第2話 追放された過去

「さ、触るのはまだダメだからね! あと、ま、前は……隠してもいい? まだ、その……男の人に見せたことないから……。絶対に見ないでよね!」

「見ねえよ!」


 彼女は背を向け、震える指先で衣類を解き始めた。耳朶まで真っ赤にし、小刻みに震える背中は、剣聖の凛々しさを完全に失い、ただの年相応な少女のようだった。


 俺は背後から、職業スキル【状態解析】を展開した。


 これはポーション生成士に備わった基礎能力だ。対象の生体情報を読み取り、最適な治療薬のレシピを導き出す。その過程で、身長、体重、スリーサイズといった数値から、生命力の残量、毒素の進行深度に至るまで、文字通り「隅々」までがデータとして視界に浮かび上がる。


 本来は調合補助のためのスキルだが、対象を丸裸にするかのようなこの精度は、医療以外の目的でもいくらでも転用が利く代物だった。


 ……にしても、想像以上に酷い有様だ。

 透き通るような白肌の一部は変色し、壊死が始まっている。立ち上る微かな腐臭は、彼女がすでに生者と死者の境界線に立っていることを物語っていた。


 解析の結果、彼女の体内を巡る毒は極めて特殊な組成をしていることが判明した。だが、解毒不能な代物ではない。それどころか、材料さえ揃えば市販の高級薬でも十分に対処できる部類だ。


 ……つまり、連中は最初から有栖川を救うつもりがなかったのだ。


 俺はあの国の糞宰相の顔を思い出し、ギリッと奥歯を噛んだ。



 ◆



 ――100日前のことだ。


 さっきまで退屈な午後の授業を受けていたはずの俺たちは、瞬きする間に見慣れない光景の中に放り出されていた。


 視界に飛び込んできたのは、高く聳え立つ石造りの天井と、左右に整列し威圧感を放つ甲冑姿の兵士たち。そして正面の階段の上、豪奢な玉座に深く腰かけた老王。


 そこが異世界の王城、その謁見の間であると理解するのに、さほど時間はかからなかった。


 混乱し、ざわめきを隠せないクラスメイトたちを余所に、俺はただ無言で周囲の状況を観察していた。


 やがて、重々しい足取りで臣下らしき男が歩み出て、驚くほど流暢な日本語で語り始めた。一方的な召喚の正当化、魔王という脅威の存在、そして「異世界の勇者」への過剰な期待。物語の中でしか聞いたことのないような定番の舞台設定を、男は淀みなく、淡々と並べ立てていく。


 説明が終わると、俺たちの手元に古びたスクロールが配られた。自身の魔力を通すことで、秘められた「職業」と「ステータス」が可視化される仕組みだという。


 静寂を破り、クラスメイトたちが次々とスクロールを起動させ始めた。


「剣士だってよ、俺! これマジか!?」

「見て、私は魔法使い! 嘘みたい、信じられない……」

「弓使い……まあ、悪くないな。後ろから狙えばいいんだろ?」


 あちこちで歓喜と困惑が入り混じった声が上がる中、一際大きく、空間を震わせるほどの叫びが謁見の間に響き渡った。


「うおおお! すめらぎの職業、勇者だぞ! 本物の【勇者】だ!!」


 その宣言は、室内の空気を一瞬で塗り替えた。王城側の人間たちが一斉に色めき立ち、老いた王の濁った瞳に狂気じみた期待の火が灯る。クラスメイトたちもまた、光に群がる虫のように、選ばれし者である皇の周りへと集まっていった。


「すごい! 有栖川さんは【剣聖】だって! さすが剣道部のエースだね」

「楪さんは【聖女】か……。うん、なんか納得だわ。イメージ通りすぎる」


 有力な職業が次々と判明するたびに、騎士たちの顔は喜色に染まり、王城は熱狂に包まれていく。


 熱に浮かされる周囲を冷めた目で見つめながら、俺は手元のスクロールに視線を落とした。


 【職業:ポーション生成士】


 ……なんだよ、これ。


 視界に入る他人の結果は、戦士、魔法使い、騎士、槍使い。前線で華々しく戦うための職業が並ぶ中で、【ポーション生成士】という地味な文字列は、あまりにも場違いで、異質だった。


