第12話 わたくしを所有者に

 その頃のことを、エレノアは生涯幾度となく思い返すことになる。


 すべては、二日前の午後から始まった。クロードが部屋を訪れ、重々しく口を開いた時のことだ。


「エレノア様。折り入って、一つお願いがございます」


 いつもと変わらぬ穏やかな声だったが、老執事の目に宿るものが、いつもとは違った。長年仕えてきたクロードの目に、あれほどの切実さを見たのは初めてだったかもしれない。


「本日、とある商店にて、グランタリアの聖女様のご友人とお会いいたしました。その者は薬学に深く通じた方とのことで……どうか一度、直接お会いいただけないでしょうか」


 エレノアは答えず、ただ窓の外の流れる雲を眺めていた。


 またか、という無力感が胸を掠める。


 これまで、この屋敷の扉を叩いた者が何人いたか、もう数えるのも止めていた。王都随一と謳われた白魔導師、辺境から招聘された名だたる術師。彼らは皆、一様に同じ反応を見せた。入室した瞬間に一瞬だけ表情を強張らせ、無意識に視線を逸らす。それでも貴族への体裁を繕いながら「拝見いたします」と型通りの診察を始めるのだ。


 そして最後には、申し訳程度の同情を顔に張り付け、決まって同じ言葉を残して去っていく。


『――これは、私の手に余ります』


 何度聞いたか、わからない。


 クロードも、その結果は痛いほど知っているはずだ。それでもこうして新しい希望を運んでくるのは、亡き夫への忠誠ゆえだとエレノアは理解していた。彼の中に残る最後の縋りどころを、無下にはねつけることだけはできなかった。


「……あなたの、好きにしてちょうだい」


 絞り出すようなその一言が、精一杯の妥協だった。


 そして当日。エレノアはいつものようにサロンで白磁のカップを手にしていた。


 扉が開く乾いた音。クロードの控えめな声。だが、エレノアは顔を向けることができない。この包帯の下に潜む醜悪な自分を、できるだけ晒したくなかった。剥き出しの嫌悪や憐憫を向けられるたび、心の一部が削り取られていく。あの絶望的な視線を、もう二度と受けたくなかった。


 背後から足音が近づき、やがて止まる。


 視界の端に影が落ちた。黒髪の、まだあどけなさの残る少年だ。

 彼は迷いのない足取りでテーブルを回り込み、エレノアの正面に立った。彼女は反射的に、深く目を伏せた。


 その時、衣服が擦れる音と共に、少年がその場に跪いた。


 驚きに目を見開くエレノアの視界の先で、彼は何の躊躇いもなく「失礼する」と短く告げた。そして、包帯に厚く覆われた彼女の右手を、自らの両手でそっと掬い上げたのだ。


 その手は、素手だった。


 これまで訪れた術師たちは、診察の際も指先で触れる程度にするか、露骨に顔を背けていた。手袋を嵌めたまま触れる者さえいた。それが、化け物へと成り果てた自分への「当然の対応」なのだとエレノア自身も言い聞かせてきた。


