第13話 虎の尾を踏んだ

 エレノア・レンバースが社交界に鮮烈な復帰を果たしてから、一週間が経過した。


 あの日、漆黒のドレスを纏い、熱に浮かされたような瞳で俺に婚姻を申し込んできた未亡人は、翌日には早くも貴族たちの夜会にその姿を現したという。


 五年もの間、頑なに解かれることのなかった包帯を脱ぎ捨て、かつての、あるいはそれ以上の美貌を携えて。


「おい、聞いたか? レンバース伯爵がついに包帯を外したらしいぞ」


 明智の店へと向かう道すがら、活気に溢れる酒場の前を通りかかると、開け放たれた扉から男たちの騒がしい声が漏れ聞こえてきた。


「五年ぶりだろ? で、どんな化け物だったんだ? 噂では、そりゃもう悍ましい姿だって話じゃねぇか」

「いや、それがさ……俺の兄貴が給仕で入り込んでたらしいんだが、腰を抜かすほどの美人だったって話だ」

「は? 嘘つけ!」

「いや、これがマジらしいんだわ」

「……化け物じゃなかったとしてもよ、伯爵といえば、もう四十手前だろうに」

「まあ、そうなんだけどな。ここだけの話、若返りの薬を飲んだっていう噂だ」

「ふぁっ!? 若返りの薬だと!? いやいや、さすがにねぇーわ。おとぎ話じゃあるまいし」

「いや、それがそうでもないらしいぜ。例の、ほら。最近話題の商会が絡んでるって話だ」


 隣を歩いていた有栖川が、怪訝そうな顔で俺の袖をぐいと引いた。


「ねえ、若返りって何のこと? あんた、そんなもの作ったの?」

「ちょっとポーションが効きすぎただけだ」

「ちょっとって……一体何がどうなればポーションで若返ったりするのよ! 火傷痕を治すだけじゃなかったの」

「そりゃ、癒着した皮膚を――肌細胞を強引に初期状態まで再構築したらだな……なんか知らんが若返ったみたいなんだよな」

「あんたそんな適当でいいわけ?」

「まあ治ったんだしいいだろ。金もたんまり貰ったしな。つーか、そうでもしないと、あの火傷痕は治せなかったんだ」


 有栖川は小難しそうに眉を寄せ、しばらく考え込む仕草を見せたが、やがて「ふぅーん」と短く呟いた。納得したのか、あるいは考えるのを放棄したのか判然としない横顔で、彼女は再び前を向いて歩き出す。


 俺は黙々と石畳を踏みしめた。


 あの時、エレノアに手を掴まれ、彼女の胸へと無理やり押しつけられた手の甲の感触が、今も忘れられない。それと同時に、至近距離でこちらを値踏みしていた、獲物を逃さない捕食者のような瞳を思い出し、わずかに身震いを覚える。


 結局、俺ははっきりと拒絶の言葉を突きつけることができなかった。


「考えさせてください」という、時間稼ぎのような言葉を盾にして、逃げるように屋敷を飛び出したのだ。


 有栖川には、あの部屋で起きた『求婚』の事実は一切話していない。


 ――言えるわけがない。


 辿り着いた明智の店は、一週間前の襲撃による惨状が嘘のように、隅々まで完璧に修繕されていた。半壊した外壁も、粉々に吹き飛んだ商品棚も、今ではその痕跡すら見当たらない。聞けば、店が襲撃されたというショッキングな話題性が客を呼び、修繕費などわずか一日で回収できたと豪快に笑っていた。商魂というより、もはや執念に近い生命力だ。


 その店の前には、三台もの馬車が列をなして停車していた。どれも精緻な紋章が刻まれた高級仕様で、御者たちは所在なげに、しかし厳格な態度で御者台に腰を下ろしていた。


 入口には、主人の命を受けたと思われる使用人の男たちが、店に列を作っていた。


「……なんだよ、この行列は」

「ずいぶんと繁盛してるじゃない」


 有栖川が感心したように、あるいは他人事のように肩をすくめる。


 店内に足を踏み入れると、カウンターの中では明智が山をなす金貨を一つひとつ積み上げていた。その横顔は、俺がこれまで見てきた中で最も卑俗に、そして最も眩しく輝いていた。


「おお、玄兎殿! 有栖川殿! いやはや、今朝から目が回るほどの忙しさでございますぞ! 貴族の奥方達から、『例のポーション』を求める注文が、それこそ滝のように殺到しておりましてな――」