 直感的に理解した。これは「弱い」。戦力外だ。


玄兎くろう殿は、どのような職業を授かり申したのですかな」


 不意に隣から声をかけてきたのは、友人の明智だった。いつもの飄々とした笑みを浮かべ、探るような目でこちらのスクロールを覗き込もうとしている。


 俺は思考よりも早く、反射的にスクロールを握りつぶすようにして折り畳んだ。


「……魔法使いだ」

「ほう、それはそれは。心強い味方になりそうですな」


 明智は特に疑う素振りも見せず、軽く頷いて自分の持ち場へと戻っていった。


 小さな、しかし決定的な嘘。ただの保身から出た言葉だった。


 しかし、この瞬間の判断が後に取り返しのつかない結果を招くとは、この時の俺には知る由もなかった。


 その夜の食事は、まさに天国と呼ぶに相応しいものだった。


 大理石の長テーブルを埋め尽くしたのは、日本での生活では決してお目にかかれない贅の極致だ。芳醇な香りを放つ肉料理に、繊細に盛り付けられた魚、宝石のように艶やかな未知の果実。


 先ほどまでの不安など霧散したかのように、クラスメイトたちは狂喜乱舞し、競うように皿を山盛りにしていた。


「異世界転移、最高じゃね? マジで勝ち組だろこれ」

「部屋もやばかったぞ。天蓋付きのベッドとか、王様気分だわ」

「もう元の世界に帰る理由、一つもないんだけど」


 浮かれた声がシャンデリアの輝く広間に反響する。俺も無言で料理を咀嚼しながら、冷めた目で周囲を観察していた。


 ……まあ、そうなるだろうな。


 見知らぬ土地で全権を握る者に懐柔されるのは、存外に容易い。豪華な食事と寝床を与え、優越感を刺激すれば、現代人の警戒心など容易く瓦解する。王国側の意図は明白だったが、この熱狂の中で水を差すような真似はしなかった。


 翌朝、事態は一変した。


 広大な訓練場。早朝の冷気に包まれた俺たちの前に引きずり出されたのは、太い縄で無残に縛り上げられた数体のゴブリンだった。粘つく緑色の肌、濁りきった瞳、そして風に乗って漂う耐え難い獣臭。絵本の中の怪物とは違う、生々しい「生物」としての醜悪さがそこにはあった。


「各自、己の職業に適した武器を取り、これらを仕留めてもらう」


 整列した兵士が、感情を排した声で命じる。


 最初に名を呼ばれた男子生徒が、震える両手で剣を構えた。ゴブリンは拘束され、ただ怯えることしかできない。それでも、抵抗できない生命の喉元に刃を突き立てるという行為は、平和に慣れきった俺たちの精神にはあまりに重すぎた。


 重苦しい肉の断裂音に続き、激しい嗚咽が訓練場に伝播した。


 その後は地獄絵図だった。次々と名前を呼ばれるたびに、クラスメイトたちは蒼白な顔で獲物を手にし、嘔吐と涙に塗れながら、ゴブリンという名の生贄を屠っていった。


 有栖川は、剣道部仕込みの鋭い踏み込みで、目を固く閉じたまま一撃で心臓を貫いた。だが、終わった瞬間に剣を落とし、その場に崩れ落ちて肩を激しく震わせていた。


 訓練場の隅では、明智ら非戦闘職の面々が、針の筵に座らされているような肩身の狭い表情で、級友たちの「処刑」を凝視していた。


 そして、ついに俺の番が来た。


「影山。魔法使いだったな。お前の力で仕留めてみせろ」


 兵士の突き放すような命令が下る。


 俺は一歩前に出た。縛られたゴブリンと対峙し、形だけ両手を構える。当然、火球が飛び出すことも、雷が落ちることもない。ポーション生成士に、戦闘を左右するような直接的な攻撃適性など皆無なのだ。


 数秒、数分にも感じられる沈黙が場を支配する。


「……何をしている。早くやれ!」


 兵士が苛立ちを露わにして一歩詰め寄った、その時だった。


 背後から伸びてきた乱暴な手が、俺の衣嚢に突っ込まれ、隠していたスクロールを強引に奪い取った。


 鮫島だ。


 奴はせせら笑いながら、全員に見せつけるようにスクロールを高く掲げた。


【職業:ポーション生成士】


 一瞬の空白の後、訓練場に冷ややかなざわめきが広がった。


「……ポーション生成士? 何それ、ただの裏方じゃん」

「魔法使いって言ってたのは嘘だったのかよ」

「かっこ悪……。自分だけ特別だと思われたかったわけ?」


 クラスメイトたちの視線が、刃となって突き刺さる。底知れない軽蔑、突き放すような失望。王国側の人間たちは、もはや興味を失ったかのように、ゴミを見るような眼差しを向けてきた。