 だが、この少年は違った。包帯に滲む彼女の絶望ごと包み込むように、温かな掌で優しく、確かに触れていた。


 エレノアは思わず息を呑み、少年の顔を仰ぎ見た。


 視線が、真っ直ぐにぶつかる。それは、凪いだ海のように落ち着いた、暗い色の瞳だった。感情の起伏を悟らせない、底の知れない目。

 しかし、そこには嫌悪も、押し付けがましい憐憫も、形式上の同情すらも欠片ほども存在していなかった。


 少年はただ、目の前にある「事実」だけを真摯に診ていた。


 やがて、少年と視線が重なる。


「……これなら、何とかなりそうだな」


 高揚も気負いもない、独り言のような響き。


「すぐにポーションの調合に入ります」


 エレノアは耳を疑った。

 てっきりこれまでと同じ言葉が返ってくるものとばかり思っていたのだ。


 しかし、これまでの者たちとは違っていた。


『――これは、私の手に余ります』


 少年は何百回と聞いたあの言葉を、口にしなかった。


「善処する」でも「試みる」でもなく、「何とかなる」と言ってのけたのだ。


 エレノアはすぐさま嘘だ、子供の強がりだと否定しようとしたが、その黒い瞳に宿る純然たる確信が、彼女の言葉を封じ込めていた。


「……」


 僅かな胸の高鳴りに気づきながらも、期待するなとそれを押し殺してしまう。


 少年は別室での作業を終えると、再びサロンへ戻ってきた。


 鮮やかな緑色の液体が満ちた小瓶をクロードに託し、就寝前の服用を指示する。即効性はないが、明朝にはすべてが治っているはずだ――そのあまりに大胆な不敵さに、室内には奇妙な緊張が走った。