「言っとくけど、お前の店に卸してるポーションには、若返りの効果なんてないからな」

「持ちの論で存じておりますとも! 拙者はただ、お客様に『例のポーション』を売ってくれと言われたから、『例のポーション』を売ってるだけに過ぎませんぞ」

「そのうち詐欺で訴えられても、俺は知らんからな」


 明智は金貨の山をうっとりと眺めながら、パチンと扇子を広げた。


「玄兎殿は、まるで歩く金の山そのものでございますな」


 完全に金貨の輝きに毒されている。俺の警告など、微塵も耳に届いていない様子だ。


 有栖川も、カウンターに積み上げられた黄金の輝きに、思わず目を丸くしていた。


「すごい量ね。これ、全部今日稼いだの?」


 有栖川が呆れたように呟くのも無理はない。カウンターに置かれた貨幣は、もはや数えるのも躊躇われるほどの山を成していた。


 わずか一週間で噂が街の隅々にまで浸透し、貴族の使いが我先にと殺到している。だが、この異常なまでの活況には、目に見えない巨大なリスクが影のように張り付いていることを、俺は肌にまとわりつくような不快感とともに感じ取っていた。


 この世界のポーションは本来、気休め程度の効能しか持たない。深い傷を塞ぐことはおろか、蓄積する不純物のせいで多用すれば魔力中毒を引き起こす代物だ。だからこそ、富裕層や上位の冒険者はポーションなど不要と軽視し、教会の「回復魔法」という高価な特権に頼るのだ。


 その教会は回復魔法の認可と免許を独占し、神の奇跡として治癒行為を管理する――それが、この世界の不可侵の秩序だった。


 しかし、明智の店で売っている、俺が調合したポーションは、その盤石な常識を根本から破壊している。傷跡一つ残さず、中毒の懸念もなく、教会の提供する中級回復魔法よりも安価で、かつ効果は劇的。さらに今回は、名だたる白魔導師たちがさじを投げた火傷痕を、一夜にして完治させてしまったのだ。


 回復魔法という巨大な利権の塊である教会が、これを見過ごすはずがない。


「明智」

「なんですかな、玄兎殿」

「あまり派手にやり過ぎるなよ。これ以上目立つことになれば、虎の尾を踏むことになりかねないからな」


 明智の金貨を数えていた指先が、一瞬だけピタリと止まった。だが彼は何事もなかったかのように作業を再開し、金貨を積み直しながら、おどけた調子で笑った。


「玄兎殿は、少々心配性が過ぎますぞ。ポーションはあくまで『薬』。魔法とは理を異にするもの。教会の管轄外のはずですぞ」

「管轄外だからこそ、余計に面倒なんだ。自分たちの理屈で説明できない『異物』を、連中は往々にして『禁忌』や『邪法』と呼ぶ。長年守り続けてきた回復魔法の利権を、どこの馬の骨とも知れぬ商人に荒らされて、黙って傍観しているような組織じゃないだろう」


 明智の扇子が、今度こそ完全に動きを止めた。


「……もしもの仮定として、教会はどの程度の介入をしてくると予想されますかな」

「最悪の場合、異端として拘束されるか、あるいは密かに暗殺のターゲットにされることも、まあゼロではないんじゃないか」


 店内の空気が、一瞬にして冷え込んだ。先ほどまで眩しく見えていた金貨の山が、急激に血の匂いのする、不吉な金属の塊に変貌したかのようだった。明智の顔から、一気に血の気が引いていく。


 その時だった。


 表の通りから数多の足音が近づき、武装した者たちの威圧的な気配が、濁流のように店の中へと流れ込んできた。



 ◆



 大通りの人波が、モーセが海を割るようにして左右に分かたれた。


 そこへ純白の法衣に身を包んだ男が、六名の騎士を従えて悠然と歩いてくる。従う騎士たちはいずれも鍛え抜かれた体躯に、腰には重厚な剣を帯び、胸当てには鮮やかな聖印の紋章が刻まれている。


 先頭を行く司祭は五十を過ぎた頃か。額に深い縦皺を刻み、厳格という言葉をそのまま形にしたような、冷徹な貌をしていた。


 一行は、明智の店の前でぴたりと足を止めた。


 明智が小走りで表に出て、揉み手こそしないものの、慇懃な態度で迎え入れる。俺と有栖川も、その殺気立った空気に引き寄せられるようにして、後に続いた。


「明智商会なる店の主人は貴様か!」

「いかにも」


 明智は扇子をたたみ、深々と頭を下げる。


「本日は、いかようなご用件でございましょうか」

「教会として、至急確認せねばならぬことがある」


 司祭の声は低く、重く、周囲の喧騒を力でねじ伏せるように響いた。


「この店で販売されているポーション――その異常な効能についてだ! 傷跡を残さぬ回復。そして五年間、誰の手にも負えなかった重度の火傷痕の完治。これらは神の奇跡、すなわち我が教会の回復魔法の領域を冒涜し、侵すものではないか!」