 鮫島は「つまらねぇホラ吹き野郎だな」と吐き捨てると、スクロールを俺の足元へ投げ捨てた。


「……」


 泥に汚れたそれを拾い上げることしか、俺にはできなかった。


 その日の夜、食事の時間が訪れた。


 昨日と同じ豪奢な食堂へ足を向けようとしたが、入り口に立っていた重装兵の槍によって、行く手を阻まれた。


「貴様ら、非戦闘職の席はそちらではない」


 無機質な案内に従ってたどり着いたのは、城の最果てにある、窓すらない薄暗い石室だった。


 傾いた木製テーブルの上に並んでいたのは、石のように硬く焼かれたパンと、濁った水にわずかな豆が浮いているだけのスープ。


 隣に座った明智が、やるせなそうにスープを一口すすり、静かに、しかし重く呟いた。


「昨晩の饗宴は、ただの『査定』でしたか。えげつない格差ですな」


 俺は何も答えず、奥歯が軋むような硬いパンを無心で齧り続けた。


 これが、俺たちの異世界生活の本当の始まりだった。


 それから日に日に、俺たちの扱いは底が抜けたように悪化していった。


 最初は一日三食、辛うじて提供されていた食事が、いつの間にか夜の一食のみへと削られた。胃を鳴らしながら、戦闘職の華々しい演習をただ壁際で見つめるだけの虚無の時間。空腹は思考を鈍らせ、硬いパンの欠片を豆のスープでふやかすことだけが、一日の唯一の目的となってしまった。


 屈辱は食事だけにとどまらなかった。いつからか、俺たち「非戦闘職」の部屋の前には、返り血や泥に汚れた戦闘職たちの洗濯物が山のように積み上げられるようになった。誰も何も言わない。かつてのクラスメイトを召使いのように扱う側も、それに耐える側も、異世界の歪んだ空気に毒され始めていた。


 そして、運命を決定づける断絶の日が訪れた。


 重厚な扉が開かれ、謁見の間に集められた俺たちの前で、宰相が羊皮紙を広げ、高らかに新たな秩序を宣言した。


 ――「グループ制」の導入。


 Aグループ。勇者や剣聖を筆頭とした上位職。彼らには上級貴族と同等の特権と贅沢が約束される。


 Bグループ。一般戦闘職。王国のために血を流す対価として、下級貴族に準ずる扱い。


 そしてCグループ。非戦闘職。彼らに与えられたのは「平民」、いや、事実上の「寄生虫」としての扱いだった。


「それは、いくらなんでも酷すぎるんじゃないですか」


 静寂を切り裂いたのは、自分でも驚くほど冷めた、それでいて震える俺自身の声だった。


 謁見の間が、氷を打ったように静まり返る。壇上の宰相の目が、不快そうに細められた。


「勝手に喚び出しておいて、職業が気に入らないからと露骨な差別をする。おかしいでしょう、そんな道理は」


 必死に声を張り上げたが、膝の震えは止まらない。それでも、ここで飲み込めば、俺という人間の尊厳は永遠に失われる気がした。


 宰相は、羽虫でも見るかのような一瞥を俺にくれただけで、即座に視線を外した。反論する価値さえ認めない。その傲慢な沈黙が、何よりも深く俺を抉った。


 俺は救いを求めるように、勇者である皇へと視線を向けた。かつて生徒会長として、どんな些細な悩みにも耳を傾けていた男だ。彼なら、この狂った選別を止めてくれると信じたかった。


「皇、お前からも言ってくれ。こんなの、絶対におかしいだろ」


 皇は一瞬、苦渋に満ちた表情を浮かべて視線を彷徨わせたが、やがて静かに、諭すような口調で答えた。


「影山の気持ちもわかるよ。でも今は、与えられた役割を全うするしかないんだ。王国に見捨てられたら、俺たちはこの過酷な世界で生きていく術がない。……今は、耐えるしかないんだ」


