水葬
虚薄-コハク-
第1話
彼女と出掛けた縁日で、ふと金魚すくいの青いオケに目がいった。周りを囲む子どもの手から逃げ惑う赤黒の金魚の群れと、そこからぽつりとはずれて逃げようともしない黒い金魚。
「お父さんあれならとれるって!」
「あれはやめとけ、たぶん病気だ。すぐ死んじゃうよ」
親子のヒソヒソ声が聞こえる。
立ち止まった俺に気付かずに彼女は数メートル先まで行っていたようだ。
「もー!なに?何かあった?」
俺は無言で財布を取りだして、金魚屋の店主に百円玉を渡した。
数分後、俺の手には黒い金魚の入ったビニール袋がぶら下げられていた。
「飼うの?それ」
ペットに興味が無いことを知っている彼女が怪訝そうにしている。
「さあ。どうしようかな」
命が無造作に手の中にある。
いつまで生かすもいつ殺すも自分の思うようにできる。
たぶん俺はその時、笑っていた。
◆
「変だよねあの子」
「空気読めよって感じ」
「被害者ぶってさ」
「ド正論求めてないっての」
聞き飽きた。
彼女たちの声はもう言葉にすら聞こえない。壊れたテープレコーダーだ。繰り返しに耐えていたところで永遠に止まないこともわかっていた。
「何様のつもり?」
何様でもない。
ただ、私は、違うことは違うと言うのをやめられなかっただけだった。
世の中ではそれは疎まれる行動で、悪いことが正しくなる世界もあるのだと知らなかっただけだった。
本当はもっと前に、そう、中学や高校で?学ぶものらしい。人と上手くやって生きたければオウム返しに徹しろということを。
私にはそれがわからなかった。
口を開く。陰口を叩かれる。
相談する。陰で相談内容を回して笑いものにされる。
口を閉じる。何か喋れと不機嫌にさせる。
詰み。というやつだ。
こういう時私は、自殺することにしている。
自殺と言ってもたかだかインターネット。アカウントを消してアプリを消して、あとは傷の消えるのを黙って待っていればいい。
削除ボタンに指をかけた時、その瞬間に、声をかけられた。
「ねえ」
手が止まった。
「苦しい?」
両目が熱くなった。こらえていたものを全て嘔吐するように口が動いていた。
「しにたい」
「そう。じゃあ、もうここから離れよう」
神様のように笑って彼は言った。
◆
早めに切り上げ、彼女を駅まで送り届け、祭りの帰りに、閉店直前のペットショップで水槽を買った。エアーと、小型魚にやる中では高価な餌も買った。
黒い金魚は相変わらずじっと、ちょうど袋の中央に漂っていた。
家に帰って水槽を設置し店主に分けてもらったカルキの抜けた水を入れて金魚を放した。
エアーの音が無音だった部屋に響くのがなんだか滑稽だった。
まるで生き物がいるみたいだ。
食べるかは分からないが餌を投下し、頑張って生きてくれよと声をかけた。
水に映った俺は無表情だった。
◆
「きみはおかしいかもしれない。病気かもしれない。でも周りに合わせる必要なんてない」
「そのままの君でいて」
「好きだ」
「愛してる」
受信した言葉はどれも肯定だった。一年でいちばん嫌いな誕生日には、今日まで生きてくれてありがとうと封筒が届いた。読みたいと言っていた本が何冊も何冊も届いた。
そして彼はまた優しく言うのだ。
「君さえいれば僕はいいんだから」
「愛してる」
そうか、この人さえいればいいのか。
この人さえいれば私はひとりぼっちにはならないのか。
麻酔のようにその言葉は血液に浸透していった。
◆
黒い金魚に飽きてきた。
相変わらず食も細ければ泳ぎ回ることもしない。特に見た目がいいわけでもない。
ある日は餌を与え。
ある日は与えず。
ある日は優しい言葉かけをし。
ある日はエアーの電源を抜き。
2日ほど無視をし。
そうしていると黒い金魚が、俺を見るとガラス越しまで寄ってくるようになった。
黒い目に光は無い。
俺が映っているだけだ。
寄ってきた時だけ餌をやることにした。
◆
些細なことで言い合いになった。
そんなに理解があるならあの子と付き合えばいいじゃない!と泣きながら言う私に、彼はとんでもなく冷たくこう言った。
「じゃあ教えてあげる。あの子とは付き合うに至らなかっただけで好き同士だったよ」
的確に私の心をえぐるナイフを彼は持っている。
死なない程度に刺して、痛みにうずくまって延々と謝る私にさらに慇懃丁寧に、まるで紳士の語り口で存在を否定する言葉をかけ続けた。
そして2日後。着信。
「そろそろ僕が君の言葉でどれくらい傷ついたか分かったと思うので、君を許すことにします!」
悪魔だ、と思った。
◆
黒い金魚が生存にしがみついて自分に懐こうという姿勢を見せることに嫌悪感を感じ始めた。
そろそろ終わりかな、と終わり方を考え始める日々が始まった。
隣により鮮やかな魚を置いておもいきり愛でて金魚を無視しようか。
どこかに置き去りにしようか。
餌とエアーを止めて勝手に死ぬのを待とうか。
近所の猫にでも与えようか。
考えた末に、俺は最初に持ち帰った手提げ袋に金魚を移して海に向かって歩き出した。
◆
「消えてください」
「僕に二度と関わらないでください」
「また病気を盾にするんですか。便利でいいですね」
「信じてないんですね」
「僕は人間に興味が無いので」
「それでは失礼します」
2回目にして最後の口論の日、私はオウム返しをやめた。
彼の『逃げ』を、『課題』を広げて見せて、自分との縁が終わってもそれを直さなければ人と生きてはいけないと諭した。
彼はただ
「この時間がとても無駄だと思っています」
「今までの子たちは『待て』ができるいい子たちでした」
と無感情に返した。
憎悪の言葉は吐かなかった。
ただ、その行先を案じて忠告をした。必死で。
「ご忠告ありがとうございます」
まるでbotと話しているようだった。
そうして私は、死ぬことを決めた。
◆
夜の海。
空港まで伸びる巨大な橋の中途半端な位置までいって、最後に袋の中の金魚を見た。
ここで足掻けば違う未来もあったかもしれないのに、所詮魚だなと笑う。
紐を指にかけて、おもいきり暗い海に向かって放り投げた。
着水の音は波に消されて聞こえなかった。
俺はその場から彼女に電話をかけ、コンビニで飲み物やら何やら頼まれたものを買い込み、彼女の家に向かった。
翌朝自宅に帰り、不要ながらくたを全てゴミ袋につっこんでゴミステーションに捨てた。
◆
ペアで作ったアイコンを消す。
アカウントを消す。
アプリを消す。
ブロック、消去。
削除。
削除、削除、削除、削除。
彼と一緒にいた女の子はその日、命を絶った。
残ったのは重症化した不安障害と鬱、パニック、自傷行為の跡だけだった。
「人に興味が無いのに、愛がわかるわけが無い」
彼に投げた言葉を呟いてみた。
自分にも愛なんて分からない。
ただ泥沼のような倦怠感と睡魔に包まれながら、水音を聞いた気がした。
吐く息が泡になって水面に上がって行った。
記憶がどんどんブラックアウトしていく。
病気で先のない、いらない存在。
生きたおもちゃとして飼われて殺された存在。
視界の端を金魚の死骸が横切った気がした。
水葬 虚薄-コハク- @hakuanoyohaku
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