買を出る。そうして午後の授業が終了し、終会と共に一日の学校生活が終わった。
僕に話しかけてくれる人は、何かしら困っていることが多い。色々と頼まれることもあるが、僕はそれを面倒だと思っていないし、嬉しいとすら思っている節がある。
こんなこと自分で言うのもなんだが、……恐らく、僕には友達がいない。
九十九は一人教室を出る。
別にイジメられたり、ハブられたりしたことはない。
でも、放課後遊びに誘われたことはないし、昼食はいつも一人だし、修学旅行で同じ班になると微妙な顔をされる。結局皆の中で、僕は便利な人間という立ち位置なのだろう。
九十九はローファーに履き替え、校舎を出る。
小さい頃から沢山習い事をして、一人で過ごしていたせいもあるのだろう。気づいたら僕は、誰かに何かをしてあげるという行為でしか、人との距離を埋められなくなっていた。友達どうこう以前の問題だ。
九十九が自分の不甲斐なさに辟易としながら歩いていると、ロータリーの端で黄色い声が上がる。
「あ、春先生〜! 一緒にサイゼ来る〜?」「また勉強教えてね〜」「一緒に帰ろ〜」
「行かない行かない。それは勿論、途中までね。ちょっ、そこ引っ張んないで」
「お、春せんじゃん。またモテ談義しようぜ?」「じゃね〜」「相変わらずだな」
「はいはい、あ、助けてはくれないんだ?」
若い男性教師が、生徒達に群がられている。
無造作に整えられたダークブラウンの髪。柔らかな笑みと、親しみ易い雰囲気。整った顔立ちに、理知的な銀縁眼鏡がよく似合う。
彼は
僕とは真逆の、人と関わることに理由がいらないタイプの人種。授業は面白いけど、まぁ、関わることはないと思う。
九十九は駅のホームに並びながら、目に光のないサラリーマンを一瞥する。
今の環境に不満があるわけではない。それに言い訳に聞こえるかもしれないが、別に、僕は友達が欲しいわけではないのだと思う。友達という存在が、学校の中で最も幸福を測り易い指標であるだけで、友達そのものが欲しいわけではない。
ただ僕は、誰かに――。
煮詰まった悩みは電車の走行音に踏み潰され、人の波に呑まれて消えてしまった。
塾から帰宅した頃には、時刻は二十一時半を回っていた。
一人と一匹の食卓に並ぶのは、一汁三菜と犬用手作りご飯。夕食を終え、風呂で汗を流し、歯を磨き、ゴロゴロして、日付が変わる頃にはベッドに体を沈めた。
……そして午前二時。
九十九の目が静かに開く。
なるべく音を立てずに体を起こし、足音を殺して玄関へと向かう。
彼の部屋で一緒に眠っていたアゲパンが片目を開けるが、この状況に慣れているのか、何も言わずに目を閉じた。
「スゥゥ〜……フゥ〜……」
夜の新宿は、昼間とは違った顔を見せる。
巨大なLEDスクリーンの中で猫が戯れ、カラフルなネオンが夜を照らす。
ホストとキャバ嬢が殴り合うたびに、スーツとスパンコールが街を煌めかせる。
路地からは甘ったるい香水とアルコールの匂いが立ち込め、回転する赤色灯とサイレンが闇を切り裂いては、路地の影に血のような赤を落としていく。
しかし誰も振り返らない。これが普通。これが日常。笑い声と怒号と呼び込みの声が混ざり合い、街全体が一つの巨大な生き物のように呼吸をしていた。
そんなカオスに住む若者達、その名も東横キッズ。
時間も場所も失った彼ら彼女らは、ビルの谷間に生まれた人工の星空の下、自由と破滅を秤にかけるように、ただ笑い転げている。
……九十九は彼らと少し離れた場所に腰を下ろし、ビニール袋からハンバーガーセットを取り出す。
母さんに見られたら殺されるだろうな。でも許して欲しい。毎週金曜日限定の深夜散歩。これだけが僕の楽しみなのだから。
「ん……新作うま」
九十九はハンバーガー片手に、東横キッズを観察する。
……彼らは面白い。人という括りでありながら、まるで野生動物のように直情的なのだ。
最初僕には、世界の端っこみたいな自由を生きている彼らが、自分とは違う生き物に見えた。蔑んですらいた。でも何度も足を運んでいる内に、軽蔑は消え、ただただ羨ましいと思うようになっていた。なぜか? 簡単だ。
……僕は共感してしまっていたのだ、彼らに。
居場所をなくした人間が、居場所を求めて集まる場所。それが東横だ。
つまり、僕が欲しいのは友達ではなく、僕を肯定してくれる居場所なのだろう。
母さんのために勉強して、母さんを喜ばせるために良い点数を取る僕の人生は、いったい誰のためにあるのか?