 少年は去り際、もう二つ小瓶を差し出した。


【シャンプーポーション】と【リンスポーション】。


 髪に艶と張りを与えるというその薬。少年の傍らに立つ少女の、陽光を溶かしたような見事なブロンドを一目見れば、それが単なる気休めではないことは明白だった。


「またお会いしましょう」


 少年はそれだけを言うと、嵐のように去っていった。


 その夜、寝室でクロードから受け取った小瓶を、エレノアは月明かりの下で独り眺めていた。


「……」


 飲む必要などない、と心が冷たく囁く。どうせ夜が明ければ、鏡の中には変わらぬ醜い女が立っているだけだ。期待が大きければ、その分、深い闇へと叩き落とされる。


 自分が再び、柔らかな陽光の下で誇り高く歩む日など、永遠に来ないのだから。 

 そう思いながらも、あの少年の澱みのない瞳が脳裏を離れない。


「……信じたわけでは、ありません」


 誰に言い訳するでもなく呟き、エレノアは小瓶の栓を抜いた。


 期待を裏切られる準備を整えながら、ゆっくりと、その液体を喉の奥へと流し込んでいく。


 特に変化は訪れなかった。身体が熱を帯びることも、奇跡の光が溢れることもない。


「……ま、そうね」


 現実はこんなもの。自嘲気味に笑みを漏らし、彼女は深い眠りへと沈んでいった。


 翌朝。エレノアはカーテンの隙間から差し込む光で目を覚ました。


 その瞬間、言いようのない違和感に襲われる。五年間、一時も欠かすことなく彼女を苛んでいた、火傷痕特有の引き攣るような皮膚の不快感が、嘘のように消え失せていた。


「……」


 困惑しながらも、保湿用のクリームを手に取ろうと上体を起こす。


 そのとき、視線が自らの腕へと落ちた。


「……ありえません」


 震える手で、慎重に、幾重にも巻かれた包帯の端を解いていく。


「そ、そんな……こと」


 一重、また一重と解かれるたび、隙間から「白」が溢れ出した。


「……!」


 指先が止まる。剥き出しになったその肌は、透き通るような白さを湛え、朝の光を瑞々しく弾いていた。

 滑らかな質感、程よい弾力。引き攣った痕跡はおろか、かつて火に焼かれた記憶すらも消し去られたかのような、完璧な肌。


 それは全盛期さえも凌駕するほどに再構築された、奇跡の産物だった。


 寝室がノックされ、クロードが入ってくる。


「!」


 主人の姿を認めた瞬間、老執事の瞳が極限まで見開かれる。背後に控えていたメイドは悲鳴にも似た声を上げ、口元を両手で覆って、どこかへと走り去った。


「エ……エレノア様……」


 クロードの声が、震え、掠れている。長年仕えてきた彼が、これほどまでに感情を露わにする姿を、エレノアは見たことがなかった。


 やがて息を切らせて戻ってきたメイドの手には、一枚の大きな手鏡が握られていた。


「エレノア様、これを!」


 エレノアは祈るような心地で鏡を手に受け取った。


 何年も遠ざけてきたその鏡面。そこに映し出された己の姿を見た瞬間、エレノアの思考は白く染まり、時間は完全に停止した。


「……うそ……」


 鏡の中にいたのは、あの日失った、かつての自分だった。

 いや、五年前の記憶よりもさらに鮮やかで、シワ一つない姿。

 そこに映っていたのは、もはや四十に手が届こうとする女の顔ではなかった。


 二十代の若さと美貌を兼ね備えた、息を呑むほどの絶世の美女がそこにいた。


 言葉が出なかった。感情のダムが決壊し、温かな涙が次から次へと溢れ出し、白い頬を伝って零れ落ちる。


 あの少年は、本当のことを言っていた。


『……これなら、何とかなりそうだな』


 あの傲慢なほどにまっすぐな瞳は、嘘などついていなかったのだ。


「……クロード」

「は、はい」

「あのお方を、お呼びしてちょうだい。すぐに……一刻も早く!」


 会いたかった。


 一刻も早く、あの黒い瞳に。



 ◆



 再び屋敷へと召喚されたのは、陽光が天頂に差し掛かろうとする昼前だった。


 昨日と同じように老執事に案内され、あのサロンの扉を潜る。だが、そこに広がっていたのは、昨日とはまるで別の光景だった。


 窓から降り注ぐ陽光を背に、一人の女がテーブルに腰掛けていた。


 身に纏っているのは、夜の闇を切り出したような漆黒のドレス。そこから伸びる両腕は、陶器のように白く、滑らかだった。指先に至るまで、かつての惨劇を物語る傷跡など、微塵も残っていない。


 俺の入室に気づくと、彼女は音もなく立ち上がり、流れるような所作で恭しく頭を下げた。


 推定年齢、二十代前半。緩やかに波打つ深緑の髪が肩を滑り、淡い翠色の瞳がこちらを真っ直ぐに見つめる。透き通るような白い肌には、昨日の「絶望」の面影はどこにもない。あまりに完成された美貌は、現実のものとは思えないほどの浮世離れした輝きを放っていた。


 未亡人――エレノア=レンバースが、ゆっくりと俺の方へ歩み寄ってくる。


「影山様。昨日は、大変失礼な振る舞いをいたしましたこと、どうかお赦しください」

「いえ、お気になさらず」

「そういう訳には参りません! この御恩、本当にどのような言葉で御礼を申し上げればよいのか――」


 報酬ならすでに、昨日老執事から十分すぎる額を提示されている。そう告げて、早々に立ち去ろうとした、その瞬間だった。


 エレノアが不意に、俺の右手を自らの両手で力強く包み込んだ。


「……え?」


 そのまま抗う間もなく、彼女は俺の手を自身の胸元へと深く引き寄せる。


 ――あまりにも、距離が近い。


 視界が彼女の容姿で埋め尽くされ、手の甲には、ドレス越しに柔らかな弾力がはっきりと伝わってきていた。


「わたくしには、影山様に一生かかっても返しきれぬほどの恩ができてしまいました! この恩に報いねば、亡き夫にも顔向けが立ちません。しかし、困りましたわ。今のわたくしには、影山様の比類なき功績に見合うだけの対価を持ち合わせていないのです」

