第30話 その揺り籠は神を知らない
黒く脈動した。
リリの胸に浮かぶ紋様。
それはもはや
ミルケルの知る術式構造から外れている。
聖印の回路が捻じれ。
別の理へと接続されていた。
「……なぜ」
初めて――
ミルケルの声に動揺が混じる。
術式は完璧だった。
聖女を拘束するためだけに作られた楔。
傷つけず。
害さず。
ただ女神の代弁者を制御するためだけの術。
そのはずだった。
黒い紋様が脈打つ。
どくり。
まるで心臓のように。
不意に、頭の奥へ声が落ちてきた。
『人はね』
『盤面を見てるつもりで』
『だいたい盤の外を見落とすんだよ』
ターニャの呼吸が止まる。
この声は――
忘れるはずがない。
「……ゼファエル」
幻聴なのか?
あるいは残滓か。
空白の塔で死んだ男の、最後の悪意。
ミルケルの顔色が変わる。
「……まさか」
術式を再解析する。
血の気が引いた。
組み込まれている。
知らない回路が。
誰かに。
後から。
改竄されている。
「解除式が……ない……?」
黒い紋様が広がった。
リリが小さく息を呑む。
「……っ」
胸元を押さえる。
淡い金髪が揺れた。
白金色の薄衣が、微かに乱れる。
「リリちゃん?」
ターニャが振り返る。
リリは答えない。
ただ苦しそうに呼吸していた。
胸の奥で何かが軋んでいる。
嫌な音。
生き物が壊れる音。
「ミルケル枢機卿!これは、一体どういうことですか!?」
フェルナンドが問う。
「
ミルケルが叫んだ。
「拘束のみの術式です! これは私の術ではない!」
誰へ向けた言葉だったのか。
弁明か。
否定か。
「ヒ、ヒヒ…こ、こんなこと、聞いていないぞ…」
「わ、我々のあずかり知らぬことだぞ、これは」
ビズレスタとケイステイラーにも焦りが生じる。
そこには聖女を害してしまう罪悪感よりも、害してしまったことで生じる不利益の懸念が先行されていた。
ターニャは聞いていなかった。
見ていた。
リリの苦しそうな顔だけを。
思考が走る。
術式なら発動者を止めるべきだ。
枢機卿ミルケル。
奴を殺せば止まる。
単純だった。
そういう時ほど、人は単純になる。
今でこそ使うべきだ。
手を伸ばす。
空間が裂ける。
闇が漏れる。
現れた、それ。
黒き刃が禍々しく蠢く。
魔王の闇属性を宿す武器。
握った瞬間。
じゅっ。
「っ……!」
焼ける。
掌が。
黒い熱。
異質な痛み。
闇属性は人を選ぶ。
魔王の力は、代償を求める。
けれど、
そんなことどうでもよかった。
痛みなど知るか。
これで終わるなら。
ミルケルを斬れば。
リリが助かるなら。
剣を握る力が強まる。
だが、
「……それは」
か細い声が漏れた。
ターニャが止まる。
リリだった。
胸を押さえながら。
苦しそうに。
それでも、こちらを見ていた。
「それは……ダメ……です」
「……は?」
「ダメ……です……」
聖杖が、微かに光る。
空間が揺れた。
呼応するように、
空間へ戻り、消える。
「な……!」
「ダメ……です……」
リリの声は震えていた。
「それを……使ったら……」
息が乱れる。
けれど、
その瞳だけは揺らがない。
「……戻れなく、なります」
ターニャの喉が詰まった。
わかってしまった。
こんな状況なのに。
こんな時ですら。
リリは。
自分のことを守っている。
黒い紋様が広がる。
胸から。
首へ。
白い肌を侵食していく。
「……リリちゃん」
リリは、少しだけ笑った。
淡い金髪が夜風に揺れる。
粉雪みたいな白金色の光が零れていた。
「……大丈夫」
小さな声。
「ターニャさんの名誉は……私が守りますから」
「なに言って――」
「その手は」
リリが、ターニャの焼けた手へ触れた。
優しかった。
「人を殺めるためのものじゃなくて」
指先が震える。
「未来を切り開くための手です」
「やめてよ……」
「道に迷ったら」
呼吸が浅い。
もうわかる。
終わりが近い。
「私が……一緒に歩いてあげます」
笑う。
聖女みたいに。
「何度生まれ変わっても……ね」
崩れた。
「……リリちゃん!」
ターニャが抱きとめる。
軽かった。
なのに。
確かな重みが両腕にあった。
「なに、それ……」
声が震える。
「まるで聖女みたいに笑うじゃん」
リリが、くすりと笑った。
「聖女だっての」
その顔を見て。
ターニャは思った。
――美しいな。
場違いな感想だった。
確かめる間もない。
リリは。
静かに目を閉じた。
そして――
「封印術式完成!」
ミルケルの声。
いつの間にか――
枢機卿の四人は、
リリの最期を待つように四方から取り囲んでいた。
魔法陣が展開する。
魔力を編み込まれた高速具が顕現している。
そしてそれは、ターニャの両手、両足、首へ巻き付いた。
引き裂ける。
そう思った。
同時に、この程度のもの。
でも、そんなことより。
腕の中にある重みが。
少しずつ。
消えていく。
淡い光となって。
粒子となって。
リリの身体から零れ落ちていた。
「――こ、これは」
「経典の……!」
「女神の僕だけに起きる現象……!」
外野がうるさい。
(……しずかにして)
ターニャは思う。
(いま……リリちゃんを見送ってるんだから)
光が空へ昇る。
天へ還るみたいに。
ターニャの腕から。
重力が失われていく。
ごめんね。
リリちゃん。
もう、戦えない。
こんな世界のために。
こんな醜い人たちのために。
このまま私の中には憎しみが残る。
私は英雄じゃなかった。
きっと。
私は魔王になる。
やがて。
腕の中から。
光が消えた。
ぱさり。
一冊の経典が落ちる。
リリがいつも持っていた聖典。
「……これ」
手を伸ばす。
触れる前に。
ページがめくれた。
風もないのに。
意志みたいに。
現れる。
鎖。
光を纏う一本の聖具。
《聖鎖棍アウレリア・カテナ》。
「あれは……聖具……!」
外野がまた何か言っている。
でも。
それは。
優しく。
確かに。
ターニャの腕へ絡みついた。
「……なに」
振り払えない。
強くないのに、枢機卿の術式よりもはるかに。
ゆっくりと締まる。
「っ……!」
胸の奥。
溢れかけていた何かを。
縛るように。
逃がさないように。
固定するように。
理解してしまう。
これは。
リリの最後だ。
「……こんなの」
涙が滲む。
「こんなの……ずるいよ」
殺させないための鎖。
壊させないための鎖。
そして。
繋ぎ止めるための鎖。
「今だ――!!」
声が飛ぶ。
光が降る。
封印陣。
逃げ場はない。
ターニャは立っていた。
動かなかった。
抵抗は。
しない。
できないんじゃない。
しない。
「封印開始!!」
世界が歪む。
空間が閉じる。
「……ねえ」
誰へともなく呟く。
「これで……よかったのかな」
答えはない。
ただ。
一つだけ。
まだ温かい名前があった。
「……リリちゃん」
唇が動く。
「またね」
その言葉を最後に。
光が――閉じた。
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