「恐れながら、ポーションはあくまで薬草から抽出された薬にございます。奇跡の力などではなく、医学――いえ、自然の力とでも言いましょうか」


 明智は澱みなく答えた。


「学問に基づく調合法を用いた物であり、神聖なる魔法とは理を異にする別物かと存じますが」

「ただの薬で、五年越しの火傷痕が跡形もなく消えると申すか!」


 司祭の目が、氷の刃のように細められた。


「教会はこの店の即時営業停止、および不審な販売者と調合師に対する異端審問の実施を要求する!」


 その宣告に、明智の顔から一気に血の気が引いた。慌てて扇子を開いて口元を隠したが、それを握る指先は隠しようもなく震えている。


「異端審問、でございますか。それは、いささか――」

「待ちなさいよ」


 制止の声は、俺のすぐ真横から放たれた。


 有栖川が、音もなく一歩前へ出た。

 風に揺れる白い外套の裾が、不穏な空気の中で鮮やかに翻る。


「聖職者のくせに、他人の幸福を禁忌と呼ぶつもり? あんた頭おかしいんじゃないの」

「なっ!?」


 穏やかな、あまりに穏やかすぎる声だった。その静謐さが、かえって周囲の緊張感を極限まで引き絞る。


「貴様ッ! わ、わたしを誰だと思っておるのだ! 無礼ではないかッ!」

「知らないわよ。それより、いい? 五年間よ! 五年間も、誰も治せなかった火傷痕を、たった一本のポーションが治したの。これって凄いことじゃない? あんたが怒るようなことじゃないわよね? 女にとって、顔の傷がどれほど辛いか、あんたに分かるわけ? それに、エレノアは教会にだって何度も助けを求めたそうよ。けれど、あんたらは嘆き悲しむ彼女を救えなかった。あんたらの代わりに、迷える子羊をこのポーションが救い出したのよ。それのどこに、あんたらに弾劾されるべき理由があるの? むしろ、自分たちの無力を恥じて、ポーションの奇跡に跪き、感謝の祈りを捧げるべきなのはあんたらのほうじゃないの?」


「なっ、なななな、なんたる暴挙! いっ、いいい、異端であるっ! この女は間違いなく異端者! 魔女の類であるぞ!!」


「馬鹿言ってんじゃないわよ。あたしの父は【光劫清森幸福論】の教祖よ? あんたみたいな下っ端が、何をわけのわからないことを言ってんのよ。この際だから、そんな誰の為にもならない教えなんて捨てて、あんたも【光劫清森幸福論】に入信しなさい。そうすれば、人の幸せを願えない愚かな自分に気がつくはずよ。……うん、我ながらナイスアイデアだわ」


