第9話 好きな人の顔
グランタリア王国――王都グラバスト。
天を突く壮麗な王城の最奥、厚重な鉄扉の向こう側に、その男の執務室は位置している。
深夜、街の喧騒がとうに途絶えた時間であっても、この部屋の窓からは鋭い灯火が漏れ出していた。
分厚い石造りの壁に囲まれた広い室内は、整然としながらも息が詰まるような圧迫感に満ちている。壁一面を埋め尽くす書棚には、建国以来の記録が隙間なく詰め込まれ、机の上には山積みにされた報告書の束が不気味な影を落としていた。
そして部屋の中央に鎮座する重厚な執務机。その向こうに、高い背もたれの椅子に深く腰を下ろしているのが――オズワルド・ヴァーンである。
グランタリア王国――宰相。
痩身長躯、白髪交じりの黒髪を几帳面に撫でつけ、深紫の宰相服に身を包んだその男は、羽根ペンを走らせる手を止めることなく、部屋の入口に跪く部下へと視線を落とした。
切れ長の眼が、粘性のある光を帯びている。
「報告せよ」
「はっ。ルクセリア王国――レジャスにて調査を進めた結果、街で流通している高純度ポーションの販売元は、【万屋 明智商会】という雑貨商であることが判明いたしました」
「商人か」
オズワルドはペンを置き、細い指を組んだ。
「その商人が調合しているのか」
「いえ。仕入れ元が別に存在すると思われます。商会の主は調合の心得がなく、外部から卸を受けている模様です」
「卸元は」
「現在調査中でございます。ただ――」
部下が僅かに躊躇した。
「申せ」
「昨夜、当該商会に調査員を派遣したところ、予想だにしない返り討ちに遭い、派遣した七名全員が……地元の憲兵に身柄を拘束されております」
執務室に、沈黙が落ちた。
部下は床に額を擦りつけんばかりに頭を垂れ、身を竦める。しかしオズワルドの表情は、怒りとも失望とも取れない、奇妙なほど冷静なままだった。
やがて、その口の端がわずかに持ち上がった。
「なるほど」
「も、申し訳ございません。まさかあのような返り討ちに――」
「謝罪は要らぬ。その時間は無駄だ」
オズワルドは音もなく立ち上がり、背後の窓へと歩み寄った。眼下に広がる夜の王都は、深い闇に沈み、まるで眠れる巨大な獣のように見える。
「七名を返り討ちにする手練れが、その商会を守っている。ということであろう。であれば、卸元もただの調合師ではあるまい」
長い指が、窓枠をゆっくりと叩く。
「闇オークションに出品された九本のポーション。欠損部位すら再生させるあの効能は、この世界の常識を逸脱している。レジャスで売られているポーションと同一人物の手によるものかどうか、まだ断言はできぬ。だが――」
オズワルドは窓から振り返り、跪く部下を一瞥した。
「符合が多すぎる。確かめる価値は十分にある」
「御意にございます」
「……待て」
立ち上がりかけた部下が、再び膝を突いた。
「明智、と言ったか。その商会の主の名は」
「はっ。明智、と。それ以上の詳細はまだ――」
「異世界人召喚のリストを持て。今すぐ」
「……はっ」
部下が慌ただしく退室し、しばらくして分厚い羊皮紙の束を抱えて戻ってきた。オズワルドはそれを無言で受け取り、執務机の上に広げた。
召喚初日に作成した、異世界人全員の名前と職業が記された名簿だ。
細い指が、羊皮紙の上をゆっくりと滑る。
明智光秀。職業――【商人】。
「やはりか」
オズワルドの唇が、ゆっくりと弧を描いた。Cグループ。戦闘能力皆無と判断し、利用価値なしとして放置していた男だ。まさかルクセリアで商会を構えているとは。
しかし、指はそこで止まらなかった。
名簿を遡り、別の名前の上で静止する。
影山玄兎。職業――【ポーション生成士】。
「……」
オズワルドは、しばらくその名を眺めた。
脳裏に、あの日の光景が蘇る。訓練所、鮫島とかいう粗暴な少年に職業を暴かれ、俯いていた男の後ろ姿。金貨2枚を投げつけ、城門の外へ追い出した、取るに足らないと思っていた少年。
ポーション生成士。
その職業の本質を、オズワルドは今の今まで考えたことすらなかった。
もし――明智光秀の商会に卸しているのがこの男だとすれば。そして七名を返り討ちにした手練れとも繋がっているとすれば。