僕が生きている意味って何だ?
自己という認識が曖昧だから、他人から肯定されることでしか存在理由を得られない。でも深くは関わろうとしないから、深く関わらないと認められない世界だから、結局家も学校も僕の居場所になり得ない。
そうやって拗らせて出来上がったのが、他者評価に縋って生きている、自己承認欲求のバグった痛い奴ってわけだ。
しかしだからと言って、居場所欲しさに彼らに混ざるのは気が引ける。今ある恵まれた環境を捨ててあそこに行くのは、現代社会で生きることを放棄したようなものだ。
僕はそこまで馬鹿にはなれないし、だから誰も僕を見てくれないのだろう。
「……はぁ」
気分転換に来たつもりが、猛烈に気分が落ちてしまった。今日は帰ろう。
そう思いポテトを頬張った時、不意に肩を叩かれた。
ここにいるとよく話しかけられる。今回もその類だろうと振り返った九十九の目が……点になり、徐々に見開かれ、恐怖に染まった。
「……やあ。お隣良いかな?」
整った顔が、少しだけ気まずそうに苦笑する。
スーツを着崩した春國に見下ろされ、九十九は蛇に睨まれた蛙のように固まってしまった。
「よっこらせ」と隣に座ってきた春國から目を逸らしたまま、九十九はどうやって言い訳するかのみを考えていた。
バクバクとうるさい心臓の音を聞きながら、しかし九十九の口は震えたまま開いてくれない。もしこれが母親にバレたら、学校にバレたら、そんな未来がどうしようもなく恐ろしくて、彼は一向に切り出せないでいた。
……そんな九十九を微笑ましげに見ながら、春國は煙草を咥え、火を付けた。
「……良いよね、ここ。安心できる」
春國から出た意外な言葉に、九十九は「え?」と顔を上げる。
「馬鹿笑いして、殴り合って、自分の汚い部分を見せ合った上で、全肯定してくれる。私もたまに来るんだよ、窮屈な社会に疲れた時」
「……先生もですか?」
「うん」と紫煙を燻らせる春國の横顔は、どこか疲れたような色をしていた。
「……煙草吸うんですね。嫌いそうなのに」
「大人は誰しも、人には言えない一面を持っているものさ。それより先生もってことは、九十九君もそういう理由で?」
「いや、僕は……」
九十九は迷った。
ここで本心を話したところで、見逃してもらえるのか? ……しかしそんな恐怖とは別に、この悩みを誰かと共有したいという願望もあった。
初めてバレた相手が、学校で人気な爽やか教師。まるで共犯者を見つけた時のような高揚感が、九十九の中に芽生えていた。
だからかもしれない。九十九は危険だと知りながらも、自身の境遇や悩みを春國に打ち明けた。
「……なるほどね」
話を聞き終えた春國が、煙草を携帯灰皿に捨てる。
「実に本質的な悩みだね。面白い」
「面白いとか言わないでくれます? これでも結構悩んでいるんですから」
「君の悩みは、人間であれば誰しもが直面する命題さ。ほら、かの御仁も言っているだろう? 人間はポリス的動物である。ってね」
「アリストテレスですか」
「ハハっ、倫理科目も抜かりないね! つまり、自分の存在が誰かに必要とされて、初めて自分になれる。承認されて、理解されて、初めて人は輪郭を持つんだ。居場所が欲しいと願うことは、生きたいと願うこととほぼ同義なんだよ」
少し言葉を切り、春國は遠くの笑い声に視線を投げた。
「……逆に言えば、誰にも認められず、どこにも属せないまま生き続けるって、人間にとっては死ぬよりも辛いことなんだよ」
「……だから彼らは、ここに集まって先のない幸福を享受している、と」
「君も、私も、ね。飲むかい?」
ゴソゴソと鞄を漁った春國が、酎ハイを渡してくる。
正気かこの人?
