第3部

第1話 たゆたう雲海にひそむ

 聖教会の記録にはこう記されている。


 ――かつて災厄をばら撒いた、

 大魔王ターニャんの記録。


 けれど、

 別の古い書物には、こう記されていた。


 ――大英雄ターニャの献身の記録。


 どちらが真実なのか。


 あるいは。


 どちらも真実なのか。


 かつて聖教会は、

 英雄ターニャ封印の日を

 『魔王封印の日』と発表した。


 そして年号を定めた。


 聖印元年。


 それから――


 千年。




 ――魔王ターニャんの塔――

 ……の周りの雲の上。


「ふははははははは!!」


 雲海に、場違いな高笑いが響いた。


「ターニャん、復活!!」


 両手を広げる。


 黒い外套。

 銀色の髪。

 小柄な身体。

 堂々たる仁王立ち。


 どう見ても、

 世界征服を企む大魔王だった。


 なお、


「ターニャん様」


 隣から冷静な声が。


「もう数日前に復活されていますよ」


「おお、ゾフィー!」


 ターニャんは振り向く。


「今日も絶好の支配日和じゃな!」


「左様で」


 深緑の髪を揺らす少女は、

 慣れた様子で頷いた。


「ちなみに支配日和という気象区分は存在しません」


「ぽよぇ?」


「なんでもございません」


 ターニャんは腕を組み、

 ふんすと鼻を鳴らす。


「では改めて見よ!」


 雲の端へ歩く。


 眼下。

 そこには都市が広がっていた。

 塔の麓に築かれた街。

 水の都ルシエル。


 ――もとい。


 大魔王ターニャんの領地、

 魔王領ルシエル。


 ターニャんの意図せぬ善行が続いていた頃、

 この地は「女神領」と呼ばれていた。

 もっとも本人は不服であり、現在は正式に魔王領ルシエルを名乗っている。


 かつて――


 豊穣の雲から流れ落ちる水が、

 この地を潤していた。


 だが今、雲海は白くたゆたっていた。


 千年のあいだ育まれた水路と工業。

 豊かな庭園や活気ある街並みを活かした観光産業。

 ルシエルは独自の発展を遂げていた。


「……む」


 ターニャんが首を傾げた。


「なんじゃ、あのホロホロ具合は」


「ホロホロ?」


「人間じゃよ」


 雲の上からは地上が良く見えた。


 都市の市場。

 行き交う街路。

 寄合。

 人はいる。

 だが、どこか少ない。


「人間、減ったのう」


「ええ」


 ゾフィーが答える。


「かなり」


「……我のせい?」


 ほんの少しだけ、

 ターニャんの声が弱くなる。


「大体そうですね」


 ゾフィーは頷いた。


 もっとも――


(ターニャん様ではなく、別の“魔王”なのですけどね)


 英雄だったこと。

 千年前の真実。

 隣にいた聖女の存在。


 その記憶を、

 ターニャんは持っていない。


 だからゾフィーも言わない。


 まだ。


「豊穣の雲の恩恵でルシエルは栄えましたが、

 飢饉による食糧不足、水不足、

 そして魔物の脅威は、未だ解決していません」


 ゾフィーが言い終えたとき、

 耳飾りが、かすかに銀光を放った。

 ゾフィーの目が細くなる。


「これは……反応?」


「む?」


 視線を下へ向ける。

 魔王領ルシエルの城下。


 街の一角で煙が上がり、

 ざわめきと逃げ惑う人々の叫び。

 応戦する警備隊。


 それを見てなぜか。

 ターニャんの胸が、小さくざわついた。


「魔物です」


 ゾフィーが言う。


「数は……多めですね」


「ふむぅ……」


 ターニャんは考えた。


「あれ?」


「どうされましたか?」


「我って魔王じゃよね?」


「……左様でございます」


「なんか今、間がなかったかの?」


「気のせいでございます」


「まぁ良い」


 ターニャんは腕を組んだ。


「魔王ということは、魔物を操っているのは我じゃろ?」


「あっ」


「我、魔物たちに何か命令した記憶ないんじゃが?」


 ゾフィーは少しだけ空を見た。


(実際は魔王軍残党なのですが……説明すると長くなりますね……)


「……命令違反ですね」


「ふむぅ」


 ターニャんは真顔になる。


「王の命令なく勝手に人間を襲うとは……」


ターニャんは腕を組み、真剣な顔で唸った。


(……まさか)


ゾフィーの胸に嫌な予感が走る。


「人間を恐怖に陥れるのは我の仕事ぞ!!」


ぷんすか。


「お仕置きせねば!!」


 拳を握る。

 怒っていた。

 完全に。


(あっ)


 ゾフィーは思い出した。


(そうでした。ターニャん様、アホの子だった……)


 黒い外套が翻る。


「行くぞゾフィー!!」


「はいはい」


 そして。


 魔王は。


 街へ向かって飛び降りた。

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