第38話 挨拶

「おぇぇ……っ」


​「大丈夫ですか、プロデューサー。はい、水です。」


​「あ、ありがとう……」

 アカリから手渡された水筒を受け取り、僕はしばらく地面に這いつくばったまま激しく咳き込んだ。三半規管が完全にイカれている。


 地面がまだ波打っているような錯覚に陥り、胃の腑がぐるぐると回っていた。


​「いやー、早かったね! 昼前には着いちゃったよ!」


 ​セイヴィアが軽くストレッチをしながら、全く疲れた様子のない顔で周囲を見渡す。


 「全く情けねぇな。少し揺れたくらいでそんなにへばってるとはよ」

 

 ふらつく僕を見下ろしながら、コナトスが鼻で笑った。いつものように腕を組み、余裕ぶった態度をとっているが、その声はどこか上ずっている。


「コナトスさん、足震えてますよ」

 

 すかさず、隣にいたゴレムさんが淡々とした声で指摘した。

 

 言われてみれば、コナトスの膝は生まれたての子鹿のように小刻みに震えている。いつもは血色の良い彼の顔も青白く、額にはうっすらと冷や汗まで浮かんでいた。


(……ただのやせ我慢じゃないか)

 

 胃のムカつきに耐えながら、僕は心の中でそっと呟いた。どうやら、先程の常軌を逸した移動速度にやられたのは僕だけではなかったらしい。


「……アカリさん、二人を治してあげて下さい」

 

 冷静なゴレムさんの言葉に、アカリは呆れたように肩をすくめた。


「……はぁ、すでに先行きが思いやられるのですが」

 

 アカリは深々とため息をつきながらも、僕とコナトスの方へと近づき、そっと癒やしの手を差し伸べた。


 空からの入国という馬鹿げた移動方法も、アカリの光魔法による光学迷彩によって騒ぎを起こさずに実行できたため、本当にアカリ様々だ。



⬜⬜⬜⬜⬜



 アカリの温かい光に包まれると、先程までの最悪な気分の悪さが嘘のように引いていった。激しく波打っていた胃は落ち着きを取り戻し、視界の揺れも完全に収まった。


 隣を見ると、生まれたての子鹿のようだったコナトスの膝の震えもぴたりと止まり、いつもの血色の良い顔に戻っている。彼は「ふんっ」と鼻を鳴らし、再び堂々と腕を組んだ。


「とりあえず宿を探しましょうか」

 

 周囲の様子を伺いながら、ゴレムさんが淡々と提案する。


「それならボクに任せてよ。ちょっとの間だけどこっちに居たからね」

 

 セイヴィアが胸を張り、自信満々な笑みを浮かべた。

 

 その言葉を聞いて、僕はハッとした。そういえば、元々僕たちはここでセイヴィアと落ち合う予定だったのだ。色々なトラブルがあったとはいえ、守れなかった約束に対して胸の奥に少しだけ罪悪感が芽生える。


「とりあえず着いて来てよ」

 

 セイヴィアが先導するように歩き出し、僕たちもそれに続こうと足を踏み出した、その瞬間だった。


「全員止まれ」

 

 唐突に、低く鋭いシュピーゲルさんの声が響いた。

 

 何事かと足を止め、シュピーゲルさんの方へと視線を向ける。彼は前方を歩くわけでもなく、ただじっと、ある一点の方向を鋭い眼光で見つめていた。

 

 僕も彼が見つめる方向へと目を向ける。そして、すぐにとある『違和感』に気づいた。

 

 大通りを行き交う群衆の頭上。そこだけ、横一線に空間が陽炎のように歪んでいるのだ。

 

 そしてその『歪み』は、音もなく、しかし確実な殺意を持ってこちらへ徐々に向かって来ていた。


『風よ……護れ』

 

 シュピーゲルさんが短く詠唱を紡ぐ。瞬時に僕たちの前面に、分厚い風の防壁が展開された。


 直後、不可視の歪みが風の防壁に激突する。

 

 凄まじい衝撃。防壁が歪みを弾き返すかと思いきや、その歪みは風の防壁を容赦なく削り取り、周囲へと無差別に散らしていく。

 

 圧縮され、削り散らされた暴風が周囲を激しく吹き荒れる。外套がバタバタと暴れ、目を開けているのもやっとの状態だ。


「チッ」

 

 シュピーゲルさんが短く舌打ちをし、力強く腕を大きく振るった。

 

 すると、平面だった風の防壁が形を変え、全体を包み込むような丸みを帯びたドーム状へと変形していく。彼は真正面から受け止めるのをやめ、迫り来る歪みの進路を滑らせるように誘導し、斜め後ろへと反らしたのだ。