「いえ、報酬の話でしたら、すでにクロードさんと――」

「良いことを思いつきましたわ!」


 俺の言葉を遮り、彼女は顔を輝かせた。

 その瞳には、昨日までの陰鬱な気配など微塵もなく、むしろ危険なほどの熱量が宿っていた。


「わたくしのこの心と体、その全てを生涯、影山様にお捧げするというのはいかがでしょうか!」

「……は?」


 耳を疑った。整いすぎた彼女の顔を凝視するが、冗談を言っているようには到底見えない。


「名案ですわ! きっと天国の亡き夫も、そうするべきだと背中を押してくださっているに違いありません! クロード、あなたもそう思いますわよね?」


 問われた老執事は、一切の動揺も見せず、むしろ当然と言わんばかりに鷹揚と頷いた。


「左様にございます。エレノア様の誠意を示すには、これ以上ない素晴らしいご提案かと。そうしましたら、早速式の準備を――」


 ……主従揃って、正気なのか。

 この屋敷の空気は、どこか決定的に狂っていた。


「ちょっ、ちょっと待ってください、話が飛びすぎです!」

「あら……影山様は、わたくしのような年増の未亡人はお嫌いでしょうか?」

「いや、そういう問題じゃなくて……」

「では、よろしいのですね?」

「いや、良くないでしょっ!」

「ダメ……なのでしょうか?」


 上目遣いに、甘く、とろけるような声音で畳みかけられ、俺の思考は完全に停止した。


「わたくしは……影山様を、心よりお慕い申しております」


 言い切ると同時に、彼女はさらに一歩、逃げ場を塞ぐように踏み込んでくる。


「ちょッ!?」


 至近距離から押し当てられる確かな体温と、脳を痺れさせるような芳醇な甘い香りに、まともな思考なんてどこかへ吹き飛んでしまう。


「わたくしを……どうぞ、影山様の所有物にしてくださいませ」


 潤んだ瞳で見つめられ、俺は生まれて初めて、心の底からの戦慄を覚えた。

 感謝を通り越し、執着へと変質したその眼差しは、鋭い針のように俺の防衛本能を突き刺してくる。


 ――そして同時に、この場に有栖川がいなかったことを、神に感謝せずにはいられなかった。


 もし彼女がこの光景を目の当たりにしていれば、この屋敷は物理的に崩壊していたに違いない。


「え、えーと……そう! 俺には、その、すでに将来を誓い合った相手がいるんです!」


 もはやなりふり構っていられない。咄嗟に思いついた方便を、必死の思いで口にした。


「ですから、その、お気持ちは大変……光栄なのですが、お受けすることはできません」

「そうなのですか」


 一瞬の沈黙。


 エレノアの翠色の瞳が、湖面に落ちた石のようにわずかに揺れた。しかし、絶望が広がるかと思いきや、即座に蜜のような甘い微笑みがその唇に戻ってくる。


「影山様。この国において、地位ある者が複数の妻を娶ることは、何ら不思議なことではございません」

「は? い、いや、俺はそもそも一般人――平民なんですよ! 貴女のような貴族ではありませんから!」

「何を仰っておられるのです! わたくしと婚姻を結べば、影山様は次代の伯爵。地位も名誉も富もすべて、このわたくしが差し上げますわ」

「……」


 確信した。この女はヤバい。

 長年塞ぎ込んでいたせいで、完全に壊れている。めちゃくちゃ曇っている。


 ――このままでは、有無も言わさぬ勢いで飲み込まれてしまう!


 外見は二十代と若いが、中身は数多の社交界を生き抜いてきた伯爵夫人。清楚な皮を被った、恐るべき捕食者なのだ。


 有栖川とは別の意味で恐ろしい。


「――それに」


 エレノアは俺の手をさらに強く握り締め、熱を帯びた吐息が届くほどの至近距離で続けた。


「そのお相手の方よりも、わたくしの方が、きっと影山様のお役に立てますわ。伯爵家の後ろ盾、社交界への扉、望まれるものは全て、わたくしが用意してみせます。……それに、わたくしこう見えて、床の作法も人並み以上には心得ておりますのよ?」


 その瞳には、冷静な打算と純粋な本気、そして抗い難いほどの情念が同居していた。熟れた果実のような色香が、直接脳の髄まで浸食してくる。


 俺は大きく深呼吸をし、乱れそうになる鼓動を必死に抑え込んだ。


 頭を整理しようと試みるが、至近距離から絶え間なく押し当てられる体温と、狂おしいほど甘い香りが、論理的な思考をことごとく阻害していく。


「……す、少し、考えさせてください!」


 絞り出すように言えたのは、それだけだった。


 今の俺には、この猛攻を受け流す術がない。


 礼儀を欠かない最低限の挨拶をそこそこに、逃げるようにして伯爵邸を後にしたのは、それから間もなくのことだった。



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