眠れぬ夜の夜話
江川太洋
眠れぬ夜の夜話
眠れぬ夜は人の都合も時間も選ばず、土足で部屋に押し入る闖入者みたいだ。融通も利かず、こちらの請願などお構いなしだ。
皆眠れぬ夜はどうしているのだろう? 私は眠れなくなる度に、今度
ミカもよく眠れなくなると言っていた。ほんと嫌になるよね。でも焦ったら奴らの思う壺だから、それだけは絶対やったら駄目。ミカはそう憎々しげに不眠を擬人化した。私は今夜のミカが眠れていない確信があったので電話した。三度目の着信音で電話に出たミカは、電話したのが私と知ると気の抜けた声で、ああと言った。それは耳元に吐息を吹きかけられたみたいだった。
「何よ、こんな時間に」
「どうせ今夜は眠れてないだろうって、何でか知らないけど、絶対そうだって思ったからさ」
「どうせそうですよ。当たり。でもそれでこんな時間に電話寄越してくる訳?」
「いや、訊きたいことがあってさ」
「なに?」
「ほら、お前、いつか眠れない夜に焦っちゃ駄目って言ったじゃない? その時に、焦ったら奴らの思う壺って言ったでしょ? 不眠って奴らなの? 奴らって誰かな訳?」
「そうよ」ミカはあっさり答えた。「そんなのも知らなかったの? 当ったり前じゃない」
「そうなの? 知らないの俺だけなの?」
「私の知る限りじゃそうだよ。逆にこっちがびっくりするわ。こんな夜中に、そんな分かりきった電話寄越してくるなんて、ほんとどうかしてるんじゃない?」
「え、じゃあ教えてよ。俺、通ってる病院の先生にだってそんな話聞いたことないよ」
「どうせくだらない話ばかりしてるからでしょ?」
「うん、まあ。又吉が芥川賞取ったとか何とか」
「くっだらない」ミカは吐き捨てた。「そんな話ばっかりしてるからあんた、いつまで経っても分かんないんだよ」
「いや、そういう話を振ってくるのは俺じゃなくて先生の方だよ。だって俺はそんな話どうでもいいんだもの」
「話を逸らされてる。今度そんなくだらない話を振られても、相手にしないことだね」
「分かったよ。で、その奴らって誰なの?」
「タナカミキオ」
「は?」
「私の場合はね。間違いないね。あんたの場合は、あんたにとっての誰かよ」
「すみません。言ってることが全然分からないんですけど」
「あのね」急にミカは諭すような口調になった。「誰にとっても本当に心の底から合わない奴とか、いるだけで全身が嫌だって叫びたくなるような、ものすごい不快になる奴っているでしょ? 不眠はそいつの念が夜に溶けて、こっちに入り込んでくるものなの。だから苛付くし、明日もクソ仕事なのに眠れないとか焦ったりするでしょ? でもそれこそあいつらの思う壺で、こっちがそう思うほど嬉しがってもっと頻繁にやってくるから。だから焦ったり苛々したりしてるところを絶対見せるなって言ったの。普通に生活してても、そういう奴らって誰かが不快な気分になっているのを見て喜んでるでしょ? それと同じ。だって、不眠はあいつらそのものなんだから」
ミカは急に言葉を切ったが、私は咄嗟に何を言えばいいのか、或いは聞けばいいのか思い浮かばなかった。
「えー、溶けるっていうのは、それは奴らは自発的にやってるの?」
「なに、どういうこと?」
「いや、俺もよく分かんないけども、奴らが夜になって溶けるのは、ひょっとして本人の意志とは無関係に勝手に、夜に溶けちゃってるとか、そういうことはないのかなって」
「絶対にない」ミカは断言した。「あのね、これは純粋に悪意からきてるの。それ以外には何もない。奴らはそうしたいから、自発的にそうしてるの。無意識とかそんなこと人前で言ったらマジ恥ずかしいから、絶対言わないで。まあ私くらいならいいけど」
「うわッ」私は声を上げた。
「なに?」
「今時計を見たら四時四十四分」
「うわー」ミカは言った。「うわー。それは良くないわ。変なこと言わないでよ。私も見ちゃったじゃない」
「ごめんごめん。でも自発的ってことは、それをやる方法があるってこと?」
「あんた馬鹿?」ミカの溜息が耳孔をくすぐるように潜り込んできた。「勿論そうに決まってるじゃない。奴らは夜になると、その方法を使って特定の人間の部屋に紛れ込んでくるの」
「え、じゃあお前もその方法知ってる訳?」