「こ、これは一体……」

 

 僕が強風に耐えながらそう問い掛けようとしたとき、背後からズズンッ……と、何かが巨大な質量を伴って崩れ落ちるような轟音が響き渡った。


「「「きゃあああああっ!!」」」

 

 群衆の悲鳴が辺りに木霊する。

 

 慌てて振り返った僕の目に飛び込んできたのは、信じられない光景だった。

 

 背後に建っていた頑丈そうな石造りの建物が、まるでバターでもナイフで切ったかのように、斜めにスッパリと切断されていたのだ。


「なっ!?」

 

 あまりの非現実的な光景に、僕は間の抜けた声を漏らすことしかできない。


「随分と手荒な挨拶だな」

 

 防壁を解いたシュピーゲルさんが、油断なく前を見据えながら低く唸った。

 

 群衆が、まるで目に見えない巨大な恐怖に怯えるように、悲鳴を上げながら道の両端へと避けていく。

 

 そして、人波が割れて伴うように出来た道の真ん中を、ゆっくりと、悠然とした足取りで一人の男が歩いてきた。


「この『挨拶』は英雄殿に受けて貰いたかったんじゃが、少し過保護が過ぎないかのぉ? 」

 

 しわがれてはいるが、底知れぬ圧を孕んだ声。剣聖アレス・シュバートは、口元に不敵な笑みを浮かべながら僕たちを見据えていた。


「よくぞ来られた英雄殿! 楽しみにしておったぞ!!」

 

 アレスはしわがれた声に不似合いな、まるで新しい玩具を見つけた子どものような無邪気な笑みを浮かべて両手を広げた。


「……一体何の用ですか? 約束の日時はまだのはずですけど」

 

 僕は警戒を緩めず、右手に魔力を集中させて氷の剣を生成しながらアレスに問い掛ける。冷気が周囲の空気を薄っすらと白く染め上げた。

 

 その剣を見たアレスは、慌てて両手を振って弁明する。


「ああ、別に戦いに来た訳じゃないぞ! 宿の案内をしに来ただけじゃ。その証拠にさっきの『斬撃』もちゃんと手加減したし」


(……これで手加減したのか!?)

 

 僕は背後でバターのようにスッパリと斜めに切り裂かれた凄惨な建物の残骸を横目で見て、心の中で戦々恐々とする。あれが直撃していたらと思うと背筋が凍る。

 

 その間にも、剣聖の異常な気配に圧倒されて息を呑んでいた周囲の人々が、徐々にざわめき始めていた。当然だ。市街地のど真ん中でこれだけの甚大な被害が出たのだ。事態を呑み込んだ群衆が直にパニックになるのは目に見えている。


「騒がしい」

 

 アレスが、ひどく冷めた声でポツリと呟いた。

 

 ――次の瞬間、空気が凍りついた。

 

 アレスの全身から圧倒的で濃密な『殺気』が放たれた。それは単なる威圧ではない。その場にいる全ての者の首筋に、冷たく鋭利な剣が深々と突き立てられているような、明確な死のヴィジョンが脳裏に叩き込まれる。


「ヒッ……!」

 

 圧倒的な殺気に当てられ、人々は蛇に睨まれたカエルのように完全に硬直した。悲鳴すら喉の奥で凍りつき、それどころか白目を剥き、口から泡を吹いてその場にバタバタと倒れ伏す者まで出てくる始末だ。


「これで静かになったな」

 

 地獄のような光景を前に、アレスは満足そうに頷いた。


「止めろ」

 

 僕は低く、怒りを込めて彼を睨みつける。


「ん? 心配せずともショック死しない程度に手加減はしておるぞ?」

 

 悪びれる様子など微塵もなく、アレスはきょとんとした顔で首を傾げた。


「止めろ」


「こっちの方が歩き易いのじゃが」


「止めろ」

 

 僕が一切の妥協を許さない声で三度目の拒絶を突きつけると、アレスは大袈裟に肩をすくめた。


「はぁ……了解じゃ、英雄殿には敵わんの」

 

 アレスがため息をついた瞬間、辺りを支配していた泥のように重い殺気が嘘のように霧散した。人々の首筋に当てられていた死のヴィジョンも幻のように消えてなくなる。

 

 張り詰めていた糸が切れたように、群衆から安堵の息やむせび泣く声が漏れ聞こえ始めた。

 

 そんな周囲の様子など全く意に介さず、アレスはくるりと背を向ける。


「それじゃあ着いてまいれ」

 

 剣聖はそう言い残し、さも当然のように、怯える人々の波を割って悠然と歩き出した。

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