確かめなければならない。
「もう一度、問う」
オズワルドは部下を見た。
「返り討ちにした者の特徴を、詳しく報告せよ」
「は、はっ。生き残りの証言によれば――異様に筋肉が膨張した若い男と、金髪碧眼の、刀を持った女、と」
オズワルドの指が、名簿の上で止まった。
金髪碧眼。刀。
リストの中に、該当する人物は一人しかいなかった。
有栖川アリス。職業——【剣聖】。
任務中に死亡したと報告を受けていた少女の名が、そこには刻まれていた。
「……生きていたか、剣聖」
オズワルドはパタリと名簿を閉じた。断言はできない。だが、可能性は十分すぎるほどにある。
「精鋭を選抜せよ。今度は直接、レジャスへ向かわせる。目的は調査だ。影山玄兎、有栖川アリス、この二人の動向を洗え。ただし――今は手を出すな」
「御意にございます。もし彼らが闇オークションのポーションと繋がっていた場合は」
「その時に改めて指示を出す。今は確認が最優先と心得よ。……それと」
オズワルドの声が、一段低くなった。
「有栖川アリスの死亡を報告した者は誰だ」
「は――第三騎士団所属、イグナーツ・ロベルにございます」
「ロベル公爵の三男か」
オズワルドは独りごちるように繰り返した。その声には、怒りも苛立ちもなかった。ただ、底冷えするような平静さだけがあった。
「剣聖を手に入れようとして失敗し、己の矜持を守るためだけに毒を盛って売り飛ばし、その上、虚偽の報告でそれを隠蔽したか」
「……火を見るよりも、明らかかと」
「国家の至宝とも呼ぶべき戦力を、私欲のために損なったか。その罪、万死に値する」
オズワルドはゆっくりと羽根ペンを手に取り、何かを書き記した。
「ロベル公爵の息子の身柄を拘束せよ。罪状は国家資産の横領と虚偽報告だ。処分は――私に一任せよ」
「しかし、相手は公爵家でございま――」
「構わぬ。公爵には、息子の首か家門の取り潰しか、好きな方を選ばせればよい」
「……御意にございます」
部下の顔が、わずかに青ざめた。オズワルドに一任、という言葉が何を意味するか、この国の暗部を知る者であれば想像に難くない。
部下は逃げるように退室し、重い扉が閉ざされた。執務室には再び、重苦しい静寂が戻る。
オズワルドは一人、夜闇の中で名簿を眺め続けた。
「金貨2枚で追い出した少年か」
その呟きは、誰にも届くことなく、深夜の石壁に吸い込まれて消えた。
◆
目が覚めた瞬間、全身が悲鳴を上げた。
腕が動かない。足も動かない。首を動かそうとしただけで、筋肉という筋肉が一斉にストライキを宣言した。
【マッスルポーション】
服がはち切れるほど筋肉を膨張させ、一時的に人間離れした膂力を引き出す、俺の自信作だ。副作用として、壮絶な筋肉痛が来ることは分かっていた。分かっていたが――これほどとは思っていなかった。
昨日、明智にフルポーションを飲ませた後、宿に帰り着いた時点で既に予兆はあった。階段を上る足が重く、部屋に転がり込んだ俺はそのまま意識を失った。
そして今。
俺は仰向けに寝転がったまま、天井を見上げている。
「……起きた?」
声がした。
視線だけを辛うじて横へ滑らせると、簡素な椅子に腰掛けた有栖川がこちらを見つめていた。その膝の上には愛刀・朧月が横たわっており、彼女は先ほどまで、その薄氷のような刃を丁寧に手入れしていたようだった。
「何時だ」
「昼過ぎ」
「……そうか」
上体を起こそうと試みる。
「――いっ」
激痛が全身を縦走し、俺は再び寝台へと沈み込む。
「……」
「……」
有栖川は無言のまま、冷ややかな、それでいてどこか愉快げな眼差しをこちらへ向けている。
「笑うな」
「笑ってない」
「笑いを堪えてるだろ」
「堪えてない」
堪えていた。彼女の薄い唇は、今にも決壊しそうなほどに引き攣っており、小刻みに震えている。
「手、貸せ」
「はいはい」
有栖川が立ち上がり、俺の手を取った。引き起こされる。全身の筋肉が断末魔の声を上げたが、なんとか上体を起こすことには成功した。
「ありが――」
「ねえ、そろそろ笑ってもいい?」
「よくねぇよ」
「なら、チューしてもいい?」
「なんでそうなるんだよ!」