「知ってるに決まってるじゃない。そんなの誰だってやってるに決まってるし、私なんか毎晩のように使ってるんだから」
「えーっ? すると、お前、別の誰かを眠れなくさせて、それで喜んでるってこと?」
「何かあんたと話してると、宇宙人と話してる気分になってくるわ」ミカはそこで一度咳払いをしたが、それは小さく可憐な咳払いだった。「それはやってますわよ、勿論。何で私だけがやられっ放しにならなきゃいけない訳? 私だって人間なんだから。そうなったらそれを誰かで解消しないとやってられないじゃないの」
「やられたらやり返せ?」
「当然でしょ」ミカの声は怒気を帯び始めた。「眠れない夜の苦しみはあんただって分かるでしょ? だからあんたも、こうして電話してきてるんでしょ?」
「でも、それって、別の誰かがまたミカと同じことを思って、その方法をまた使いたくなるんじゃ――」
「ああもう! 何だろうね、ほんと何も分かってないんだ? 不思議だわ。そんなの当り前でしょ! だって不眠はやられた奴には直接お返しできないんだから。私はタナカミキオにはやり返せないの。だから他の奴にやるしかないじゃない? それで他の奴が苦しんだからって、それが一体何なのよ? 私はそうしたくてやってるんだから。私と同じく別の奴が苦しむのが当然でしょ?」
「当然――」私は腹に一撃喰らったように呻いた。私の知らないミカが急に現れたようだった。いや、ずっと前からミカはこうなっていて、それを私だけが知らなかったのかも知れない。「すると、誰かがやったのが他の奴に移って、そういうのが延々繰り返されてるってこと?」
「何であんたがそれを知らずに生きてこれたのか、本当に不思議になるわ。ずっと何処かに監禁されてた? 当然そうに決まってる。現に不眠は世界中の夜を覆ってるじゃない? あんたも自分が知る、知らないに関わらず、もうとっくにその渦の中に巻き込まれちゃってるじゃない? それを今更何言っちゃってる訳?」
「いや、それは自分でも何とも」
ミカの微かな笑い声がした。「まあ、あんたいつも、実際辛い目に遭ってるのに気付かない、鈍感なとこがあったからね。あんたらしいって言えば、らしいかな」
「あのさ。そんなに術っていうのか方法が確立してるくらいなら、それを防ぐ方法はないの?」
「あんた本気で言ってんの?」ミカの口調が激変した。「そんな方法があれば、不眠なんか起こってないじゃない。バッカじゃない!」
「そんな怒るなよ。ほんとに分かんないんだよ」
「さっき一瞬、あんた、ほのぼのしてていいなとか、ちょっとでも思った自分が馬鹿だったわ。悪いけど、ちょっともう切るわ」
「何で? 何だか知らないけど、怒らせる気はなかったんだよ。ごめん。悪かった。謝るよ」
「分かった」とミカは応じたものの、石のような沈黙が訪れた。「悪気がないのは、分かった。でも、これ以上、あんたと話してたら私が夜にあんたを訪れそうになるから。それは私も嫌だから、とりあえず今日は切るわ。いい?」
「分かったよ。悪かったね、こんな時間に」
「うん。まあいいわ。じゃまた」
投げ遣りな口調で通話が切れた。私はぼーっとしてしまった。ミカとは四、五年前に一度付き合ったことがあった。お互い色々と事情があって半年も持たずに別れたが、今のミカは完全に私の知るミカではなかった。ミカは口も態度も横柄だが所謂ツンデレで、本当は心根のやさしい女だったはずだ。
私はミカと付き合う前に、職場の人間関係に悩んで消耗していた。二人で遅くまで居酒屋のお座敷で飲んでいた時に、ミカが自分の胸を差し出して、ほら、これでも触って元気出しなよと言ってきたことがあった。大した大きくもない平板な胸だった。私は申し出を固辞したが、ミカがそんな方法でやさしさを示してくれたことにはとても感謝したのを今も覚えていたのに、それが今のは一体何だったのか!
それにもし、今のミカの信じ難い話が仮に真実だとしたら、一体誰が今ここに紛れ込んでいるのだろうと考えて私は
ミカだけは私には不眠を仕掛けていないと思いたかった。
眠れぬ夜の夜話 江川太洋 @WorrdBeans
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