「未成年の、それも教え子に酒を勧めないでください。通報しますよ?」
「おっとそれはまずい」
ケラケラと笑う春國に、九十九も笑ってしまう。
「……僕は、どうすれば良いんですかね?」
「それは、どうやったら自分の居場所を見つけられるかって話?」
「はい」
「そんなの簡単でしょ」
「え?」と振り向く九十九に、春國は酒を飲みながら微笑む。
「新しい場所に、自分から飛び込んでいく他ないでしょ」
「飛び込む……」
「待っているだけで世界が動いてくれるのは、ハイハイしている時までだよ。何もしていないのに何かを望むなんて、それこそ傲慢だ。
家にも、学校にも居場所がないと思うなら、別の場所を探せばいい。九十九君が見ている世界は、そんなに狭いものなのかい?」
「……」
「君は特段頭が良い。職業柄そういう子達はいっぱい見てきたけど、皆考えすぎちゃう節があるんだよね。
もっと気楽に、自分に素直に生きなさい! 世の中は広いぞ〜!」
「恥ずかしいからやめてください」
酎ハイを夜空に掲げる酔っ払いを落ち着かせながら、九十九は一緒に雄叫びを上げ始める東横キッズに会釈する。
羞恥と諦念を感じながらも、自分の心が軽くなっているのを自覚した。
団体に混ざって大声で歌っている春國に溜息を吐き、九十九はゴミを纏める。
「では、僕は帰りますので」
「え⁉︎ もう帰るの⁉︎」
「四時前ですよ? 大の教師が夜遊びを勧めないでください」
「ハハっ、間違いない!」
「それに、良い教訓も得られましたから」
「……それって先生を反面教師に、とかそういうのじゃないよね?」
「さぁどうだか」
九十九の笑みから影が消えているのを見て、春國も安心する。
「補導されないようにね〜! あと今日のことは、お互い内緒にしとこうね〜!」
「助かります」
後ろ手を振った九十九は、妙に晴れやかな気持ちで夜の街を後にした。
自動ドアを潜り、エントランスに入る。
見慣れた空間がやけに人工的に感じられるのは、脳がまだあちら側の温度を引きずっているからだろう。
「九十九様」
「っ⁉︎ え、あ、はい?」
突然声をかけられ、反射的に振り返る。
エントランス脇に座るコンシェルジュが、カウンターの上に白い封筒を置いた。
「一時間ほど前でしょうか。警察の方が来られて、こちらを九十九様に、と」
っけ、警察⁉︎ 一瞬心臓が跳ねるが、顔に出ないように封筒を受け取る。
戸惑いながら手に取ったそれは、どこにでもある白のクラフト紙。差出人の記載も、ロゴも何もない、ただの真っ白な封筒だった。
……中身が何であれ、警察にマークされる覚えはない……筈だ。あの場所に行っただけでそんな……。ただの誤配、誰かのイタズラ、そう思いたい。
耳を立てたアゲパンがベッドの上で体を起こすが、九十九はデスクライトを付け、脇目も振らずに封筒を開封する。
……中に入っていたのは、文庫本ほどの厚紙一枚。そこには一言の文章もなく、ただ中央にQRコードが一つだけ配置されていた。
「……こわ」
咄嗟にゴミ箱に捨てかけるが、手が止まる。
……警察が持ってきた物を、果たして捨てて良いものか?
九十九は訝しみながらも、スマホのカメラを起動する。コードを読み込んだ瞬間、ピンッと軽快な電子音が鳴り、画面が切り替わった。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【TERRARIUM】からの招待状を受け取りますか?
YES NO
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「……?」
防犯キャンペーンか何かか? 申し訳ないが興味ない。NOを選ぼうとした九十九は、しかしそこで、ついさっき言われた言葉を思い出す。
《新しい場所に、自分から飛び込んでいく他ないでしょ》
警察のキャンペーンに、自分の居場所があるとは思えない。しかしだ、そういう決めつけが、僕というつまらない人間を生み出したのもまた事実。
全くの未知に飛び込む勇気、今の僕に必要なのは、まさにそれだ。
意を決した九十九の指が、YESをタップした。
途端、招待画面は消え、見慣れた待ち受けに戻ってしまう。
「……ん? 終わり?」
メールが来ているわけでも、アプリが追加されたわけでもない。何とも拍子抜けな最後だが、まぁ明日にでも連絡が来るだろう。
「起こしてごめん。おいで」
ベッドに入った九十九が掛け布団を捲ると、アゲパンが嬉しそうに潜り込んでくる。
「今日は何して遊んでもらったんだ?」
「ワゥフ」
「夕食の時のテンション的に、……フリスビーだな?」
「ヴフッ」
「ほら正解だ。ハハっ。……犬飼さんにも、今度お礼しないとね」
お世話になっているペットシッターの顔を思い浮かべながら、リモコンで電気を消す。お日様の香りがする体毛に顔をうずめて、九十九は目を閉じた。
……確かな成長を、己の中に感じながら。
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