「ぷっ」
我慢の限界だったらしい。有栖川は、耐えきれずに噴き出した。
「おい!」
「だって影山、昨日あんなにムキムキだったのに。今はただの筋肉痛おじさんなんだもん」
「おじさんは余計だ」
「なら筋おじ」
「もっと嫌だわ」
「筋肉痛だから……きんちゃん?」
「なんか下ネタっぽくないか?」
「きんた――」
「言わせねぇよ! つーか、何を口にしようとしたんだお前は!」
有栖川は「あはは」と屈託のない声を上げながら、俺の背に枕を差し込み、楽な姿勢になるよう調整してくれた。その手際は、意外なほどに細やかで無駄がない。
「水、飲む?」
「ああ」
「口移しで飲ませてあげようか?」
「馬鹿言ってないで早くコップを寄こせ!」
冗談を撥ね退け、差し出されたコップを受け取る。喉が焼けるように乾いていた。冷たい水が、唯一の救いのように食道を滑り落ちていく。
「ポーションで治せないの?」
「筋肉痛には効かない。あれは損傷の回復であって、疲労の蓄積とは別の話だ」
「へぇ。あのチートポーションでも、お手上げなんだ」
「んだよ、チートって」
「だって、透明になったり、剣聖のあたしと並走したり……やってること、全部デタラメじゃない。で、結局どうすれば治るの?」
「待つしかない」
「それだけ?」
有栖川の目が微妙な色になった。
「明智のお店、見に行かないといけないのに」
「午後には動けるようになる。たぶん」
「たぶん、ね」
有栖川は腰に手を当て、俺を見下ろした。
「わかったわ。じゃあ今日一日、あたしがお姉さんになって面倒見てあげる」
「……結構だ」
「何が結構なのよ。一人じゃ食事も摂れない、着替えもできない。顔を洗うことさえままならないでしょ?」
反論の言葉が、喉の奥で詰まった。確かに、着替えなど到底不可能だ。顔を洗いに水場まで歩く自分を想像しただけで、全身に戦慄が走る。
「……頼む」
「素直でよろしい」
有栖川は満足そうに頷き、手ぬぐいを濡らして俺の顔を拭いた。
「子供扱いするな」
「してないわよ、おじいちゃん」
「完全に介護のノリじゃねえか!」
「介護にはね、愛情がいるのよ」
「……」
何も言えなかった。
有栖川は表情を変えずに、ただ丁寧に俺の顔を拭いている。その手つきが、妙に慣れていた。
「お前、こういうの慣れてるのか」
「まあね。剣道部のころ、後輩の面倒よく見てたから」
ああ、そういえばそうか。
有栖川アリス。元剣道部エース。誰よりも強く、高潔で、その実、面倒見がいい。そして――俺がずっと焦がれていた楪の、親友。
俺が知っていたのはそれくらいだ。
「メシはどうする」
「買ってくる。何がいい?」
「……お前が、好きなやつでいい」
「へぇ」
有栖川が、いたずらっぽく口角を上げた。
「これ、介護されて惚れちゃうパターン?」
「違うだろ! つーか、介護って言うな!」
「ほんとに?」
「ほんとに。……でも、助かった。お前がいてくれて、良かったよ」
「うん」
有栖川は柔らかく微笑むと、手早く外套を羽織った。
「待ってて。めっちゃ美味しいの買ってくるから」
扉が閉まり、軽快な足音が遠ざかっていく。
俺は一人、部屋に残された。
なぜか、心臓が耳の奥でうるさいほどに脈打っている。
「俺が好きなのは……楪、だよな……?」
確認するように呟いた。だが、かつてあんなにも鮮明に焼き付いていた彼女の面影を呼び起こそうとしても、頭の中に薄暗い霧が立ち込め、焦点が合わない。
三ヶ月余り。たったそれだけの期間、その顔を見ていないだけで。中学から五年間、ひたむきに追い続けていたはずの想い人の表情が、指の間からこぼれ落ちる砂のように思い出せなくなっている。
この異世界に来てからの数ヶ月が、あまりにも過酷で、あまりにも濃密すぎたからだろうか。
『――惚れた?』
先程の有栖川の、茶目っ気のある笑顔がフラッシュバックする。
カッと、顔に血が昇るのがわかった。
「ああ、くそ。……わっかんねえよ」
俺は痛む体を無理やり捩じ込み、逃げるように毛布を頭から被った。
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