 ……んだよ、それ。


 その言葉は、連帯の絆を完全に断ち切る絶望の宣告だった。握りしめた拳が白く震える。その時、静寂を破って小走りに近づいてくる足音があった。


「私も、こんなの間違っていると思います!」


 凛とした声とともに現れたのは、楪だった。


 白地に金の刺繍が施された聖女の法衣を翻し、彼女は迷うことなく俺の隣に並んだ。その澄んだ瞳には、王国の権威に屈しない、強い拒絶の光が宿っている。


「……楪、さん」

「影山くんの言っていることは正しいです。こんな理不尽な格差、絶対に認められません!」


 王城の空気が一気に張り詰める。しかし、その反抗が長く続くことはなかった。背後に控えていた侍女たちが、滑らかな動きで楪の左右を固める。


「聖女様、こちらは穢れております。さあ、奥へ」

「え、ちょっと――影山くん!」


 必死にこちらを振り返る楪の手が、空間を虚しく掻く。彼女は護衛という名の拘束を受け、引き剥がされるようにして謁見の間から連れ去られてしまった。その背中が見えなくなるまで、俺はただ立ち尽くすしかなかった。


 残された俺に注がれたのは、耐え難いほどの冷気だった。クラスメイトたちの、兵士たちの、そして宰相の、底知れぬ蔑み。


「ポーションしか作れぬ無能が、身の程をわきまえよ。貴様の代わりなど、この国にはいくらでもいるのだ」


 それでも俺は、その冷たい視線の渦中で奥歯を噛み締め、宰相を睨み据え続けた。

 宰相は深いため息を吐き出し、忌々しげに懐から二枚の金貨を取り出した。


 ——カラン、カラン。


 鈍い音を立てて、金貨が俺の足元の石畳を転がる。


「それを持って、今すぐここから失せよ。二度とその不浄な姿を、王の御前に晒すでない」


 金貨を拾い上げ、俺は謁見の間を後にした。指先に伝わる金属の冷たさは、これまで受けてきた屈辱の重みそのものだった。


 城を立ち去るために与えられた時間は、わずか三十分。


 Cグループに割り当てられた石造りの粗末な部屋には、最初から私物などほとんどなかった。それでも、高校のロゴが入ったスポーツバッグを肩に担ぎ、中身の詰まっていないその軽さを感じた瞬間、ここが取り付く島もない異世界なのだという現実が、改めて冷酷に突きつけられた。


 城門へと続く長い回廊を歩く間、幾人ものクラスメイトとすれ違った。だが、誰一人として足を止める者はいなかった。露骨に目を逸らす者、腫れ物に触れるかのように歩速を速める者……。「追放者」という烙印を押された人間に関わり、自分の立場を危うくしたくないという保身の意思が、沈黙の中で雄弁に響いていた。


 それでいい。馴れ合う必要など、もうどこにもない。


 やがて、視界の先に巨大な城門が姿を現した。重厚な鉄の扉の前には、彫像のように無愛想な二人の衛兵が立ち塞がっている。


 俺が数歩手前まで近づくと、彼らは一切の感情を排した動作で、外の世界へと繋がる扉をゆっくりと押し開いた。


 隙間から溢れ出した眩い陽光が、網膜を焼く。同時に、嗅ぎ慣れない草木の青臭い風が、容赦なく俺の頬を打った。城壁の向こう側に広がるのは、見渡す限りの見知らぬ街と、どこまでも続く異世界の空だ。


 境界線を越え、一歩を踏み出したその瞬間だった。


「影山!」


 静寂を切り裂き、背後から切迫した声が届いた。


 反射的に振り返ると、回廊の奥から肩を上下させ、必死に駆けてくる有栖川の姿があった。しかし、彼女が門に辿り着くより早く、二人の衛兵が獲物を狙う鷹のような素早さでその行く手を遮った。屈強な腕が彼女の両肩を掴み、有無を言わさぬ力でその場に押さえ込む。


「放して! そこをどきなさいよ!」


 有栖川は顔を歪め、必死に身をよじって抵抗した。衛兵の腕を振り払おうともがきながら、届くはずのない俺の方へと、必死に右手を伸ばす。その瞳には、行き場のない憤怒と、言葉にならない後悔のような色が混濁していた。


 一瞬、視線が交差した。


 俺は何も言わなかった。喉の奥が引き攣り、言葉の欠片さえ出てこなかった。ただ、脳裏に焼き付けるようにして一秒間、彼女の絶望を見つめ返した。


 ――ドン、と。


 腹の底に響くような重低音を残し、鉄の扉が無慈悲に閉ざされた。


 視界から彼女の姿が消え、残されたのは静寂と、掌の中で鈍く光る金貨二枚だけ。


 俺は一度だけ強く拳を握り、それから迷いを断ち切るように前を向き、果てしない異世界を歩き出した。

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