 有栖川のトーンは一向に乱れない。

 それどころか彼女は、この世界の最大宗教に向かって、実家のカルト宗教の勧誘を笑顔で開始した。


「きょ、狂人である! この者は狂人であるぞ! 捕らえよ! 捕らえるのだ! 即刻火炙りに処すべし!」


 司祭の背後に控えていた騎士の一人が、怒りに顔を染めて剣の柄に手をかけた。それに呼応するように、他の騎士たちも一斉に戦闘態勢をとる。


 明智が青ざめ、必死の形相で俺の袖を掴んだ。


「玄兎殿……これはマズイですぞ」

「分かってる」


 俺が前に出ようとしたその時、向かってきていた騎士が吹き飛んだ。有栖川が容赦なく男の顔面へと拳を振り抜いたのだ。


「――ぶぅっ!?」


 細腕から繰り出された砲弾のような一撃に、勢いづいていた騎士達の表情が一瞬にして凍りついた。


「な、なにいッ!? な、なな、なにをしておる、早くその狂人を取り押さえぬかッ! ――ひぃっ!?」


 ギロリと睨みを利かせた有栖川の全身から、凄まじい覇気が放たれる。


その時、騎士の一人が「司祭様」と引きつった声を上げた。

 男の目は、有栖川を正面から、射抜くように凝視していた。


「な、なんだ!」

「こ、この者に見覚えが……」

「やはり、手配中の魔女であったか!」

「いえ、そうではございません! このお方をよくご覧ください!」


 騎士の男に促され、へっぴり腰の司祭が恐る恐る有栖川を凝視する。


「この、狂人がなんだというのだ……!」

「艶やかな金髪。澄み渡る碧眼。腰に帯びた独特な形状の剣。そして――全身から滲み出る、あの研ぎ澄まされた闘志」


 男の言葉を聞いた瞬間、司祭の顔からそれまでの厳めしさが消え失せた。代わりに浮かび上がったのは、隠しきれない戦慄と、必死に理性を保とうとする焦燥だった。


「ま、まさか……!」


 現在、グランタリア王国と聖王国は極めて深刻な緊張状態にある。その火種は、グランタリア側が召喚した【聖女】を、教会側に引き渡さないことにあるとされていた。


 そして今、目の前に立ちはだかる金髪碧眼の女剣士。彼女こそが――聖女と対をなす最強の守護者――【剣聖】その人であった。


 司祭と騎士達は、ようやく目の前の狂人の「正体」に気がついたのだ。


 ここで独断で剣聖と刃を交え、国際問題に発展してしまえば、教会内における彼らの政治的立場は一瞬にして崩壊する。


 彼らの顔から、みるみる血の気が引いていった。


「……きょ、今日のところは失礼する。あ、あくまで事実確認に参ったまでだからな」


 案の定、司祭は絞り出すような声で告げると、不自然なほど素早く踵を返した。


「た、ただし! そのポーションが神の奇跡、ひいては教義に反しないものであるという証明を教会に提出せよ。それまでの間は、暫定的に営業継続を許可する」


 屈辱を噛み潰したような顔で、司祭は騎士たちを引き連れ、雑踏の中へと消えていった。


 一行の姿が見えなくなるまで、俺達は誰も言葉を発しなかった。

 やがて、明智が閉じた扇子で自らの額を拭いながら、力なく呟いた。


「……証明、でございますか。教会の理屈に合う証明など、逆立ちしても出てきませんぞ」


 俺は重い息を吐き出し、高く晴れ渡った空を仰いだ。


「面倒なことになったな」



 ◆



 喧騒の余韻が残る大通りの外れ、陽光の届かぬ冷え冷えとした路地の陰に、一人の人物が立っていた。


 深い緑色の外套を纏い、翻る裏地には白のタータンチェックが覗く。頭にはカエルを模した風変わりな垂れ耳のフードを深く被り、その暗がりから、黄緑色の瞳が通りを往く人々を冷静に観察していた。


 雨宮彼方あまみやかなたは、細い人差し指を顎に当て、今しがた目の前で繰り広げられた騒動をそっと反芻していた。


「影山玄兎……」


 その声には、一切の感情が乗っていない。


「クラスでも地味な存在だったのに。期待値も、ほぼゼロだったはずなんだけどな」


 雨宮の視線は、吸い寄せられるように有栖川の胸元へと移動した。


 白い外套の襟がわずかに開き、剥き出しになった鎖骨の下。そこに刻まれた、禍々しくも精密な術式の刻印を、雨宮の鋭い眼光が捉えた。


 それは、逃れられぬ隷属を意味する【隷属紋章】だった。


「有栖川アリス」


 彼女の名を転がすように呟く。


「男子の大半が憧れてるって言われてた、クラスの二大マドンナの片方が――冴えない男の奴隷、か」


 視線を移し、次は影山の手の甲を凝視する。そこには、彼女の胸元に刻まれた紋様と対をなす、主人の証――支配者の刻印が確かに刻まれていた。


「影山くんが、ご主人様……ね」


 暗がりの中から、抑えきれないといった風に、くつくつと低い笑い声が漏れた。


「面白いなあ〜。どういう経緯があってそうなったのかは知らないけど――これ、もしクラスのみんなが知ったら、一体どう動くんだろう。期待値、かなり高いよね、よね?」


 雨宮は外套のフードをさらに深く被り直し、自らの輪郭を闇に溶け込ませた。


「報告しなきゃね。これも一応、ボクの仕事だし」


 一拍置いて、楽しげな響きを帯びた声で小さく付け加える。


「――でも、もう少しだけ、二人の様子を見ていたい気もするな。……さて、どっちの方が『面白い』かな」


 路地の奥へと足を踏み入れ、緑色の影は、音もなく暗闇の中へと消えていった。

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